揺るがされた日常
――ふと、アネッロは眼を開けた。
棒を振る音は、かなり前からやんでいる。
身体を椅子から起こし、短くなった蝋燭の上で、健気に灯り続けている小さな火を、指で揉み消した。
「……五年、か」
部屋の中は、完全な闇に包まれる事はなかった。
山間部の朝は遅い。太陽が稜線から覗くのは、王都の夜明けから数時間後になる。
だが、太陽はのぼらずとも空が先に青さを取り戻していく。夜明けとともにわずかに残っていた濃紺の幕が取り払われる。
まだ煙突から立ち上る煙も少なく、うっすらと青みがかった景色の中、一部の商人がやっと起き始める頃合だろう。
ローテーブルに眼をやった。置き去りにしたままの包みを開けると、思っていた通りの物が出てくる。鋭利な刃物で切られたのだろう、血の気を失った一本の太った人間の指と、その根元にはめられた大きな金の指輪。元花屋のダニー=ドルトンの物だ。
触る事なく包み直すと、外から窓が固く鋭い物で数度つつかれる音がして、アネッロはその包みを手にしたまま立ち上がった。
窓際に寄れば、引き締まった体躯の鷹がつつくのをやめる。
鋭い爪を持った足を見ると、小さな筒がつけられていた。連絡を入れた隣町の仕事仲間が、ダニーを引き渡せと送り込んできた鳥だ。
筒を外したが、中は空だった。伝えるべき事は一つだからだろう。
鳥に包みの中身をくれてやっても良かったが、それは避けた。事務机にあった紙を小さく千切り、『梟』と一言書いて筒に入れた。
机の片隅に置かれていた黒い布袋を眼にし、中身の宝石を無造作に机の上へとばら撒き、白い包みを入れる。
夜明けが近いとはいえ、鳥が白い包みを持っていたら目立つだろうと考えたのだ。
鷹は身じろぎもせず、静かに眼を閉じ、眠ってしまったかに見えた。
アネッロが一つ指を鳴らすと、鳥は眼を開け、慣れたように右足を軽く持ち上げる。
筒を取り付け、小動物を取り押さえる事の出来るその足に、布袋をつかませた。
「戻れ」
低いその声に、大きな翼を広げ、鷹は勇ましく飛び立った。
ゆったりとした飛び方ではない。危険地帯を生き延びてきた力強さで羽ばたくと、あっという間に姿を消した。
窓を閉め、おろしていた前髪をかき上げる。整髪用の香油をつけるべく、机の引き出しに手を伸ばした――
――瞬間。耳をつんざくほどの轟音が、寝静まっていた町を叩き起こした。
石造りの建物が、その衝撃に音を立てて振動する。
アネッロの手は、無意識に長短の鞭が腰にある事を確認していた。
机に置いていた青い封蝋を押した封書を、緑のベストの内ポケットに入れ、事務所を飛び出した。
階段を駆け下りるのと、住居に続く小扉が開くのと同時だった。金髪の男が扉を開け、腫れた顔の少女と二人、仲良く見上げてくる。
「戻っていなさい。何があっても、扉を開けてはいけませんよ」
「やだね! おれも行く!」
「お前のその顔で外に出られては、余計な面倒が増えるだけです。モネータ、食事の支度を教えておきなさい。今後、カリダが作る事になる」
「分かりました」
暴れる野次馬の首根っこをつかみ、モネータは抵抗する彼女を細い通路へと引きずり込む。
アネッロが扉を閉め、その鍵をかけると、中から聞こえる金切り声も、少しして静まった。
もう一度、鍵がかかっているかを確かめてから、大扉の鍵を開けた。
誰もが着の身着のまま飛び出して来ており、騒然とした人々の頭越しに音のした方へと顔を向ければ、一目瞭然だった。
半分ほど崩れ落ちた二階部分から、煙が立ち上っている。石造りの建物が吹き飛んだのだ、元花屋だけではなく、付近の建物にも被害が広がっていた。
住民が慌しく走り回り、近接して建っている隣家の者の救助などを行っていた。
しばらくして、早馬を駆った領主の兵が到着し、紐が張られ、人払いが始められる。
間を置いて取り囲んだ住民達は、素直に帰るわけもなく、怯えた顔で話し合う声がそこかしこから聞こえ、理由の分からない災害に、すすり泣く者もいる。
