路地裏の医師
太陽がいくらも傾かない内に、本日分の回収は円滑に終了した。
モネータが取り立てるはずの女性達は、一様に不服を前面に押し出していたが、彼の不遇は知れ渡っていたのだろう。三人の女性達は違う場にいるにもかかわらずアネッロに対する態度は、同じようなものだった。
あきらかに仕方なく目の前に座る借主は、商談の間まったく口を挟む事はなく顔を背け、侍女が金を持ってくる。
金を勘定し、アネッロは二枚の書類を取り出し、彼女に書類の内容を確認させサインをいただく。
そして一枚は領収した証明として彼女に渡し、もう一枚は控えとして鞄にしまって終了になる。
それまで借主の女性達から、一言も発せられる事はなかったが、最後にアネッロが立ち上がると、にらむように眼を向けて、同席していたわけでもないのに口を揃え、次こそはモネータを寄越してくれと要望して、アネッロを丁重に追い返したのだった。
他の店も何件か集金に回ったが、金を返し渋る店主を脅しすかしながら、確実に回収していく。
道すがら、肉屋で下処理された鶏を一羽買い、紙に包んでもらった。
それを手に、広場から西の路地へ入る。
ある扉の前で足を止めると、アネッロはノックもせずに扉を開けた。
鼻につく薬品のにおいが充満した中、壁に沿って並べられた椅子の前を通り過ぎ、少し奥の扉を叩くと、どうぞと柔和だが疲労を感じる声が返ってくる。
「ああ、アネッロさん。そろそろ来る頃だと思ったよ」
扉を開けると、小さな部屋ではあるが窓が大きく明るい雰囲気の診察室だった。
本が積まれた机と、椅子が二脚。そして簡素なベッドが一つ置かれている。
机の前に置かれた椅子に腰かけた白衣を着た男が、やはり疲労の濃い顔で笑って見せた。
この小さな町で唯一の医者をやっている男だ。四十を半分ほど越えた彼――ジャックは、ゆっくりと左右に頭を傾けて首の筋を伸ばす。
アネッロは紙の包みを、簡素なベッドの上に置いた。
「それは、鳥か?」
「ええ、そうですよ」
そこは滅菌済みなのに、だの。また気軽に置いて、だのと口の中で文句を言いつつ立ち上がり、嬉々として包みを両手で持ち上げた。
「焼いてやろうか、茹でてやろうか。やはり丸のまま調理するのがいいな」
「持ち込まれた遺体の話を聞かせて下さい」
「腹を満たしてからだ」
包みに頬ずりしそうな勢いの彼に、アネッロは小さく肩をすくめた。
それを見もせずに、ジャックは早足で診察室から出て行く。
「書類は?」
扉越しにそう声をかければ、少し離れた辺りから青い紐のヤツだと聞こえてきた。
アネッロは慣れた様子で、机の引き出しをためらいもなく開けると、青い紐で閉じられている書類を引っ張り出す。
それは、ダニー=ドルトンの検死書類だった。
人体に刃を入れる解剖は、死者への冒涜という理由で禁止されている。だが、秘密裏に行われているその事実を知った上で、国は沈黙を保っていた。
抜き打ちで手入れを行う場合もあるが、それによって捕縛される人間は少数だった。
拷問をすれば確実に吐露するとはいえず、冤罪が横行しているのも事実だからだ。
少しでも証拠や状況を得るために、意見を聞く場合もあるのだ。
だからといって死者の家族の手前、おおっぴらに切り刻む場所があるなどとは言えず、口を閉ざすしかない状況だった。
大きな失態や、眼をつぶる事の出来ない不手際があれば、命を弄んだと死刑にされる場合は往々にしてあるため、解剖医は陰に潜む事になる。
アネッロは遠慮なく白紙の表紙をめくる。
手書きで細かい所まで描かれている臓器や、それに関する所見に眼を通していく。
肉の焼ける良いにおいがただよってきたが、書類をめくる手は止めない。
「……首への圧迫痕、睡眠剤の痕跡あり。過剰暴行の形跡なし」
使用されたであろう細縄は、ごく一般的に出回っている物だと書かれていた。
首に刻まれていた縄の痕跡に少量の粉が付着しており、その粉は細縄を編む時に使われる物と酷似している、などと事細かく記載されている。
全てに眼を通し終わった頃、扉が開いた。
「アネッロさんも、食べるかね?」
「いや、遠慮しますよ。これだけですか?」
「ああ、それだけだ。自殺じゃないようだがね」
そういって、出て行く彼の後ろ姿を見送って、書類をあった場所に埋もれさせる。
彼の向かった先に足を向ければ、香ばしい香りのする部屋に、アネッロの分のお茶が用意された所だった。
鶏肉は、一羽まるごとジャックが席につくであろう場所に寄せられている。
アネッロは真向かいの椅子に腰掛けると、変わった香りのするお茶が入ったカップに手をやった。
ジャックが満面の笑みで席につくのを待ってから、口を開く。
「自殺ではないという理由は?」
「ああ、取調べのお嬢ちゃんにも言ったけどな、現場に縄がなかったし踏み台にしただろうはずの物も見当たらなかった」
「子供が持ち去ったとも考えられるだろう?」
「現場に着いた時にはすでに下着一枚だったんだぞ。浮浪者が身包みはいだってのも考えられるかもしれんが、違うな。死後大きく動かされた形跡はない。切られた指の方の腕を除いてはな」
喋りながらフォークで肉の塊を押さえ、ナイフを入れていく。
片方の眉を上げて、ジャックはいたずらっ子のように小さく笑った。
「人の事は言えんが、あのぶよぶよの巨体で裸のまま木に登って、自分の首に紐をかけて飛び降りたとでも言いたいのか? 無理だろうね」
「薬のせいか?」
その問いに、ジャックがそれもあると答える。
「少量だったら今の技術では発見しづらかったろうが、それと分かるほどの濃度だったよ。馬にでも使う薬だな。息が止まってもおかしくないほどの薬を盛られてかろうじて生きてはいたが……あれでは何をされても抵抗は出来んだろうよ」
物騒な内容を口にしつつ、合間を見て肉を口に入れる。
アネッロがカップを置いた所で、ジャックはフォークの先を彼に向けた。
「薬飲んでから飛び降りればとか捜査の嬢ちゃんは言ってたが、あの図体だ。素っ裸じゃなくても擦り傷や小さな痣くらい出来るだろうよ。だがそれもなかったし、手の平や爪の間、どこにも木屑は付着していなかった」
「実は木登りが得意だった。という事も考え得る」
自分でも白々しいとは思いつつもアネッロが反論すれば、ジャックは小さく首をすくめた。
「なくはないがな」
「ダニーが腹いせに裸で死んだ……? いや、あの男ならば自ら死を選ぶような真似はしないだろう。死ぬくらいならば、私に対して直接なり、間接なり嫌がらせをしてくる奴だ……やはり他殺、か」
「十中八九な。だがお前さんの探している犯人かどうかまでは分からんぞ」
「そこまでは望んでいませんよ。それこそ捜査班の仕事になりますからね、私がどうこう言える立場ではありませんし」
どうだかな。と言ってから、大きめに切った肉を口に押し込んだ。
「新しい発見があれば、連絡頼みます」
「ああ、何か見つかればな」
アネッロが立ち上がり、ジャックが追い払う仕草でナイフを振って見せる。
お互いに用事は済んだとばかりに、アネッロは振り返る事なく部屋から去り、ジャックも彼を見送るでもなく肉に没頭した。