縄張りの巡回
「野生の獣は人間を嫌うってな」
密集している建物の細い路地を曲がれば、人一人がやっと通れるくらいの地下に続く石造りの階段が、ぽかりと口を開けていた。
タイトだが動きやすそうなパンツのポケットに手を入れ、背中を丸め、ためらう事なく駆け下りる。
右手側にある、開け放された扉から室内を覗く。暗く、静まり返った室内には人の気配は感じられない。ガトは、階段の上を何気なく見上げた。
建物が平行に空を遮り、薄曇りの白い空は、覗き込むように縦に細く続いている。通りから聞こえてくる甲高い笑い声やざわめきが、別世界のもののように響く。紫色の瞳が細められ、室内へと身体を滑り込ませた。
木で出来た簡素な椅子は、同じような簡素な木の机に乗せられている。
彼が足を踏み入れたのは、酒場だった。まだ早い時間のためか、客は入っておらず、明かりもつけられていない。酒や葉巻の入り混じった酷い臭いがする店内だが、平気な顔で足を勧めた。
カウンターを回り込み、置いてあったカップを勝手に手にしてぶどう酒を注ぐ。
「おい! そこで何してる!」
芳醇な香りを楽しむでもなく一気にあおれば、奥から出てきた店主が低く太い声で一喝した。
空になったカップを親指と人さし指でつまみ、振って見せると、大柄の男は呆れた顔で鼻から息を吐き出す。
「ガトか……新しく仕入れた酒ばかり呑みやがって。まったく、代金はきっちり払ってもらうからな」
「まあそう言うなって。試飲してやったんじゃねえか。なかなかうまいぜ? 俺様は、白の方が好みだけどな」
「知ってるから、赤にしたんじゃねえか」
そりゃ残念な事で。と笑い、ガトは手近にあったヤギの乳酒を、断りもせずカップに注ぐ。
懲りる様子のない男を鼻で笑い、石で出来た床に、汲んできた水をぶちまけると、店主の男は箒で掃き広めていく。
それをつまらなさそうに眺めながら、ガトは少しだけ白く濁った酒を口に含んだ。
綺麗にしているのか、汚れをただ広げているのか分からないような掃除の仕方に、ガトが小さく笑えば、店主はじろりと眼だけでにらんだ。
「それで、何の用だ」
「ああ。あんたが掃除してると、箒が串に見えるな」
「やかましい。用がないなら出て行け、邪魔だ」
二口目を口に含み、味わうようにゆっくりと飲み込んでから、カップを置く。その縁をなぞるように指を滑らせて、小さな振動に揺れる酒の表面に眼を落とす。
「ガト、愚痴なら聞かんぞ」
うつむいていたせいか、深刻な悩みだとでも思ったのだろう。心配する様子ではないが、店主は手を止める事なく、声をかけてくる。
もう一度、ガトは笑った。
「なんだよ、アルコ。嬉しいね。気にかけてくれるのか」
「また振られたとか、一晩中聞かされたくないだけだ」
「とか言って、聞いてくれるくせに。あんたは優しいんだよ、認めろよ」
「こんな図体のでかい野郎捕まえて、優しいだのなんだの。気持ち悪い話するんなら、叩き出すぞ」
箒の動きを止めて背を伸ばすと、大きな身体をした彼は、さらに大きく見える。
ガトは大げさに首をすくめて見せ、瞳をくるりと回した。
「冗談さ。あんたの優しさは、オリカが知ってりゃそれでいいってんだろ?」
箒の柄が、音を立てて折れた。大きくごついその両手は固く握られ、白くなるほど力が込められていた。オリカとは、彼とは似ても似つかない細く可愛らしいアルコの愛娘だ。
十二になるその少女は活発で、屈託なく大声で楽しげに笑う。思い込みが激しい所もあるが、弱い者の味方で箒使いの名手だ。
ガトは、箒を手に仁王立ちして笑う少女を思い浮かべ、苦笑した。何度その箒で頭を突かれた事か。
「良かったなあ、母親に似て。あれであんたに似てた日にゃ……」
しみじみと口にすれば、アルコは遮るように大きな手を近くの机に叩きつけた。
思ってもいない所で被害を被った木の机は、健気にも軋みを立てて耐え忍ぶ。
「……それ以上、言ってみろ」
「言わない、言わない。もう十分言わせてもらった」
「八十ソルド、置いて出ていけ」
「まあまあ。いい大人が冗談も分からないようじゃ、生きていけないぜ?」
折れた柄の短い方を振り上げ、猫目の男が並べられた酒瓶を背にしている事に気付き、手を下ろした。
その代わり盛大に舌打ちをしてやったが、彼は笑っただけだ。
