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交渉の余地

 人の群れから抜け出したアネッロは、振り返らなかった。

 誰かに見られている。そう感じてはいたが、あえて気づかない振りをしていた。

 おろしたままになっている長めの前髪をうっとうしく思いつつ、余分な動きを避けるため、かき上げる事もしない。

 十歩数え立ち止まると、不快な気配はしばらくして消えた。

 変わりに靴音が近づいてきて、数歩ほど背後で止まる。

「ジュダス商会の、店主ではなくて?」

 気位が高く、傲慢な物言いが板についていると言っても過言ではない女の声色に、アネッロは作り笑いを携えて振り返った。

 朝早いにもかかわらず、声をかけてきた若い女は、地味な色の大きなつばをした帽子をかぶり、同色のドレスを身につけている。

 大きな口に塗った赤い口紅が、白い肌の上で浮いていた。

「そうですが。何か、御用ですかな?」

「用がなければ、お前のような金貸しに声などかけませんわ」

「これはこれは失礼致しました。立ち話もなんですので、どうぞこちらへ」

 アネッロは背中を丸め、揉み手こそしなかったが、媚びへつらう声を出した。

 いかにもわざとらしい出方をした。女は鼻で笑い馬鹿にした様子ではあったが、まんざらでもない笑みを浮かべる。

 しかしすぐに、本来ならば、声をかける事すら汚らわしいとでも言わんばかりに、彼女は目を細めた。

 この女に限らず、領地外から来る貴族への金貸しは、これが初めてではない。

 皆、一様に正体を隠し、市場への観光を理由に、遠方からお忍びで金を借りに訪れるのである。

 遠方から来る理由は、出自や氏名を隠す事で、踏み倒せると思っている者が大半だった。

 運悪く屋敷を捜し当てられたとしても、階級を盾に追い返す様は、想像するまでもない。

 そうなると分かっていても、アネッロはあえて受け入れていた。

 どんな人物であれ。たとえ、国王であったとしても、自分から借りた金を踏み倒す事は、断じて許さない。

 だが、目の前の貴族女性は、どことなく旅行者のそれとは雰囲気が違っていた。

 大扉の鍵を回し、振り返りもせずアネッロは先に入っていき、軋む階段を、確かめるようにゆっくりと踏みしめる。

 下々の者が紳士だとは思ってはいないけれど。などと悪態を吐きながらも、女は彼の後に続いた。

 気に入らなければ帰ればいいだけだ。無理に貸し付ける必要はない。しかし、こんな山間の土地にまで足を運んでくるくらいだ、むざむざ帰るわけにはいかない理由もあるのだろう。

