シェーン
アネッロの手から自らの手を抜き取ると、涙を拭おうとし、はたと動きを止めた。
何も持たず、飛び出してきてしまったのだ。仕方なく手で涙を拭えば、アネッロがガトに何か合図する。
頷くでもなく開けっ放しの扉から、ガトは音もなく出て行った。
「少し、待っているといい」
そう声をかければ、シェーンは不思議そうな顔で、濡れた長い睫毛を瞬かせた。
すぐに綺麗な手拭いを持って戻ったガトは、彼女の後ろから頭にふわりとかぶせて寄越す。
「……ありがとう、ガト」
アネッロから顔を隠されたが、そのまま顔を覆うように手拭いを押しつける。
「ごめんなさい、アリ。私、少しおかしかったわ」
少し震える声で言う彼女から目を話す事なく、アネッロは黙っていた。
しゃくりあげるのを、我慢しているのだろう。彼女はそのままうつむいて、声を絞り出す。
「……ごめん、なさい」
「シェーン」
「ごめんなさい。アリ、私……」
アネッロが眼鏡を置き、ゆっくりと立ち上がれば、椅子が小さく音をたてた。
その音に、シェーンは怯えるように身体を震わせる。
目の前にある机が、邪魔だった。
アネッロは彼女の傍にいき、壊れやすい物を扱うように優しく抱きしめた。小さな頭に布越しではあるが唇を落としてから、彼女の耳に静かにささやく。
「君が、断りきれなかったとしても。それは仕方のない事だ」
細い身体を強張らせた彼女の肩を、なだめるように優しく擦る。
「シェーン、親には逆らえないだろう。しかも、君のお父上は……」
「そうね。あの人は私を、アルビノ扱いしかしませんもの」
かぶせられた布を引きずり落とし、横から抱きしめているアネッロの胸に頭を寄せた。
彼女の表情は見えないが、少しだけ腕に力を込める。
「お父上も、お一人で君やご兄弟を育ててきたからには、君に幸せになって欲しいだけだろう」
その言葉に、シェーンは身体にまわされた腕に手をやり、力を込めた。
そして、もう片方の手で布を払い、乱れたままの頭を横に振る。
「違うわ! それは違う。お母様が私を産んだから死んだと、いつも聞かされてきた。こんな毛色の違う、気色の悪い娘が腹にいたから、死んだのだと」
「君に、はっきりと言ったのか」
さすがに怒りをにじませた声を出したアネッロに、シェーンは彼から眼をそらした。
「……親類が、言っただけ。でも、否定もしなかった。私が隣にいたというのに」
シェーンはもう十八歳だ。控えるべき場所も、笑いたくもない所で微笑していなければならない事も、分かってはいるだろう。
アネッロの前では奔放に振舞う彼女だが、どんなに辛くとも、声を荒げてはならないと教えこまれてきた。
貴族ではないが、豪商といっても過言ではないほど、シェーンの父親はやり手である。
その彼が野望を燃やし、貴族の地位を望む事は、想像に難くない。
シェーンは、深く息を吐き出し、身体の力を抜いた。
「うらやましい。ここの町の皆は、家族でもない私を温かく迎えてくれるもの」
「シェーンも、その一人だ。君が顔を出さない日があると、私が君に酷い事でもしたのかと、町中の人間に怒られるんだぞ?」
彼女は顔をあげ、何を見るでもなく窓の外へと眼を向け、小さく笑った。
「あなたが怒られるだなんて。皆、勇気があるのね」
「それだけ君が大切にされているという事だ」
隠れながらの文句だったけどな。と、ガトが言えば、シェーンはアネッロを見上げ、声をあげて笑う。
名残惜しそうに彼女から腕を離し、アネッロは乱れた彼女の美しい髪に、手を滑らせる。
その手に優しさを感じて、彼女はアネッロに抱きついた。
「……私、頑張るから。何があっても、私はアリを愛しているわ」
「私も愛している。教えてくれないか、相手は誰だ」
「……知らないほうが、いいわ」
暗い声で冷めた笑いを浮かべた彼女に、アネッロは細い腰に回した腕に力を込めた。
可愛らしく呻いたシェーンは、アネッロの背を軽く叩き、苦しいと訴える。
「領主様よ! ライアン=ラクルスィ伯爵。明日、お会いする事になっているわ」
アネッロの腕から力が抜けるのを感じ、シェーンが力任せに彼を押しのけた。
笑えと自分に言い聞かせ、シェーンは彼を見上げて微笑した。
「驚きでしょう? 血筋に厳しい家系が、真っ先に切り捨てるはずの私みたいな者に、興味を持って下さったのですもの。あのお父様が、お断りするはずもないでしょう?」
「シェーン」
アネッロの真剣な声に、シェーンは複雑に表情をゆがませてから、ため息を吐いた。
長い髪に手をやって、彼女は頷く。
「もう泣きたくないわ。私は決めたの、領主様にお断りしてくる。この町にいられなくなったら、一緒に逃げてくれる?」
「そんな事にはさせないと言っているだろう」
「でも、アリが手出し出来る方じゃ……」
「大丈夫だ。まず話を聞き、婚姻に関する事であれば、はっきり断ってくるといい」
それ以上、深く聞いてくる事はしなかった。彼女はただうなずいて、事務所を後にした。
彼女の乗った馬車を見送り、アネッロが事務机に戻ると、ガトが呆れた声を出した。
「領主様も、趣味が悪いよなあ」
「まったくだ」
燭台が飛んでくるかと身構えていたガトは、まさかの肯定に眼を剝いた。
アネッロはそんな彼を気にもとめず、書類を手にしようとして、やめた。もう一度握りつぶしてしまいそうだったからだ。
腕を組み、深く息を吐き出す。
考えるまでもない。アネッロのするべき事は、一つだった。
「ガト、回収は任せる」
「はいよっ」
立ち上がったアネッロに、何を聞くでもなく、革椅子を軋ませ大きく伸びをしながら、ガトは足早に出て行く彼を見送った。
さきほどの喧騒が嘘だったような静けさの中、ローテーブルに置いていた革の手袋をゆっくりとはめる。
窓から入ってくる白い陽の光へと足を向け、紫色の瞳を細めて降り注ぐ光を全身に浴びた。太陽の白い光で、彼の瞳は淡いピンク色に透き通る。眼を閉じ、暖かさを感じながら背を向けた。
影になった彼の瞳は濃い紫色になり、暗い光を放つ。
「さてと、仕事でもすっかね」
その剣呑な光を帯びた眼とは裏腹に、ため息まじりに吐き出した言葉は、実に軽やかだった。