「アルコ。ここんとこ、怪しい奴が店に来てないか?」
「今、目の前にいるぞ」
「悪かったって! 真剣な話だぜ?」
「まったく……そうだな、怪しい奴ばかりだ。なんせ、こんな所にある店だからな」
通りに面した酒場ではないため、暗がりを好む人間が訪れやすい。こんな立地の店だからこそ、後ろ暗い話が多く転がっている。
ガトは残った酒を流し込み、百ソルドをカウンターに置いた。
それを横目に、アルコは大きく息を吐き出した。
「相変わらず少ねえな。酒代を引いたら、情報料がたった二十かよ」
「どうせタダで話を聞いてるんだろ? あるだけマシだろ、ガキからたかるなよ」
「酒を平気な顔であおる、厄介で図体のでかいガキか。大問題だな」
カップを水桶に放り込み、ガトはカウンターから出てくると、大きく筋肉質な背中を力強く叩く。
痛みのあるものにはならなかったが、仕方ねえなとアルコは机に上げた椅子を一つおろし、腰をおろした。
四角いあごに生やした髭に手をやって、熊のような酒場の親父は、片眉を上げてガトを見る。
「そうだな。ジュダスさんに関係する話はないが、あの色の薄い姉ちゃんに恨み言言ってるとか、通りすがりに聞いた奴がいたな」
「シェーンちゃんの?」
「ああ、フードを目深にかぶっていて、顔は見えなかったがな。一人客だったぞ」
「へえ。男? 女?」
「それもわからねえ。酒を指差して、金はテーブルに置いていった。喋れない奴かと思ったくらいだ」
へえ。ともう一度気の抜けたような返事をし、ガトは短く刈った頭を掻く。
無意識に深紫色の瞳を、何かを探すように動かしていると、黙ってガトを見ていたアルコの視線にぶつかった。
面白そうな顔をしたアルコに、訝しげな顔で応じたガト。先に根負けして声を出したのは、アルコの方だった。
「お前さんの真剣な顔を見られるとはなあ。生きてりゃ、面白い事にあたるもんだな」
「何言ってんだ。俺様はいつだって真剣だぜ?」
「おうおう。恥ずかしかったら、そう言ってもいいんだぜ?」
「恥ずかしい? 俺様自身が選んできた人生だ。恥ずかしい事なんて、何もねえよ」
「ふん、そうしておいてやるよ」
アルコが豪快に笑うと、つられたようにガトも笑った。
もう二十ソルドを机に置くと、ガトはふらりと店から出て行った。
「……ツケの分には、まだ足らないんだがなあ」
苦笑して、アルコは二十ソルドを握って立ち上がった。
外に出たガトは、軽い調子で階段を駆け上がる。
山間から吹く風は、昼間とは違い冷たさが増し、少々酒の入った身体には心地が良い。
そこいらの店でつまみ食いをしながら時間を潰せば、夕暮れが近づき、霧が広がってくる。
薄着で出たガトは小さく身震いをして、ジュダス商会とは逆の方向へと足を向けた。
町の裏通りを幾分歩いたその先に、モント家である豪商の館が見えてくる。たくさんの窓に、ちらほらと明かりが灯り、薄い青色に染まり出した館に美しく温かみを添えている。
庭木の陰に身を潜めていると、外にも聞こえてくるほど、派手に怒鳴りあう声が聞こえてきた。
声の主は、シェーンだった。もう一人の声は多少歳のいっている男の声からすると、父親だろうか。
一際甲高い声がし、しばらくすると西側三階にある角部屋に光が灯る。
おそらく角部屋に行ったのは、シェーンだろう。だが、紫の瞳は見逃してはいなかった。
彼女が部屋に入ってくる前に、その部屋に灯っていた蝋燭の明かりだろう小さな光が、消えたのだ。
おもわずガトが飛び出すと、断末魔の如き悲鳴が響き渡った。
舌打ちをする余裕もない。三階までの壁をよじ登る事は至難だが、出来ないわけではない。
彼女の部屋の下まで走ると、三階の窓が開いた。
――犯人か!
とっさに屋敷の角を曲がり、身を潜める。
落ちてきた所を捕まえようと待ち構えたが、ロープが垂れてくるわけではなく、頭上で布が風を切る音を耳にした。
見上げるが、霧深くなった視界は鮮明ではない。
ただ、大きな翼のような黒い物を見た。だが、それだけだった。
追うつもりだったが、騒ぎが大きくなり、何かが飛び去った方向には安易に飛び出す事が出来ない。
音がしそうなほど奥歯を噛みしめ、飛び去った方向をガトはにらむように凝視していた。