理不尽と困惑
小さな木戸をくぐり、外から鍵をかけると、モネータは大通りには出ず、左手の階段に足を向ける。
事務所の扉を三度叩けば、入れと声がかけられた。少し息を整え、中へと踏み入れれば、こちらを見る事もなくアネッロは書類にペンを走らせていた。
「アネッロ様、本日の集金に行ってきます」
「……なにか、楽しい事でもありましたか」
開口一番、書類から眼を離す事なく言われ、モネータはおもわず姿勢を正した。
わずかに眼をあげ、返答のない彼を見ながら小さく笑う。
「盗人と、仲良く出来そうですね」
「……まだ、教える事は山のようにあります」
胸の奥で騒いでいた笑いの虫は消え失せ、モネータは渋い顔で切り返す。
陽の光が窓から差し込み始め、揺らめく蝋燭の灯をアネッロは揉み消した。
眼鏡のずれを直すように手をやって、また書類に眼を落とすと、モネータは居心地の悪さをごまかすように小さく身じろいだ。
それを気にするでもなく、書類を六枚差し出すと、モネータは気を落ち着かせて受け取る。
「三件だ。リア=コズリー、サーシャ=スミシア、アシュリー=メイルズ。コズリー嬢は、今回で終了になる」
「しかし、彼女たちは利息分しか支払っていませんが」
「そのおかげで、ずいぶん返済期間が長引いただけです。元金とその利子分の金額は、本日の集金で終わりですよ」
「なるほど、承知しました」
扉近くにかけてあった革の鞄に、書類を丁寧に入れると、モネータは一礼して出て行った。
扉が閉められると同時に、少し顔をあげる。
終わりにはならないだろう。モネータとの繋がりを、彼女たちが自ら断ち切るとも思えない。余分に書類を渡したのは、確実にもう一度借金をするだろうと見込んでの事だ。
モネータには、書き違えた際の予備だと言っているが、そうではなかった。
彼に会うためだけに、令嬢たちがこぞって借金をしているのだ。不思議な光景ではあるが、彼の品の良さがどうしてもにじみ出てしまうのだろう。
女というものは実に目ざとく、こんな仕事をしている人間であっても、見逃す事はない。
「あいつがいる限り、安泰だな」
そう呟くと同時に、階下で派手に物を落とす音が聞こえてきた。
手が滑って落としたというレベルの音ではない。その響き方からすると、フライパンの焦げが予想以上に酷く、頭にきたカリダが床に投げつけたのだろう。
眼鏡を外し、深く息を吐き出しながら、アネッロは固く眼を閉じ、しわを伸ばすように眉間に指を押し当てた。
その惨事を知らぬモネータは、人で溢れている大通りにいた。
朝方の事件現場を見ようとして出てきた者が多数だろう。特に、元花屋周辺はごった返していた。
どういう状況だったか説明を始める者や、好き勝手に話を作って騒ぎ立てる者を眼にし、モネータは異質な空気に奥歯を噛みしめた。
面白おかしく語るべき問題ではないはずで、爆発から数時間もたってはいないというのに、誰もが怖がっているようで、面白がっている顔をしていた。
噂話をさらに大きくして盛り上がる彼らを横目に、不謹慎だと腹立たしく思いながら、足早にその場を離れる。
通りを曲がると、極端に人通りが少なくなる。閑散といっても過言ではないほど、静かでいつもどおりの落ち着きを保っていた。
しばらく足を進め、野菜を売っている店の前でモネータは立ち止まると、自分の中に澱んでいるなにか吐き出すように、大きく深呼吸をした。
それでもこみ上げてくる疑問や怒りを、何度も咳払いをしてやり過ごす。
「あら、モネータさんじゃないの。風邪かしらね、それだとのどを痛めるわよ」
口元を押さえて咳き込むモネータに、野菜を見ていた老婆が振り返ってくる。
慌てて声のしたほうを見れば、パン屋の女主人が心配そうな顔で覗き込んできた。
自分の許容範囲より近く、顔を寄せてきたメリッシュを、両手の平を前に出してやんわりとスペースを確保する。
「いえ、大丈夫です。メリッシュさんは買い物ですか」
「そうよ。お野菜はきちんととらないと。パンばかりじゃ、いくらババでも干からびちゃうでしょう」