「狭くて非常に心苦しくありますが、そちらに座ってお待ちください」

 女は無言でハンカチを取り出すと、革のソファに敷き、浅く腰かけた。

 気配だけでそれを察しながら、アネッロは同じテーブルにはつかず、彫刻の施された机につく。

「いくらご入用で?」

「不躾な物言いですわね。こんな狭くて埃っぽい所に済んでいるのですもの、仕方がないのかしらね」

 露骨に眉をひそめ、板張りの室内を眺めると、女は聞こえるようにため息を吐いた。

「これは失礼致しました。こんな場所ですから、ご婦人には数分も耐えられないと思いまして」

「そうね。それは良い心がけですわ」

「ありがとうございます」

 張り付けた笑みは、薄暗い室内では不気味に映るのだろう。

 女は帽子で顔を隠すようにして、本題を切り出した。

「他でもありません。こちらに金髪の男がいるはずね。それを譲り受けたいの」

「……モネータを、ですか」

「そう、モネータと言うのね。その男を渡しなさい」

 アネッロは肘をつき、顔の前で両手を組んだ。

 相手からは、表情が読みにくくなる形で、声音は変えずにゆっくりと言葉を選ぶ。

「そうは言われましても、少ない働き手が減ると、仕事に差し支えますし」

「私の申し出を、断るとでも?」

「こちらが納得する理由でも、お持ちで?」

 ゆったりとしたアネッロの言葉に、女は眉を吊り上げた。

 だが彼女も礼儀を叩き込まれた淑女である。小さく身じろぎをして居住まいを正す事で、金切り声を飲み込んだ。

「聞いたのは私ですが。いいわ、お話しましょう。彼は今、女性の憧れですのよ。この領内の令嬢からお話は伺っています。物腰は穏やかで、民の中でも群を抜いて紳士的なのですってね。私が彼を妾にしたら、こんな場所で一生を終える事もなく、優雅に暮らせますわ」

「なるほど。あれを手に入れると、あなたは周囲から嫉妬と羨望の眼差しを受け、自尊心を満足出来る。そういう事ですな」

「なんとでも言えばいいわ。言い値を支払う用意があります。彼を渡してくださる?」

 アネッロは、口元を隠して密かに笑った。

 貴族からの資金援助は、今後も役に立つ事は確かではある。

 ひげを生やしているわけではないが、右手で、口元をひとなでした。

「お断りしましょう」

 女が眉を吊り上げて、激昂するかと思っていたが、彼女は驚いたように口を開いただけで、次の瞬間、声をあげて笑い始めた。

「よくそんな口が聞けるものね。私が誰だか分かっていないからかしら」

「いいえ、存じておりますとも。シュテレネ男爵夫人で、間違いありませんな?」

 女は白い肌を、さらに白く塗りたくった顔を強張らせ、本来の色だろう耳だけが真っ赤に染まった。どうしてという言葉は、震える吐息に変えられる。

 アネッロは、わざとらしく大きくうなずいて見せた。

「どこかの領内からおいでなさった割に、私を一目で見つけられましたでしょう」

「そ、それは……歩いていた人に伺ったからです」

「ああ、今日は酷い朝でしたからね。人通りはいつも以上に多かった」

「その通りですわ。なんの問題があって?」

 取り繕うように背筋を伸ばし、ふわりと広がったドレスの上で組んだ両手は、固く握られている。

「その中で、あの男が金貸しですよ。と言われ、指差されたとしても、分かるものでしょうか」

「分かったからこそ、声をかけたのではありませんか」

「では、失礼でなければ帽子をお取り下さいますか。私の勘違いでしたら、それで構いませんがね。シュテレネ男爵といえば、それは奥様思いの方でしたな。珍しく愛妾も作られない方で。ああ、そういえば後で誤解だと分かったものの、従者が男爵夫人に粉をかけていると疑って、刃傷沙汰に……」

「そ、そんな話がありますの? 知りませんでしたわ。存じ上げてはおりませんけど、その男爵夫人は、とても愛されていますのね。うらやましいわ」

 組んでいる手が、かわいそうなほど震えていた。

 もう一度、アネッロがうなずく。

「もちろん、噂の範疇ではありますがね。それだけ愛されているというのに……ああ、実は男爵夫人のお噂もありましてね?」

 軽やかに笑うと、彼女は血相を変えて立ち上がった。

「おや、どうなさいましたか?」

「……その軽口を叩けなくするのには、どうしたらいいのかしら」

「あなたが男爵夫人であると、お認めになる事ですよ」

 赤い唇をかみしめ、帽子の陰からにらみつけてくる女に、アネッロは表情を一変させた。

 鋭く厳しい顔つきで見やれば、女は萎縮した。

 慌ててハンカチを拾い上げて、足音を響かせて扉に手をかける。

「ご婦人」

 低く、鋭い声に男爵夫人は身体を震わせて、足を止めた。

「私はこれでも、口は固いほうでしてね。誰にでも噂を流す男ではありませんよ。ただ、今後ジュダス商会の働き手になにかあったら、どうなる事かとは、申し上げておきましょう」

 驚いた顔をして、女は振り向いて。

 固い表情のまま、彼女は派手に階段を鳴らして去っていった。



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