警鐘
子供達は、すぐに警邏を連れてくるだろう。
何かあれば、まず細かく状況を分析しろと言われていた。考える事をやめるな、と。
動かない男を見たところで、人体の専門家ではないモネータには、新しく発見出来るものはない。
仕事は今日中に終わらせればよく、考えの中から排除した。
事情を聞くために連れて行かれるのは当然として、死んでいるのがアネッロに借金をしていたダニーである事実だ。
誰もが知る、事実である。しかも昨日、夜逃げしたばかりだ。
事実を正直に話すだけだが、手間取る事は確かだろう。もう少しだけ、茂みを奥まで覗き込もうとして――ふと右方へ眼をやった。誰かが、いたような気がした。
だが、路地には猫一匹すらいなかった。風とも思えなかったが、この場を動くわけにもいかない。武器はないが、殺される手前ほどの体術を、アネッロやガトに叩き込まれてきた。誰かを打ち倒す自信などないが、それでも一矢くらいは報えると思っていた。
万が一、犯人が戻ってきたとしても、警邏が到着する頃までは持ちこたえる。モネータは静かに息を整え、油断なくその場に立ち続けた。
いつもよりも人通りが多い市を、少し白髪の混ざった頭を後ろでくくり、背中を丸めてゆったりと歩く初老の男。旅行者のように荷を担ぎ、人の波に逆らわず歩いてはいるが、どんなに混み合っていても、すり抜けていく。
ジュダス商会の、立派な扉の前で足を止め、金を借りる後ろめたさか、軽く辺りをうかがった。扉を開けて、軋む階段をのぼっていく。
ジュダス商会と書かれた扉の前に立つと、さきほどとはうって変わって無造作に扉を開けた。
机に向かっていたアネッロは、その人物を認めるとまた書類に眼を落とした。
「ジュダスさん。景気はどうですかね」
歳相応のしわがれた声は、苦笑を含んでいた。
背負っていた荷を降ろし、男がやれやれと肩を回した。羽ペンを立て、アネッロは眼鏡を外す。
「何か問題が?」
「まあ、あの指一本ってのは仕方ないがね。こっちの落ち度分ですしね」
「当然だ」
「相変わらずだなあ」
低い声で小さく笑い、小汚い身なりのまま伸びをした。
卑屈な初老の男から、白髪混じりではあるが強い眼をした若い男に変化して見えた。背中を伸ばし、表情を変えるだけで、大分印象が違って見える。
そして次に口を開けば、驚くほど若々しい声が聞こえてきた。
「そういえばここに来る前、図体のでかいお坊ちゃんが厄介なもん見つけてたな。この店も手入れがあるかもしれませんよ」
「そんなものはどうとでもなる。ノーチェフ、用件は何だ」
追い出すとしか聞こえないその言い方に、ノーチェフと呼ばれた男はひょいと肩を持ちあげた。
「そんな急かさなくても」
アネッロが、置いたばかりの眼鏡に手を伸ばせば、ノーチェフは左の親指で眉をなでる。
「分かりましたよ、気が短いんだから。山向こうのネダーソン領に魔法使いが出ましてね、酷い有様でしたよ。小火騒ぎや大きな爆発が頻発して、ラクルスィの手先だと一時騒ぎ立てた奴もいたようですよ。何世代も前のいざこざを、当時を知らない奴らがまだわだかまってる。あ、結局犯人は見つからずじまいで」
「お前は、何をしていた?」
「そんな怖い顔しないでくださいよ。俺だって四方八方に手を尽くしましたが、分からなかったんです」
「手を尽くした?」
立ち上がり、短い鞭を引き抜いた。
アネッロがその場で鞭を振り下ろしても、当たる事はないが、ノーチェフは半歩後ずさる。
「そのつもりでしたが、足りなかったのかも……」
アネッロはその場を動いてはいない。だが先を促す険のある目つきに、ノーチェフはさきほどとは違うほうの足を一歩さげた。
