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小さなすれ違い

 アネッロは一息ついて、引き出しから香油とくしを取り出した。

 慣れた手つきで油を手に取り、髪を掻きあげるようにして、塗りつける。櫛を使い、何度も丁寧に後ろに流してから、櫛についた余分な油を紙で拭き取る。

 元の場所に戻した所で、扉が三度叩かれた。

「アネッロ様、食事の用意が出来ました」

 モネータの声がして、分かったと言葉を返したにもかかわらず、彼は扉を開けてきた。

 何事かと眼だけで問えば、彼は非常に複雑な顔つきで、アネッロを見る。

「……食事、なのですが」

「初めて作るなら、多少こちらの我慢も必要ですよ」

 言いづらそうに言葉を濁したモネータに、アネッロは笑い、立ち上がった。

 引き出しに鍵をかけ、鍵の束を鳴らしてベストの内ポケットにしまう。

 事務所から一歩踏み出した。階段をおりるまでもなく、焦げ臭いにおいが鼻につく。

 おもわず眉間にしわを寄せれば、申し訳なさそうにモネータが階下から見上げていた。

「パンだけは、無事です」

「……しばらくは、あれの借金が増えそうですね」

 硬い表情で、モネータが小さく頷いた。身に覚えのある事だからだろう、神妙な顔つきで、住居に続く小さな木の扉の鍵を回した。

 彼に持たされているのは、この扉の鍵と、表通りの大扉の鍵だけだ。信用は、勝ち取るものだとガトに聞かされ、今では二つの鍵の管理を任された事に、誇りを持っていた。

 扉を開ければ、さらに臭いが強くなる。

 大きく息を吸って、彼らは覚悟を決めて通路を進んだ。

 主室には、悪びれる事なく腰に手を当て、やり遂げたという雰囲気をかもし出しているカリダがいた。

 簡素な木のテーブルには皿が並べられ、その上には丸パンが乗せられており、隣にはところどころ黒くなった卵の黄身だけが転がっている。

「どうだ! フライパンは、ちょっと酷い事になっちまったけど、朝飯作ったぞ。食ってみろよ」

 自信満々、小鼻をふくらませて言うカリダを、モネータが無言で椅子に座らせた。

 見たくはなかったが、興味に打ち勝てなかった。流しの様子を横目で見ると、そこは惨状であった。

 アネッロは、眉間を押さえる。頭の中を、様々な言葉が物凄い速度で流れていく。

 ひとつ、大きく澱んだ空気を吸い、去来する全ての黒い何かを、息とともに静かに吐き出した。

 席につくと、浮き立つ様子が見て取れるカリダが正面にくる。

 カリダの皿には、パンがなかった。昨日、全部たいらげてしまった為だ。その代わりに、薄汚れた卵の黄身が二つ転がっている。

 アネッロがフォークで黄身を突いたが、思っていたよりも硬かった。

 もう一度、正面の少女へ眼を向ければ、カリダは嬉しそうに手づかみで黄身をつかみ、口に放り込む。

 それについて、今は指導をしなかった。モネータも、その先が知りたかったのだろう。多少眉をひそめたが、何も言わない。

 彼女の表情が、一変した。

 笑顔は消え、無表情が一瞬見えたかと思うと、表情が酷く歪んだ。

「出さずに、飲み込みなさい」

 皿に吐き出そうと口を開けたカリダに、アネッロが厳しい声を出す。

 歯を食いしばり、カリダは正面の男をにらみつけた。

「無理だ!」

 焦げ臭さと、苦味が口と鼻に直撃しているのだろう。

 だが、アネッロは許さなかった。

「食材を無駄にしてはならない。焦げ付いて炭になった物は仕方がありませんが、作るのであれば、責任を持たなくては」

 そう言って、アネッロも不自然な硬さの黄身を口に入れ、一度か二度、口を動かしてから水で流し込む。モネータも同じようにして流し込んだ。

 何を、慣れたように! と叫びたかったが、よだれが大量に出て、声を発する事が出来なかった。

 用意されていた水に手をやり、我慢して咀嚼そしゃくした後、水で流し込む。

 二人は、パンに手を伸ばしていたが、カリダには残り一つ、黄身が白い皿に転がっていた。おもわずアネッロを見たが、その眼はこちらを向いていない。

 すぐにモネータへと眼を向けると、彼はさすがに可哀想だと思ったのだろう、パンを半分、手でちぎって皿に乗せてくれた。

 カリダは代わりに黄身を指でつまんで持ち上げて見せると、無言で首を横に振られる。

 黄身を皿に戻し、肩を落として苛立ちに足をばたつかせれば、すねに痛みが走った。

「なんだよ! いってえな!」

 カリダが小さく叫び、机の下をのぞけば、短鞭の先がこちらを向いていた。

「行儀が悪い。それと、フォークを使う練習をするのだ」

「……分かったよ。面倒臭いな」

 渋々ながら、フォークに手を伸ばして、黄身をつつくがため息しか出てこない。