そう言って楽しそうに笑う彼女を前に、モネータは笑ってもいいものか分からず、微妙な顔で小さく首をかしげるにとどまった。
「……そういえば、今朝は大丈夫でしたか?」
なんとか話題を逸らそうと、今日一番の大事件を持ち上げれば、彼女は笑いを収め、モネータの腕を力強く叩いた。
「そうよ! 大変だったみたいねえ。仕込みがあって、ちょうど起きた所だったから驚いたわよ。心臓が止まるかと思ったわ」
モネータの反応をいたずらっ子が確かめるように、彼の青い瞳をまっすぐ見つめ、メリッシュは遠慮なく声をあげて笑った。
つられて笑うわけにもいかず、モネータはのどを痛める可能性を念頭に置きつつも、咳払いしてごまかすしかなかった。
「そ、そういえばパンを作るにも、早起きするんですね」
「ほとんど一日パンを作っているわねえ。店が終わったら、次の日の仕込みをして。朝は残りの準備と焼く作業もあるし」
「それは……大変ですね」
素直に驚いた彼に、メリッシュは柔らかく笑った。作業に楽しみと誇りを見出した者の笑みに、モネータはやっと安堵の表情をする。
「大変なのは、どんな職業でも一緒よ。思ってもみなかった事に楽しみを見つけるか、あきらめて妥協するかしないと、なんでも続かないでしょ」
「そんなものですか」
「モネータさんだって、金貸しになろうと思って生まれたわけじゃないわよねえ」
何気ない言葉ではあっただろう。
モネータは彼女から視線を外し、一度眼を伏せた。だがそれも、一瞬の事。すぐにメリッシュへと青い瞳を戻して苦笑した。
「……それは、こうするしかなかったので」
深い事情がありそうだと感じるほどの間ではあったが、メリッシュはただうなずいた。
「そうよねえ。皆、そんなものよ? 好きで始めても、続けるには『こうする』しかないんだからねえ」
黙って聞いていた野菜売りの旦那も、いつもの威勢の良さを潜め、モネータの眼の端で何度もうなずいているのが見えた。
メリッシュが、もう一度モネータの腕を張って、静かな通りに響き渡るほどの声で笑った。
音の割に痛みはさほどでもなく、清々しいほどの笑い声に、胸の中にあった黒いなにかが霧散する。
仕事の事で悩みがあったわけではなかったが、疲れたように見えたのだろうか。
モネータは、他人であるというのに心配をしてくれる人がいる事に、照れ臭くも嬉しく思う。
野菜をカゴに入れてもらい、メリッシュが受け取ろうと手を伸ばすと、さりげなくモネータがカゴを受け取った。
ずしりとした重みが、抱えた左腕にかかる。女の細腕で、これを持ち帰ろうと思っていたのだろうか、とモネータは驚いた。
「結構な分量ですね。店まで運びます」
「いつも悪いわねえ」
などと、メリッシュが悪びれずに笑顔を向けると、野菜売りの旦那が笑った。
「狙ってやってんじゃないのかい?」
「よく分かってるじゃないの! なんて、そんなバカな事あるわけないじゃないか。ばあさんが困ってるから、この子は手伝ってくれるんだよ」
ねえ? と話を振られ、モネータは子供扱いに苦笑しながら困った顔でうなずけば、その様子を正確に把握した二人は、また笑う。
「いやあ、こんな息子がいたら良かったんだがなあ。モネータ、うちの子にならんか」
笑いを収めて野菜売りの旦那が真剣な顔で言えば、メリッシュが首を横に振り、カゴを抱えている左腕とは逆の腕に、細い腕を絡ませた。
動揺するモネータを無視して、メリッシュが口の端を持ち上げる。
「あんたなんかに、誰がやるもんかね。この子はもう、私の息子みたいなもんさ。勝手に見合い話なんか持ちかけるんじゃないよ」
「なんだ、バレてたか。それにしても婆さんは手をつけるのが早いなあ」
「当たり前よ! こんな良い男、先につばつけたもん勝ちだからね」
続けざまに軽口を叩き合い、豪快に笑う二人。
モネータは勢いに呑まれていた。話の内容にどう反応を返したらいいのかも分からず、ただ息を呑み、腕を振りほどく事も出来ずに途方に暮れるしかなかった。