秘密裏の商談
木の陰から出てきたのは、さきほど棒を振るっていたうちの一人だった。
甲冑を身につけているわけではないが、領主抱えの騎士だろう。簡素な身なりとはいえ、礼儀正しく、振る舞いに隙がない。帯剣しており、左手が鞘に置かれているのを、さりげなく眼で制しておく。
「……折り入って、お願いがあります」
アネッロは眼鏡をかけなおし、まっすぐ彼を見た。
「どのくらい入り用で?」
「金の話ではありません」
「では、私に出来る事はありませんね。失礼」
笑みを浮かべ一歩踏み出せば、男は気圧されるように下がる。
だが、引き下がりたくはないのだろう。半歩で踏みとどまった。
「私は、ルノア=ミリス。ジルニア卿の……」
「名は重要ではありませんよ。客でない人間にも、用はないのでね。失礼」
「待ってくれ!」
再び歩き出そうとするアネッロに、ルノアと名乗った男は慌てて行く道をふさいだ。
次なる行動に、アネッロは顔をしかめた。一介の金貸しに、騎士ともあろう者が頭を下げたのである。
「そこまでして金貸しに願い出る事、ですか。聞いた上で断れば……おそらく、斬り捨てるのでしょうね」
ルノアは頭を下げたままで、表情は読み取れない。
だが返事がない事から、それは肯定であると言っているようなものだった。
周囲の気配を探ったが、相手は目前の一人だけと知れる。逃げ切ろうと思えば出来ない事はないだろうが、一人とはいえ、相手にするのは鍛錬を積んだ騎士である。
あらゆる反則技が脳裏に浮かび、消える。アネッロは、密かに嘆息した。
「なぜ、私なのですか?」
話を聞くつもりはないが、下手に手負わされる事もやむなしとはいえ、目の前の男は領主の騎士である。その彼を絶命させる事が出来たとしても、結局はこちらの生死にかかわる事になるだろう。
ルノアは、顔を上げると硬い表情を崩さずアネッロを見た。
「バルコニーでお見かけした時、他の金貸しとは違う反応をしていました。怯えるでもなく、ジルニア様に媚びるでもない。客である我が主を、信用されてはいない。毎回馬車を断る事もそうですが、笑っていても終始警戒しておられる」
アネッロは、笑った。ジルニアの前にいた時と、同じ作り笑顔だ。
「面白い事をおっしゃる。ですが……あながち間違いでもありませんがね。私は客を信用しない」
「私は客ではありません」
「願い出た事で、客に値すると思いませんか?」
「ジュダス殿は拒否された。ならばこれは噂話の立ち話という事になりませんか」
言っている事がおかしい、と自分でも思ったのだろう。ルノアは言ってから、小さな声で無理があると呻いた。
笑みを張り付けたまま、アネッロは内心苦笑した。
「その通り、無理があります。なぜなら、聞いただけで斬り捨てられる類の話なのですからね」
「ジュダス商会は、金になる話ならば断らない。とも聞いています」
「……なるほど、それを持ち出しますか」
アネッロの表情から笑顔が消え、剣呑な色が瞳に浮かぶ。
金を稼ぐために、確かに後ろ暗い事もしてきた。こちらの命をかけさせて依頼してくるような連中も、存在した。しかしそういう連中は揃いも揃って、依頼が成功しても金を払わない。
もちろん、手を尽くして回収してきたが。
ルノアを値踏みするように見据えれば、彼は切迫した顔のまま眼を逸らさない。
「これは例え話ですが」
一拍置いて、アネッロはため息を吐いてから言葉をつむぐ。
「万が一、ミリス殿の話を認めたら連行され、ジルニア様の利子や借金が帳消しになる。といった話ではありませんよね」
「そんな小さい話ではありません」
にこりともせず、ルノアは態度を崩さない。
「……小さい、ですか。大問題なのですがね」
「私以外、誰も知る事のない。内密な話なのです」
息がかかるほど近くまで詰め寄り、声をひそめたルノアを、アネッロはやんわりと押し戻す。
「前金を」
「は?」
話が突然変わり、頭が追いつかなかったのだろう。眼を見開いたルノアに、アネッロは口の端を持ち上げる。
「どうやら私は命がかかっているようですし。話を聞く段階で、前金を支払って頂きます」
「しかし、ジュダス殿が断った場合……」
「それは話次第ですが。前金はどちらにしてもお返ししません。斬り捨てるならば、私は全力で自分の命を守りますよ。屍からミリス殿は金を取り返せばいい」
ミリス殿が負ければ、金はそのままになりますが。と目を細めて見せれば、苦笑ではあったがルノアは笑い、腰に巻いていた鞄から小さな包みを取り出す。
「そう言われると思いました。前金として、一万ソルド。成功報酬は十万」
さすがに、アネッロは驚きを隠さなかった。
騎士とはいえ、それだけの額を動かす事は全財産をかける事に匹敵している。ルノア=ミリスは、優秀な騎士であったはずだが、ジルニアの元にいる連中は、扱いも給金の支払いもそれは酷いものだと聞いていた。
ジルニアの元で働いているという事を鑑みても、現実的な値段とは思えない。働きに見合う額は、この領主の元では支払われていないはずだった。
「ミリス殿」
アネッロは眉を寄せ、低く唸るように声を出した。
この金額では足りないのかと、ルノアは強く言葉を発した。
「私の全財産を投じても、惜しくはない」
「そういう話ではないのですよ、ミリス殿。あなたは分かっておられないようだ」
「何か、不都合でも? 成功報酬を、倍にしても構わない。一生働き続け、返し続ける事になるだろうが」
