逃走する者、追い込む者
路地に続く小さめの扉から、少女が静かに、だが素早い動きで抜け出した。
すぐに背後から鋭い声が聞こえたが、カリダは振り返らない。
路地を全力で駆け抜け、大通りを横切り、追いかけてくるはずの彼らを振り切るため、体力が続く限り縦横無尽に走った。
手筈は聞かされていた。
ただ一つ。演技とはいえ、簡単に逃げられるわけにはいかない。モネータとアネッロが本気で追いかけるから、どんな手を使ってでも逃げ切れ。そう言われていた。
カリダは必死だった。腹が満たされ、動けるようになったとはいえ、力加減の出来ないモネータに張り飛ばされた記憶は新しい。
というか、昨日の話だ。
アネッロに至っては、それこそ嬉々として容赦のない行動に出るだろう。
ダニーを追い込んだと、確かに言っていた。闇雲に、ただ走っているだけでは、捕まるのも時間の問題だった。
陽の入らない薄暗い路地の先に、縦に細長く明るい日差しが入り込んでいる。
無意識に、その場所へと引き出される気持ちにさせられたが、カリダは自分自身の焦りに逆らうように立ち止まった。
――このまま進んではいけない。
そう予感していた。何がどうと説明は出来ないが、カリダは急いで辺りを見回した。
少しして、光の向こうからモネータが現れたが、誰もいない細い路地に足が止まる。
「……いない?」
追い込んだはずだと思っていたのだろう。
薄暗い路地ではあるが、まだ昼間である。見失うはずがなかった。
カリダが来たはずの路地を、モネータは辿るように駆けていった。
人の気配がなくなり、戻ってくる事もないと確信するだけの時間がたってから、カリダは木材で作られているゴミ捨て場の蓋を押し上げた。
「ダメだなあ。隠れられる場所は、確認してくもんだろ」
そう呟いて、彼女はゴミ捨て場の蓋をきちんと戻す。
衣装や体が汚れる事など、生きるためならば、カリダは意にも介さない。
どこか高尚さが見えるモネータには、女子供がゴミにまみれるなど、考えもつかないのだろう。
現れたのがアネッロであれば、見つかっていたはずだ。賭けではあったが、追い込む役はモネータだろうと踏んで正解だった。
彼とは逆の、今度こそ光溢れる場所へ出る。自分がいつも潜んでいた場所を避けて、路地から路地へと抜けていく。
狭いが、三叉路に分かれている道でカリダはやっと足を止め、あがってしまった息を整える。
相手は二人、万が一見つかっても逃げられるはずの場所だ。そして、カリダには目星がついている場所でもあった。
路地の陰が濃く、光の具合が弱まっている事に、夕暮れが近づいているとカリダは感じた。
「今日だったら、この辺のはずだけどな」
「ああ、ここにいましたか」
ゆったりとした男の声に、カリダは文字通り飛びあがる。
慌てて振り返れば、アネッロが短鞭を取り出した所だった。
「早いな」
「プロですからね」
「モネータは……」
「あれは、後で説教しておきますよ。まずはお前が先でしょうね」
アネッロが一歩踏み出せば、カリダは彼から視線を外さずに二歩後ずさる。
背後に続く左右に分かれた逃げ道の、左方から人の気配を感じた。
アネッロから眼を離さず、まず頭だけ左方に向けてから一瞬だけ目玉を動かせば、金髪頭が目に入る。
瞬間、カリダは右方へと全力で駆け出した。
砂を踏む追っ手の、徐々に近づいてくる足音は、恐怖以外の何物でもなかった。
カリダの意識が、後ろにとらわれていたせいか、前方にいた誰かに気づかず思い切り突進していた。
大人だと思われる体躯と一緒に、地面に転がるが、カリダは謝罪するでもなく舌打ちをし、すぐさま飛び起きる。
だが、すぐに動きを封じるように腕をつかまれた。
力の限り暴れたが、一緒になって転がった男がやっと起き上がり、カリダを取り押さえる。
「ああ、助かりました。その子供をこちらに寄越してもらえますかね」
その声で、捕まえたのがアネッロではないと判明し、自分を取り押さえている二人の人物を見る余裕が出た。
白い衣装に身を包んだ男女二人組だった。女の方は、すでにカリダの腕を放し、アネッロと対峙している。
「……何の真似ですかね」
剣呑な声色をにじませて、アネッロが敵意を示す。
だが女は引かなかった。
「この子供を、どうするおつもりですか? そんな物騒な物、しまって下さいませんか」
「物騒? この世の中、物騒な事ばかりでしょう。自分の身は自分で守るのは当然です」
「こんな子供に対して、暴力を働くつもりなのですか?」
そう言われ、アネッロは白ずくめの彼女から眼を離さぬまま、ゆっくりと鞭をベルトに差した。