「手がかりが、ここで起こった五年前と一緒だったんですよ。黒い布切れが空を飛ぶっていう話だったんで覚えてました。町の奴らはホラ話だと笑ってましたがね。人間に羽が生えてりゃ、嫌でも目立つってね。目に付くような物だったら、どこにあっても分かると思ったんですが」
なかったのだろう。
シェーンの時と同じだった。人が飛ぶなど、そんな眉唾もののような特殊な物であれば、どうしても目に付くはずだが、跡形もなく消えたのだ。すべての家の屋根裏まで探したが、それらしき物は発見出来なかった。
「捜索の手はゆるめていません」
「アイネスの木で出来た棒は、見たか?」
「え? そりゃ見ますよ。硬いわりに弾力も持ち合わせていて、扱いやすいんでしょうね。そこかしこで見かけますが」
「捨てられていなかったか、という話だ」
「いや、見かけませんでしたが。材木屋の仕業ですかね……調べをつけます」
特に表情に出したわけでもないが、ノーチェフは彼の返事を待たずに、おろした荷に手を伸ばした。
「それで?」
言って、アネッロは鞭を腰に戻した。
ノーチェスは軽薄な――そのように見える男ではあるが、異常ともいえるほどの怖がりでもある。それを表に出す事はないが、生きのびる事に関して、これ以上の逸材はいない。
「それで、と言われてもね」
荷物を担ぎ、背中を丸める。ノーチェスがにやりと笑えば、違う男がそこに立っていた。
「この町に来て、誰かに命を狙われたか?」
「そりゃあもう、どこにいても針のむしろさ。人が群れている場所なんて、どこに刃が潜んでいるか分からんよ」
しわがれた声は、つい今しがた話していた男のものとは思えない。
「見かけただけで、子飼いの若造が殺気を放ってきたしな。どいつも油断ならん。怖い世の中だなあ」
そう言って、出て行きかけると思い出したかのように彼は振り返ってきた。
難しい顔をして、しわを刻んだその顔は、酷く深刻なものに見える。
「そうだ、すぐそこで酷く崩れた建物を見たな。あれは、おれがネダーソンで見た爆発と同じにおいがした」
「におい?」
「ああ、前にジュダスさんが見せてくれた燃える砂のにおいと同じ物だよ。そうか、指をなくしたあいつは、それに狙われたのか。怖いなあ、あいつの指を受け取ったのがおれだとばれたら、それに狙われる可能性があるじゃないか」
ぶつぶつと口の中で文句を言いながら、ノーチェスは出て行った。
静寂に包まれた一室で、アネッロは小さく音を鳴らして椅子に腰かける。
ノーチェスが戻ってくる事はないだろう。それぞれが自分のすべき事を知っていて、独自で動く。
彼自身がわざわざアネッロの元へと報告に来ることは、滅多にない。
そんな奴が現れたという事は、今回の爆発が、今後よほどの事態を招きかねないと思っているのだろう。
シェーンが襲われた五年前から、その日になると、手紙が扉に挟まれていた。
その文面は、いずれも好意的なもので、最初のものから徐々に好意が増してきているように感じてはいた。
そして、今回受けた手紙の内容は、好意の先へ進んだと思える。――執着だ。
アネッロは、眉間に右手指をあてた。
苛立つ気持ちを静めるように息を吐き出すと、眉間にあてていた手で顔をなでる。
「初めから、こうしていればよかったのか」
アネッロの眼が、暗く光った。強烈な殺意を身にまとわせて、怒りを発散させる。
一度眼を閉じて、ゆっくりと開けば、闇に似た色の瞳には、穏やかさが戻っていた。
アネッロは、自分のせいでシェーンが。などとは思わない。
こういう状況にした責任は、自分やシェーンが存在してしまったからではなく、犯人である異常者の存在にある。
己のした事には、責任が伴うのだ。
その矛先を、何者かが自分に向けた。その代償が、どれだけのものになるのかも分からずに。
アネッロは、無表情のまま眼鏡をかけた。