事件に繋がる者
深夜とはいえ商人の多いこの町は、暗いうちから準備が始まる。だが、まだすべてが寝静まっている時間だった。
風が山の木々を揺らし、フクロウの呼びかける声が、遠くからかすかに聞こえてくる。
静まり返った中、しばらくして棒を素振りする音がアネッロの耳に届いてきた。
石壁に囲まれた中庭で、モネータが鍛えているのだろう。それもいつもの事であった。
書類の上に置かれた細い銀縁の眼鏡が、蝋燭の灯火に鈍い光を放っている。
アネッロは美しく彫られた事務机に向かい、同じように彫られた椅子によりかかって腕を組み、目を閉じていた。
この時間だ。腕を組んだ彼の姿を見た人間がいるならば、寝ていると思うだろう。
規則正しく風を切る音が、ふいにリズムを変える。
アネッロは、薄く目を開けた。オレンジ色の光がダークブラウンの瞳の中で揺らめく。
眼鏡に手を伸ばしかけたその時、階下にある通りに面した扉のノブが回される音がした。
音が鳴らないよう、酷く慎重に動かしているその音に、伸ばしかけていた左手を、丸めて左腰に留めてある長鞭にかける。鍵がかかっているのを確かめただけなのか、それ以上の音は聞こえてこない。
すぐに蝋燭の火を揉み消すような真似はしない。小さいとはいえ机の傍には窓があり、火を消せば動きが知れてしまうだろう。
自らの影に気をつけながら移動し、事務所の扉を少し開ければ、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
階下には、大扉と居室に続く扉の間に取り付けている燭台で、短くなった蝋燭の火がけなげに灯り続けていた。
大扉のスリガラスには、ランプの明かりだろう光が怪しく揺れ映り、離れていった。走っているのか、砂利を踏む小さな音が、静寂の中遠ざかっていく。
軋む階段ではあるが、足の踏み場によっては音がしない場所もある。極めて限られた、その狭いポイントに足を置き、表通りに続く大扉の横壁に背を当てた。
砂利を踏む音や息を潜めるかすかな吐息、小さく身じろいだ衣擦れの音すらも聞き逃すまいと、聴覚を研ぎ澄ませ外を窺う。
どれくらいの時がたっただろう。潜む人間がいれば、業を煮やすほどの時が過ぎてから、アネッロは大扉の鍵を取り出した。
極力音がしないよう、ことさら時間をかけて鍵を回す。
静かに扉を開ければ、コツリと何か小さな物に当たった。
周囲を窺う。寝静まっている町は、闇夜に息を潜め、すべてを包み隠すようだ。そこには、昼間のにぎやかさの欠片もない。
不審人物を見る事も出来ず、アネッロは視線を下に落とした。
白い布に包まれた、何か小さな物。長鞭を腰に留め直し、短鞭を抜いて軽く突く。
特に硬い音も、危険物のようにも思えないそれを拾い上げると、紙がたたんで挟まれていた。
大扉と鍵を閉め、事務所に戻れば、何事もなく棒を振る音が続いている。
深く息を吐き出して、アネッロは近くにある客用の革椅子に腰をおろす。白い布に包まれている物をローテーブルに置き、紙切れを広げ――握りつぶした。
私は、あなたの役に立つ人間です。
私を認めてください。
そのたった二行が、アネッロの眉間に深いしわを刻ませる。
何かしら主張するように手紙を置いて立ち去る事は、頻繁になっていた。
白い布を開けずとも、中身は想像し得る物だろう。触った感触は、長く丸く芯のある柔らかさで、端には硬質な丸い物がついている。
「お前は、誰だ」
そう呟いて、立ち上がる。
事務机に置いてある燭台をつかみ、小さな窓際まで移動した。
見知らぬ相手が嘲笑しているか、高揚しているのか。どちらでも構わなかった。自分が標的になっているのは確実だからだ。
窓から見えるように紙を持ち上げ、火にかざす。
もし犯人が見ていなくとも構わなかった。燃え上がる紙をある程度眺め、床に落として踏みつける。
窓には酷く冷たい眼をした自分が映っているばかりで、外の様子など見えない。
だが、どこかで見ているに違いなかった。手紙をつけてきたのだ。反応を知りたいと思うのが普通だろう。
激昂するのか、憎悪を燃やすのか。どちらにしても、アネッロに対して何か行動を起こしてくるだろう。