そんな彼らを横目に、アネッロは人混みをすり抜け、見知った顔の男を探す。
眠そうな顔をした男が、現場確保の為に張られた紐をまたいで入る瞬間を狙い、後ろからさりげなく腕をつかんでねじりあげた。囲んでいる住民達に気付かれないよう身体を寄せれば、最前線で身動きがとれなくなった紫色の瞳をした男は、大あくびをかみ殺した。
「……痛えんだけど」
突然関節をきめてくる人間に、すぐ見当がついたのだろう。不機嫌そうに猫眼を細めた。
「油断しすぎだ」
「ああ、そうか。ここの親父……」
「何があった?」
無駄口を嫌うその低い声に、ガトは嘆息した。
「下っ端の下っ端は、雑用が忙しくて現場検証もままならねえんだよ」
「使えないな」
「おうさ。使えねえのさ。だから腕の解放を要求する」
目一杯の力を込めてから、アネッロは手を放してやった。
肩から手首までをさすりながら、彼は紐をまたぎ、距離をとる。
紐という、不可侵ではあるが頼りない物を指差して。ここから入ってくるなと、一応は無言で主張してみる。
ふと口だけで笑みを漏らしたアネッロに、ガトは痛む腕を持ち上げ、あらゆる方向にはねている頭を掻きむしった。
「関係者以外、立ち入り禁止! ちゃんと調べはつけるから、離れてくれ」
「ああ、オッキオ氏。雑用は大変でしょうが、頑張って下さい」
アネッロは、右手の人差し指で自分の胸の真ん中に当てた。
怪訝な顔で小さく首を傾げ見返してくる彼に、アネッロは住民達の中に紛れ、見えなくなった。
「ガト=オッキオ! 遅いわよ!」
「す、すみません」
鋭い声をかけてきたアンシャへと、慌てて振り返れば、彼女の眉根にしわが寄った。
彼女の視線は、自分の顔に向けられておらず、ガトはそれを追って下を向く。
シャツのボタンが一つ開けられ、白い紙のような物が挟み込まれていた。
「それは、何ですの?」
「ああ、これは……何だろう」
犯人は、一人しかいない。
眠気を追いやり、ガトは脳をフル回転させた。
茶色の硬い短髪を掻きながら、胸元に刺さっている封筒を取り出す。宛名はなく、裏を返せば青の片翼の獅子が眼に入る。
「怪しいわね。こちらに渡しなさい」
「すみません。その、朝まで彼女といたもので。ラブレターかな?」
おどけるように紫の瞳をくるりと回し、演技ではなく苦笑した。
寄越せとばかりに手を出しかけたアンシャは、彼の表情を見て、呆れた顔で両手を腰にあてた。
「しょうがない人ね。今回だけは見逃してあげるわ。今後、こんな事のないように」
「はいよっ」
「……返事は、きちんとなさい」
「失礼しました。ザイエティ捜査官」
過不足のない受け答えをしたはずだが、真剣味が感じられなかったのだろう。
アンシャは小さく息を吐き、不安と緊張で染まっている住人達を見渡して……ふと違和感を覚え、彼女は左へと眼を戻す。
だが、何に違和感を持ったのか、分からなかった。
「アンシャちゃん?」
「気のせい、かしら」
ガトはアンシャが見ている方へと眼を向けたが、何を見たのか分かるはずもない。
左右に視線を配り、さりげなくアンシャを庇うように肩をつかむ。殺気は感じられないが、異様な空気に埋もれているとも限らない。
迷惑そうに可愛らしい顔を歪め、アンシャは肩に置かれた手をぴしゃりと叩いた。
「何も出来ないお嬢様ではありませんわ!」
眼を丸くしたガトは、触っていた手をぎこちなく離す。苦笑しかけたが、彼女の気持ちを逆撫ですると気づき、慌てて平静を装った。
「申し訳ありませんでした。ザイエティ捜査官」
「……先程、アンシャちゃんと言いましたわね」
「まさか、そんな失礼な事」
疑いの眼差しを向けていた彼女は、悪びれる事もないガトに向かって一つ息を吐き出し、肩を怒らせて現場の方へと歩き出した。
ガトは小さく肩をすくめ、封筒をズボンのポケットにねじ込む。
見知った顔の住民達に、もう一度だけ眼をやって、ガトは彼女の背を追った。