暗い感情
メリッシュの店まで少しの距離ではあるが、楽しそうに腕を絡めて歩く彼女を、通りに面した各店の店番の女が羨ましそうな顔をしたり、明らかに対応出来ていないモネータを見ては吹き出している。
「メリッシュさん、モネータが困ってるわよ」
などと言う声さえ楽しげだ。メリッシュも声をかけてきた女と同じ顔をして笑う。
小さな町のせいか、誰もが顔見知りで気安いせいか、なんでも言い合える雰囲気があった。その中で、モネータもだいぶ揉まれてきているはずなのだが、どう返せばいいのか分からないでいた。
「お! 婆さん、若いの連れて。やっぱり男は顔かね」
店先で座り、パイプをくゆらせていた白髭の爺さんがからかってくるが、モネータは考えに縛られる。
最初にこの町で仕事を始めてから、同じような状況に出くわした。
女性に対して、なんという言い草か。という言い方をした際、辺りが一瞬静まり返り、その後大笑いされていた。何が面白かったのかすら、モネータはいまだに分かっていない。
そして、それを誰も教えてはくれない。真剣な顔をして、何が悪かったのかを問えば、さらに笑われるだけだった。
下手な言い方をしたら、また笑われるのだろう。それだけは、分かっていた。
「連れて歩くなら、あんたみたいな爺さんより若いほうがいいに決まってるじゃないか」
ねえ? と言って、またしても同意を得るように、メリッシュはモネータを下から見上げてくる。
口ごもれば、面白がって覗いていた者は皆笑い声を上げた。
「モネータ、嫌なら嫌だって言ったほうがいいぞ!」
そう言ってくれる言葉も、いつも通りの流れではあるが、モネータもいつものように困り顔で頷くのが精一杯だった。
緩やかにではあるが、足を止めずに歩き続ける事こそ、モネータが今出来る唯一の処世術だ。止まれとは言われない、それすら周知の事実なのだろう。
横槍を受け流しながら、ようやく彼女の店にたどり着いた頃には、満身創痍な気分だった。
両腕が解放されたが、メリッシュの前でため息を吐く事はない。
どんな女性であれ、気分を害する行いはすべきではないと、モネータは亡き母から教え込まれていた。自分もそうあるべきだと信じているため、礼を言ってくるメリッシュにも柔らかく微笑した。
「では、これで失礼します」
「はいはい。ありがとね!」
モネータの右手に握られた鞄を見て、メリッシュは彼へと視線を戻す。
「今から仕事だったんだねえ。帰りにまた寄ってくれるかい?」
「わかりました。少し時間がかかってしまうかもしれませんが」
「そんなかしこまって言うほどの事じゃないんだけどね。まあこれもモネータの良い所かねえ」
「……すみません、慣れるよう努力はしているのですが」
「いいのよ、あんたが変わっちまったらつまらないでしょう! ほら、お仕事だろ? 行っておいで」
色々と引っかかる部分があったが、モネータは苦笑しながら会釈するにとどまった。
メリッシュの店で働いている若い娘達は、どさくさに紛れてモネータに手を振ってきた。そちらにも少し手を上げて見せれば、黄色い歓声があがる。
だからといって、どうしたらいいのかも分からず、モネータは振り返らないという選択をするしかなかった。
周りに気づかれないよう小さく息を吐きながら、町をぐるりと回りこむように足を伸ばした。来た道を戻るのは、気後れしたのだ。
町の外れまで来ると木々も増え、わずかな風に色を変える木漏れ日が、モネータの疲労を和らげる。
まだ終わったわけではなかった。これからが本番でもある。豪商の娘達や、避暑といいながら長く滞在している令嬢からの取立てをしなくてはならないのだ。
町の住民よりかは、礼儀を叩き込まれている分、あからさまな表現をしてはこない。とはいえ、目つきや声音はそれ以上の時もある。酷く甘えた声を出し、体調が思わしくないといってはしなだれかかってくる事もあった。