アネッロは美しい椅子に座り、腕を組み、目を閉じた。
すべては、推測でしかない。だが、アネッロは確信していた。
自分に執着している者が、自分の大切な者を壊した。それが、この手紙の主なのだと。
ちょうど五年前に起こった事件の、首謀者であると――
――五年前のアネッロには、女がいた。
よく笑う、明るい女だった。童顔で可愛らしく、シルバーブロンドの長い髪は美しく艶やかで。緑色の瞳は、なめらかな白い肌によく似合っていた。
その屈託のない明るい声に、アネッロの荒んだ心は癒されてきた。
「アリ。私、家出するわ。だから、一緒に駆け落ちしましょう」
事務所の扉が壊れるかと思うほど、勢い良く開けた第一声がそれだった。
黒の革椅子に座っていたガトが、あんぐりと口を開け、振り向こうとして、椅子から転げ落ちる。
アネッロすら、眼を見開き、大事な書類を握りしめてしまったほどの驚きだった。
ドレスの裾に引っかからないよう少し持ち上げ、足音荒く事務机越しに、アネッロへと詰め寄る。
「アリ、私と一緒に逃げましょう」
彼女越しに、ガトが興味津々、眼を輝かせているのが見えた。
なんとか持ち直し、書類から手を離して苦笑する。
「いつも突然ですね、シェーン」
「そうかしら? でも、本当に切実なのよ。お願い、私を連れて逃げて」
両手で机を強く叩く。彼女が真剣な表情をすればするほど、アネッロは抱きしめたい衝動に駆られる。
だが、それをしたら耳まで赤く染めて、烈火のごとく怒るだろう。
「今度は、どんな本読んできたんだ? お嬢ちゃん」
お嬢ちゃんと呼ばれ、眉間にしわを寄せたシェーン=モントが、ガトを睨みつける。
「お嬢ちゃんって呼ばないでと、何度言ったら分かるの! だから、いつまでも下っ端扱いなのよ」
革のソファに座りなおしたガトは、両腕を背もたれの上にかけ長い足を組む。
シェーンの言葉にも、余裕の笑みで返した。
「おうおう、言いたい放題だな」
「ガトは絡み方が雑ね。そこいらのチンピラのほうが、よっぽど言葉の種類が豊富だわ」
「そりゃそうだろ。なにしろ俺様は、チンピラじゃねえしな」
「そうよね。あなたは……って、ガトなんかと話し込むために来たわけじゃないわ! あなたはちょっと黙っていて!」
完全に紫の瞳をした男に背を向けた。
シェーンはもう一度、両手で机を叩く所から始める。
「アリ、あなたは私を愛しているでしょう?」
茶化すように口笛を吹いてくるガトを、完全に無視する事に決めたようだ。
そんな彼女に、アネッロは笑った。それが気に入らなかったのか、シェーンはますます不服を表情に乗せる。
そんな彼女の手に、自らの手を乗せて、包み込むように握った。
「どうして駆け落ちという話になるのか分からない。話が見えないと、答えようがないだろう?」
「そうね。そうよね……でも、私から離れないって、誓ってくれる?」
目を逸らす事なく、頷いて見せれば、強張った顔が少しだけ綻んだ。
「お父様が、アリとの交際に反対しているの」
「それで、見合いの話が出ているのか」
納得したようなアネッロの顔を見て、今度はシェーンが驚きを隠さずに、目を丸くした。
唇を振るわせて、重ねられている彼の手の上に、左手を重ねた。
「どうして、それを? まだ噂にもなっていないはずなのに」
「そんな話は、様々な所から入ってくるからね。お父上が貴族連中に、盛んに声をかけておられるようだよ」
「そんな! お父様、酷いわ!」
「気持ちは、分からなくもない。大事な一人娘が、有益にもならない金貸しに嫁ぐなど、許しがたいだろう」
「私にとっては、これまでもなく有益だわ!」
アネッロの手を力強く挟み、意志の強いまなざしは、心を見透かすような力に満ちていた。
そんな彼女の手の上に、残った右手を重ねれば、シェーンは唇を噛む。
「シェーン、君から離れるつもりはないよ」
堪えていたのだろう。その言葉に、シェーンの目から涙が溢れた。
細く白い手を、なだめるようにゆっくりとなでる。
「安心するといい。そんな話、私がいくらでも潰してやるからね」
当然のように言って笑えば、彼女も泣きながら頷いて、嬉しそうに笑った。