路地裏の災難
パン屋に差し掛かると、小麦の焼ける良い匂いが漂ってくる。
人の波が一旦途切れ、店先に出ている若い売り子達は休憩に入っているのか見えなかった。
声をかけるでもなく通り過ぎ、検死書類に書かれていた場所へと進む。
町を囲むように造られている壁まで出れば、人通りも少なく静けさが広がっている。城壁に沿って、北門の方へと足を向けた。
少し行くと、甲冑を身につけた兵士が二人、誰もいない場所で微動だにせず立っている。おそらくそこが犯行現場なのだろう。
人の気配に、手前の男がアネッロへと顔を向け――気づいた二人は揃って右手を左胸に当てた。
少しだけ手を上げて、彼らに手を下ろすように声をかける。
「お久し振りです、ジュダス殿」
「フレッドとナックか、私はもう領主の騎士ではありませんよ。それで、何か異常は?」
「……詳細は、申し上げられません」
アネッロが茂みへと眼をやれば、フレッドと呼ばれた彼が困ったような表情を浮かべた。
「それよりも、私に気がつくのが遅れましたね。敵は今の技術にはない物を使用している、油断すべきではないでしょう」
温和な態度を、少し肩を上げ胸を張る事で尊大で威圧的に豹変させ、一歩彼に近寄る。
笑顔を作らず、鋭い眼で正面から彼を見やれば、兵士である彼は緊張して直立した。
「はっ! 失礼致しました!」
おもわず胸に手を当て、アネッロに対して敬礼する。
その様子を見て、隣に立つ男が堪えきれずに吹き出した。
「ジュダス殿も、相変わらずですね」
「人間は変わりませんよ。変わったと思うのは、元々その者が秘めていた性質が……」
「表に出ただけ、ですね。まだ頭にこびりついていますよ」
楽しげに笑えば、フレッドの篭手がナックの腹を覆った鎧の鳴らす。
「アネッロ殿、お引き取り下さい。ここは一般民は立ち入り禁止です。それに、アネッロ殿は要注意人物として聞いております」
「まあ、そうなるでしょうね」
小さく肩をすくめて見せ、気を張っていろと注意してその場を後にした。
背後から鎧の鳴る音が聞こえた事から、敬礼しているのだろうと思ったが、それについて否定する事はしなかった。
一通り見える範囲は、見た。思い浮かべれば細かい部分まで思い返せる。
吊るされたという樹木には、傷があった。自らロープを縛り、飛び降りたのであればつかないわずかな擦り傷が残っていた。
他殺。そうアネッロの頭をよぎる。
大男を吊るす力は、女子供にはないだろう。もちろん人数が揃えば出来ない事はないだろうが、いかに深夜とはいえそれだけの人数が動けば人目につかない方がおかしい。
西門へと向かいながら、アネッロは考えを巡らせる。
城壁を伝って回り込むよりも、路地を抜けて行ったほうが早い為、最初の路地へと踏み込んだ。右へゆるい弧を描くように伸びる道を進む。
入ってきた通りが見えなくなって数分もたたない内に、先の方から数人の言い争う声が聞こえてきた。
ベルトに差してある短鞭の存在を、ベストの上から確認する。
右壁に寄り、足音を消して慎重に進めば、二人の男の背中が見えた。
壁に背をあて、息を潜める。
彼らの言い分は、ありきたりなものだった。
要するに、金を寄越せ。という話だ。警邏を呼んでやってもいいが、眼をつけられているだけに話を通すまでに時間がかかる可能性もある。
耳を澄ませ、相手の動きを地面を踏む砂の音で判断する。
動いている人数は四人。一人が壁に叩きつけられた。低いうめき声と嘲笑。少し離れた所からやめて下さいと悲鳴に近い懇願する声をあげるのは少女か。
その辺りから、少女の砂利を踏む軽い音とは違い、体重のある者の足音が二人分。
敵は、五人。それ以上の音は聞こえてこない。
短鞭を引き抜くと同時に、男達に突き飛ばされたのだろう血まみれの男が、アネッロの潜む逆の壁へと強く打ちあたり、ずり落ちる。
それでも意識は失っていないのだろう。腫れていない右目が、アネッロを捕らえた。
男達が近づき、倒れている男に手を伸ばしかけた。
目の端にアネッロが映ったのか、動きを少し止めた男の脇腹を、アネッロは鞭を下から振り上げる形で容赦なく打つ。
鳩尾に食い込むほどの威力で叩き込めば、男は息が出来ず白目を剝いてくずおれた。
「どうした!?」
急に倒れた男に、何が起きたのか分からなかったのだろう。
思いもよらない出来事が起こると、人間は思考能力が低下し、よほど訓練された者でない限り一瞬だが動きが鈍る。
その隙を、アネッロは見逃さなかった。
五歩。次の男までの距離をそう判断し身を低くして飛び出せば、男達の顔は一様に驚き――表情を変える間もなく二人が地面に突っ伏す。
さすがに少女を捕まえていた男達は、判断力を取り戻していた。
彼らまでの距離は――考えるまでもない。アネッロは長鞭を外し、ナイフを取り出した一人に向かって振るい、打ち落とすと同時に走りこんだ。
驚愕に眼を見開いた男のこめかみを短鞭で打てば、男の眼が小刻みに揺れる。動けなくなった彼の横隔膜の辺りを長鞭を握った左のこぶしで強く殴り、膝の裏を強く蹴るとすでに意識のない男の膝はおかしな音をたてて地面に打ちつけられた。
焦燥しか浮かんでいない最後の男は、少女の首元に刃渡りの長いナイフを押し付ける。
「近づくな! 女を殺すぞ!」
はっきりとした声を聞いたのは、この男だけだった。
だが特に興味を示すわけでもなく、右手にある短鞭を振って風を切る音を出す。
音だけだが、四人があっという間に倒された武器でもある。その音を聞くだけで焦りが増す事を、アネッロは知っている。
もう一度風音を切れば、少女を盾に小さく後ずさった男は、声を荒げた。
「手に持ってる武器を全部捨てろ! こいつが殺されてもいいのか!」
「構いませんよ。知り合いでもないですし」
そう言いながら、短鞭を持った右手をゆっくりと横に伸ばし、手を開いた。
アネッロの言っている事に息を呑み、武器を捨てた行動を見て安堵していいのか混乱したのだろう。
気づいた時には、ナイフをあてている方の腕に、長鞭が巻きついていた。
鞭を引き、首からナイフが離れた時。少女が自分を捕まえていた男の足の甲を、怒りをぶつけるように立て続けに三度踏みつけた。
たまらず彼女から手を離せば、少女はすぐさま父親だろう男の元へ走った。
力任せに相対する男は、右手に持っていたナイフを少し持ち上げ、にやりと笑う。
「俺はまだナイフを持ってる。あんたにはこの鞭しかない、どっちが有利かわかってんだろ」
「私が、これしか持っていないとでも?」
そう言うと、男は笑みを消し顔を強張らせた。
使えない右手から、ナイフを取ろうと左手を寄せた時、アネッロは長鞭を緩めた。
力任せに抵抗していた右手は、自らの胸を強く叩き、ナイフを落としかける。
はっとして視線を上げたが、すでに懐に潜り込まれていた。
声を上げる事も出来ず、男が最後に見たアネッロの顔は、笑っていた。