どうしたらよいのか分からず、介抱を侍女に任せて手ぶらで戻ればアネッロに怒鳴りつけられ、金を受け取るまで、帰ってくるなと叩き出された事を思い出す。
緑の匂いを大きく吸い込んで、気持ちを落ち着かせると同時に、前方から悲鳴が聞こえた。武器は持ち合わせていない事を思い出して歯噛みし、それでも声のした方へと駆け出していた。子供が三人、こちらに向かって走ってくる。どの子供も血相を変え、少女は泣きながら少年の一人に手を引っ張られている。
「どうした」
声をかければ、彼らはモネータを見て怯みながらも足を止めた。
駆けてきた方向を指差すと、震える声を絞り出す。
「あっちに、人が……」
「寝てるのかと思って、近づいたの!」
「し、死んでるなんて、思ってなくって」
青い顔をした少年達に、この場で待つよう言い聞かせると、モネータは指差された方へと歩いていくと、地面に子供達の足跡と、葉が散らされている場所を見つける。
しゃがんで葉を一枚拾い上げると、すぐ右手側の茂みの中に、素足が見えた。到底生きているとは思えない色をしているそれは、一見精巧に出来た人形のようだった。
茂みをかき分ければ、見覚えのあるずんぐりとした男が下着一枚で仰向けに倒れていた。
少年達が、モネータの後ろからおそるおそる覗いてくる。少女だけが、顔を背けていた。
「君達、私がここで見張っていますから、駐在所に行ってきてくれませんか」
「うん、分かった!」
「兄ちゃんは一人で怖くないのかよ。な、なんだったらぼくが一緒にいてやってもいいぞ」
必死に強がって言う少年の一人に、モネータは硬い表情ながらも笑って見せた。
「大丈夫です。それから警邏の人に会うまでは、誰にも言ってはいけない。どこに犯人がいるか分からないからな」
その言葉に、彼らの表情に緊張が走った。
口を引き締め、泣きそうな顔をして何度もうなずいている。
お互いが離れないよう、三人は固まって駆けて行った。
「言葉が過ぎたか」
だが、どこで誰が聞いているとも限らない。多少怖がらせておくほうが、彼らのためだと思っていた。
あまり気持ちの良いものではなかったが、もう一度だけ振り返る。
血の気がなく形相も変わっていたが、元花屋のダニーに間違いはなかった。首に細い跡があり、左手の指が一本なくなっていた。
モネータは少し頭を動かし、眼だけで辺りを見回したが、茂みの奥に転がってしまったのだろうか、なくなった指や衣服は見当たらなかった。
門をくぐった所を見届けはしなかったが、逃げていった方角からすれば、彼は南門から逃亡したはずだった。だが、ここは北門と西門との中間ほどの場所にあたる。
もちろん、城壁伝いに生えている木々に紛れながら歩けば、闇夜に紛れてこの場所まで人に見つからない事もあるだろう。だが、何故戻ってきたのか。それが疑問だった。
だが、モネータの脳裏には別の映像が浮かんでいた。もう動く事のない、だらりと四肢を広げた人間を見下ろす眼は、気づかないうちに突き刺すような鋭さになっていた。
彼の頭によぎったものは、蔑んだ眼をした義父の姿だった。
冷酷で、利益に繋がらないものは容赦なく切り捨てる。そんな人間だった。それは幼い自分にもあてはまり、彼の本妻である義母でさえも同様であったのだ。
彼が今、眼の前にいるこの男のように――そう考える事は、遥か以前から持っていた感情であるし、現在であっても薄れる事はない。
その感情は、今後何があろうとも消える事はない。そう言ったのは、ガトだった。
強過ぎる感情は視野を狭め、どのように行動したとしても自分に不利になるばかりで有益ではない。その時がくるまで、固く押し包んでおけ。力を尽くして誰かを守る時に使え。
何かを感じ取った気がしたが、深く聞き及ぶ事はしなかった。
しなかったというよりも、その時は出来なかったのだ。深く考える事を、感情が邪魔していたと今では分かる。
モネータは彼から眼を逸らし、感情をコントロールするために、大きく息を吐き出した。