 もう一度だけ、二人に視線を送ったが、決して眼が合う事はなかった。

 食事が終わり、アネッロは事務所へと上がっていった。モネータの真似をして皿を洗いながら、カリダは小さく呻く。

「……吐き気がする」

 紛らわせるため、何度水を飲んだだろう。軽く飛べば、腹の中で音がする。

 だがいくら気持ちが悪くとも、限界まで吐く気はなかった。卵の黄身だけとはいえ、ご馳走だ。カリダは、顔を上に向けたり、下に向けたりしてやり過ごす。

 モネータが不憫そうに視線を投げかけてきたが、それは無視をした。

 皿を洗い終え、水を拭き取り、棚にしまう。

 すぐにモネータからほうきを渡され、カリダは腫れた顔をしかめた。

「次は、床を掃いておいてください。私は集金をしてきます」

「……はあ? なんでおれがそこまでするんだよ」

「家事は、あなたがすると聞いています」

「あなたとか言うな。カリダでいいって言ってんだろ」

「では、カリダさん」

 真剣な顔で、こちらを見つめてくる彼に、カリダは渡された箒で床を突いた。

「やめろ! おれは昨日、さんづけするなって言ったよな。お前のしゃべり方が一番気持ちが悪い」

 失礼な。と叫びかけて、モネータはパニックになりかけた頭を落ち着かせるため、ゆっくりと深呼吸する。

 母も、集金に行く先の女性からも、そんな言い方をされた事がなかった。

 男にやっかまれた事はあったが、気持ち悪いと言われた事など初めてで、どう返事をしたらいいのかを混乱した頭で考え、結局ひとつ嘆息するしかなかった。

「……カリダ。掃き掃除とフライパンの炭取りをしておいてください」

「嫌だ」

 即座に返してきたカリダに、モネータは開いた口がふさがらなかった。

 これは、本当に女なのかと疑う気持ちが込み上げてくる。

 アネッロは、女だと言った。ならば、本当にそうなのだろう。箒を床に放り、部屋へと戻ろうとするカリダを見ていると、なんのしつけもされていない少年にしか映らない。

 細い腕をつかめば、カリダは痛いと悲鳴をあげた。

「馬鹿力め! もうちょっと加減ってもんを考えろよ!」

「……その言葉使いは、直したほうがいい」

 振りほどけないほどには力を緩め、渋い顔で告げると、カリダは唇をとがらせた。

 アネッロに言われた事を思い出したのだろう。

 モネータの手をはずそうともがいていた少女は、抵抗をやめた。

「こうやって生きてきたんだ。すぐに直るもんか」

「少し気をつけるだけで、変わるものです。だから……」

「女が。しかも子供が一人で生きていくためにはな、こうでもしなきゃ何されるかわかんねえんだよ」

 乾いた笑い声は、少女のものではないようだった。

 その声から生まれた多くのとげが、モネータを突き刺してくる気がした。

 黙ってしまった男を鼻で笑い、カリダが流しへ足を向ける。

「掃除は、しない。飯を作れと言われただけだからな。洗い物は、おれが失敗して出した物だからやるけどさ」

 背を向けた少女に、モネータは安堵していた。

 なんと声をかけてやったらいいのか、分からなかったからだ。不幸な運命なのは、自分だけではなく、身近な所で、しかも頻繁に起こっているものなのだと知った。

 投げ出された箒を拾う。

「カリダ」

「謝るなよ。気持ち悪い」

 一瞬口ごもったが、モネータの中に先程のような混乱はなかった。

 少女の口調が、柔らかいものだと気がついたからだ。

 箒を壁に立てかけて苦笑した。どう言えば伝わるのか、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「謝りませんよ。ただ、これからは一人で生きていくわけではないと、気づいて欲しかっただけです」

 腫れた顔で、表情はよく分からなかったが、勢いよく振り返ってきたカリダを見て、おそらく驚いたのだろうと、モネータは推測した。

 青い瞳を細めて笑い、うなずいて見せれば、カリダの小さく開いた口は、ゆっくりと硬く結ばれ、短い髪を揺らして顔を背けた。

「恥ずかしがる事などないですよ」

「誰が恥ずかしがるか! とっとと集金に行けよ、邪魔だ」

 カリダの口の悪さは、羞恥心や虚勢からくるものだろうと考え、モネータは気持ちが軽くなった。

 笑いたかったが、それをしてしまえば火を噴くほどカリダは怒るだろう。

 モネータは、なんでもないよう取り繕い、外に出ないよう声をかけた。

 おう。と一言、つっけんどんに返されて。モネータは笑いを堪えながら、大扉に続く通路を早足で通り抜けた。



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