「その子供を、返していただきたい」
「……返す?」
女は、怪訝な顔を隠さずに言えば、アネッロは笑顔で頷いた。
「ええ、私の子供でしてね。悪さをしたものですから、しつけなくてはなりません」
「暴力を、しつけと混同しないでいただきたいものです」
「混同などしていませんよ。ただ、分からない者には分かるように教えなくては。それが親というものでしょう」
笑顔だが、その眼に冷たい光を浮かべると、さすがに女は足を半歩引いた。
カリダを羽交い絞めにしている男が立ち上がり、声を荒げた。
「あんたが親であると、我々は認めない!」
「あなた達に認められる筋合いはありませんよ。戻ってきなさい、カリダ」
陰りを深くする路地で、アネッロは右手をカリダに向ける。
逃げ出そうともがいていたカリダは、体を震わせて動きを止めた。
本心としては、仕事とはいえ孤児院に戻る事は嫌悪でしかなかった。だが今、目前にいる暗い双眸を向けてくる男の手を、例え計画がなかったとしても、心底取りたくない。
嫌だと言えば、『牢屋』を肯定する事にはならないか。
だが、計画としてはここでアネッロを否定しないと話が進まない。
口の中から水分がなくなっていくのを感じた。
白装束の男女とアネッロが、カリダの判断を待っている。
声が、うまく出せそうになかった。ほんの数分、いや数秒だったのかもしれない。
ひんやりとした冷たさを持つ風が、カリダの前髪を煽っていく。汗をかいた体が少し冷やされ、緊張していたのだと気づかされる。
カリダは小さく息を吸い込み、吐き出すと、新鮮な空気を取り込んだ事で思考が動き出した。
そうだ、とにかく孤児院に潜り込まなくてはならない。
首を、横に振った。弱々しいものになってしまったが、二人組は、それを見て勝ち誇った顔で胸を張った。
女が高らかに宣言する。
「子供の意思を尊重します。あなたには、正式に親権剥奪の通知が届けられます。どうぞお引取り下さい」
「……簡単に、引き下がると思いますか?」
アネッロは、一歩も動いていないが、二人ともすでに逃げ腰だった。
「我々は、領主の庇護下にあります。手出しをすれば、ただでは済みませんよ」
「どうなると?」
笑顔を消し、ベルトに手をかければ、男が笛を取り出した。
仲間を呼ぶためのものだろう。アネッロが小さくではあるが舌打ちをすると、男が口の端を持ち上げて笑った。
「聞き分けが良くて助かります。お引取り、願えますね?」
背筋も凍りつくような眼を向けられ、二人は少し怯えた顔をしたが、アネッロは無言で背を向けた。
カリダを含めた三人は、去っていく背中に、心から安堵した。
二人のように、あからさまに息を吐き出しはしなかったが、カリダは勝ったと思い込んでいる二人に、心の中でため息を吐く。
簡単に騙されすぎだろう。と思う反面、アネッロの迫力があったからこその成功かと実感していた。
そういえば、モネータの姿が見えなかったが、カリダにはどうでもいい事だった。
演技とは思えないほど、アネッロには殺気が満ちていた。夕暮れが近づき、色濃くする彼の表情は、暗く燃えていた。もう一度身震いすれば、男はカリダから腕を放し、頭をなでた。
「カリダだね。長く逃げていても、良くない事ばかりだっただろう。女の子なのに、酷く殴られたようだね。もう大丈夫だよ」
にこやかに笑う二人は、精神的に解放されたからか穏やかだった。
外回り組は、孤児院の内情を知らない教会からの新参者が担当していた。逃げ回っていた頃に見聞きして分かった事だったが、カリダはただ曖昧に頷いた。
それを言ったとしても、聞き流されるだけだろう。
孤児は、嘘を言って逃れようとする。善意で行動している彼らには理解しがたいが、保護する事が孤児のためになる。と、心から信じているのである。
「大丈夫よ。きちんと冷やして、ご祈祷をいただいたら腫れも治まりますから」
女が優しく笑う。
祈れば、なんでも叶うと思っているのだろうか。だったら、自分はこんな風に生きる事などなかっただろうに。
どうして、その矛盾に気がつかないのか。
もちろん彼らからしてみれば、信心が足らないからと一蹴するのだろう。
結局、そんな事を言っても鞭で打たれるのだ。そんな実態も知らないような連中に、何も言う事はない。
「さあ、戻りましょう。皆が待っていますよ」
男がカリダの手を取る。逃げられないためだろうが、その手に痛みを感じたが、我慢した。
吹く風が、甲高い悲鳴のような声をあげている。
何度、その声を聞きながら。何度、牢屋の大人達を呪ったか。
正義を達成したこの幸せな男女は、今後も真実を目にする事はないのだろう。