「そんな簡単な話ではないのです。いいですか、ミリス殿がジルニア領に仕えている限り、こんな大金では足がつくと言っているのです」
今度は、ルノアが眉間にシワを寄せる。
言い返そうとしてくるルノアを、アネッロは右手の平を彼に向け、黙らせた。
「そんな大金を動かせば、どこからか必ず漏れます。家を建てたわけでも、高価な宝石を手に入れたわけでもなく。金は消える。ジルニア様の命で、あなたの仲間である騎士達が動き、犯行はあっという間に露見するでしょう」
「そこは……」
「うまい事やるとでも? 土台、無理な話だったのです。良かったですな、内容を伺う前にこの取引は破綻していた」
失礼。と会釈をして歩き出すと、俊敏な動きで彼は後ずさり剣を抜いた。
アネッロは、ただ眼を細める。
一介の金貸しが、抜き身の剣を見ても動揺しない事に違和感があったのだろう。ルノアが訝しげに眉を寄せた。
「やめませんか、ミリス殿」
「もう、後がないのだ! 今を逃せば、あの方をお助けする手立てがなくなる」
「……勝手に話を進めるおつもりですか」
「そうだ」
剣を収めるでもなく、必死の形相で一歩踏み出してくる。
アネッロはゆっくりと彼の正面へと向き直った。
「私が、一介の金貸しだというのに?」
「そうだ。だが、ジュダス殿は金貸しにはない鋭さを持っているとお見受けする」
真剣なルノアに、アネッロは作り笑いとは違う、快活な笑い声をあげた。
楽しげに聞こえるその声に、ルノアは息を深く吐き出して、剣を収めた。
「失礼した。だが、支払いの件は追って考えます。ですから、どうか……」
「ミリス殿が助けたくとも、あの金髪が応じるかは疑問が残りますね」
さらりと確信を口にすれば、ルノアは何かを言おうとしたが言葉が出ず、ただ口をきつく結んだ。
今までの環境の中、おそらく正しい事に固執して生きてきたあの男に、ただ尻尾を丸めて逃げ出すような真似は考えもしないだろう。
推測ではあるが、アネッロにも分かるほど、金髪男の眼は雄弁に物語っていた。
苦しそうに顔を歪め、ルノアが重い口を開く。
「……ロウティア様は、高潔であり過ぎるのです。それが我が主には疎ましく、近い内に殺される事になっています」
話すなとは、言わなかった。
すでに足を踏み入れてしまっているのだ、今更聞かないという選択肢はない。
アネッロは無言で先を促す。
「あの方は養子で、見目のせいでジルニア様の欲の捌け口として、その手にかかりそうになり、奥様であるエンシャール様が抵抗したのです。その後、お二人とも西の塔に幽閉されました。その処遇に耐えられなかったエンシャール様が病でお亡くなりになられ、傷心のロウティア様を、ジルニア様は執拗に陥れるような事を……ですが、私はロウティア様をずっと弟のように思ってきました」
ルノアの顔は苦渋に歪んでいた。
爽やかだと感じていた風は、いつの間にか凪いでいる。
むせ返るような草木のにおいは、アネッロの精神を静めていくが、対する彼には何の効果も生み出していないようだった。
「不正を糺すのは当然でしょうが、正面からぶつかるというのは浅はかです。しかし、あの方は平然とそれをやってのける……私は、きっと。うらやましいのだと思います」
「立場の問題ですか」
表情を変えずに問えば、ルノアの顔に一瞬陰がさした。
しかし、それには答えるまでもないと判断したのか、話を進める。
「ロウティア様は、正し過ぎるほど正しい。死ぬ運命だと言われようが、逆らってでも逃がしたい。この領とは関係のない場所でなら、生きられる」
「それで、他の領地から来た私に? それも浅はかでしょう。ジルニア様は、甘くはない」
「分かっています。ですから、死んだ事にして逃がす」
「堂々巡りですね。あの金髪が応じるとも思えない」
「応じさせます。それしか、生き延びる術はない」
「そう簡単に済む話ではないと思いますがね。それに、私がジルニア様に告げ口をしないとでも思っているのですか?」
「それは、しないと思います」
確信を持った表情で、強気に見返してくる。
アネッロは、肩をすくめて見せただけだった。
それを見たルノアは、やっと小さく笑顔を見せた。信用すると腹を決めたのだろう。
「命に代えても、逃がします。ですから、後の事をお願いしたいのです」
その眼は、真剣だった。
こんな商売をしていても、こういう眼をした男は嫌いではない。
だが、簡単に命を捨てるような男に、誰を守る事が出来るというのか。アネッロが軽やかに笑えば、男は不服そうだった。
「何か、おかしな事を言いましたか?」
「策もなく、力押しでしかない事がはっきりと分かりましたよ。しかも、当の本人は知る由もない。こんな薄氷すらない底なし沼を、渡る気にはなれませんね」
何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこなかったのだろう。
押し黙った彼に、アネッロは嘆息した。
「本当に、力押しで事を進めようと? それは頭が悪過ぎる。私もあの金髪は面白いと思っていたが……手に入るのならば、好きにさせてもらいましょう。あなたはいつも通り、怪しまれる事なく騎士として思うように行動なさればいい。それで良ろしいですか?」
「どうする、つもりですか」
「なに、簡単な事ですよ。力押しの方向を変えるだけです」
とても楽しい遊びを見つけたように笑うアネッロに、男は頼む相手を間違えたのではないかと枝葉の隙間からのぞく空を振り仰いだ。