盗人の居場所
特に夜。暗い路地裏に入り込むと、左右の石壁が押し迫ってくるような錯覚に襲われる。
カリダは、夜が苦手なわけではなかった。月が出ていないほうが、誰に見つかる事もなく安心だからだ。
だが、頼りなげな光を放つ唯一の明かりは、自分の行く先を照らしている。
不思議な感覚だった。凝り固まったはずの心が大きく揺さぶられる。
そんな感情が生まれた事に、少女は顔を歪ませ――さらに引きつらせた。
「いってえ!」
その声に、モネータが振り返ってくる。端整な男の顔は、硬く厳しい。
「なんだよ。なんか文句でもあるのか?」
「……文句など。それよりも、謝罪すべきなのか」
「はあ? 謝罪?」
気持ち悪いと言わんばかりに、再度顔を歪めれば、また顔に痛みが走る。
風呂で頭ごと水につけて冷やした顔が、熱を持っていた。モネータの表情を見る限り、酷く腫れてきているのだろう。
その原因を作った張本人が、そういえば目の前にいた事に、痛む顔を無理に動かして笑った。
「そうだよな。あんたがやった結果がコレだ。謝罪だけじゃすまないぞ」
「本当に、申し訳ないとは思う。ですが、そもそもカリダさんが悪事を働くからです」
「……さんとか。つけるな! 気持ち悪い」
「しかし、女性にはきちんとした対応を……」
「やめろって言ってんだろ、気持ち悪い!」
後ずさったカリダだが、モネータは至って真剣そのものだ。
どうしてそんな言われ方をされたのか分からず、追いかけるように彼女の方へ一歩踏み出す。
「うわっ! こっち来るなって!」
「どうしてだ。私は真剣に話をしているのに」
「だから厄介なんだろ!」
「二人とも、夜分に大声は近所迷惑ですよ」
開いた扉の中からは、光が誘うように揺れている。静かだが良く通る低い声に、二人は揃って口をつぐむ。
石壁に小さく口を開けたような出入り口から入り込めば、アネッロが神経質そうに鍵を三つかけるのを、カリダがつまらなそうに見届けた。
流し台で布を濡らして戻ってきたモネータは、それをカリダに差し出す。叩き落とそうと振り上げた細い腕は、顔の痛みに負けて奪い取る形に変更された。
「すみませんでした。まさか、女性だったとは」
「女性って言うな」
「アネッロ様から聞きました。彼は、冗談はともかく嘘は言わない。だから、あなたは女性のはずです」
「だから、なんだってんだ。あんたに関係ないだろ。それに、金貸しなんて嘘を並べ立てる職業なんじゃねえの、か……よ?」
小さな後頭部を、骨ばった長い指がわしづかむ。
カリダは鈍い痛みが走る後頭部を、首をすくめてささやかに抗議するしかなかった。
背後から聞こえる低い声は、鈍痛とはかけ離れた、柔らかい声をしている。
「嘘とは、大それた事を口にしますね」
「おおよそ当たりだと思うけど、間違ってたかもしれない」
「そのようですね」
やっと万力のような手から解放され、カリダは作り笑顔の彼から飛び退いた。
「そういやさ。あのでぶっちょの指輪、取り上げなくても良かったのか? 金足りないとか言ってたし、盗ってやろうかと思ったけど、指にめり込んでやがったからさ。手を出せなかったんだけど」
「盗らなくて正解です。取立てに失敗するような同業に、残してやるのもどうかと思いましたがね。連絡を入れてしまったからには、帰りの馬車賃を残してやるくらいはしても良いでしょう」
「やっぱり連絡済みかよ。でも、町で噂の人非人とは思えない言葉だな」
「人非人ですよ。今回売った恩は、当然回収します」
笑うアネッロに、カリダはモネータの横で汗を吹き出していた。
その声には、温かさではなく冷酷さしか感じなかったからだ。
アネッロは棚に手をやり、封筒を取り上げる。
「カリダ」
その声に、おもわず直立の姿勢をとったカリダに、アネッロは気にする素振りもなく、ただ封筒に視線を落とし、封を切っていた。
「モネータの隣室を使いなさい。場所はモネータに聞くといい」
カリダが嫌そうな顔をするのと、モネータが動揺を隠す事なく、硬い口調でアネッロに抗議の声をあげたのは同時だった。
「アネッロ様。男の部屋の隣に女性を住まわせるのには、問題があります」
「どんな差し障りがあるのです?」
眼鏡を外し、視線をモネータに投げかければ、彼は真剣な顔で頷いてきた。
「それは……その、彼女はまだ嫁ぐ前の女性だからです」
その言葉に、カリダは顔を覆っていた布を取り落としかける。
文句が出る前に、アネッロは面白そうに目を細め、口元に手をやった。
「ほう。嫁ぐ前の女性だから、なんだというのです」
「書物や母から学んでいます。それはとても失礼な事なのです」
「お前が、カリダに何かするとでも言っているようにしか聞こえませんがね」
眉を吊り上げ、驚きと怒りに息を呑んだモネータの顔が、耳まで赤く染まっていく。
アネッロは笑いを堪えるように、咳払いをした。
「モネータ、部屋数はそうない。カリダに襲われたくなければ、鍵でもかけて寝ればいい」
「そ、そういう問題では!」
詰め寄ってくるモネータに、手にしていた封筒で軽く顔を叩いてやる。
そう痛くもない顔を押さえたモネータを尻目に、中から数枚の書類を取り出すと、二枚を残し、封筒と数枚の紙をストーブに投げ込む。残した二枚の内、一枚を広げながら微笑した。
「カリダもお前と同様、家族になる。本の中身が、全て正しいとは限りません。貴族ならばともかく、一般家庭では当然の事です。それにこの家の法は、私ですよ。隣が嫌だという事は許さない」
養子に関する書類だった。
気持ちに整理をつけるためか、ゆっくりと息を吐き出し、モネータは頷いた。
「……分かりました」
ストーブの中に放り込んだ紙は、欠片も残らず黒く焼け、灰になっていた。
激しく踊る炎に目を細め、アネッロは彼の返事とともに背を向けた。
大きな図体が肩を落とす様は、見ていて滑稽だったのだろう。乾き始めた布に顔を押し付けていたカリダが、小さく身体を震わせている。
それに気付いたモネータも、苦笑するにとどまった。アネッロが後ろ手に投げて寄越した鍵を受け取り、彼女に手を差し出した。
「カリダさん、案内します」
「さんづけすんな」
布から顔を離し、今度こそ大きな手を力任せに叩き落とした。
特に痛い素振りもなく、モネータは困惑した表情を浮かべる。
「しかし、女性には礼節を尽くさなくてはなりません」
「だったら、女扱いしなきゃいいだろ。良いトコの坊ちゃんじゃあるまいし」
生温くなってきた布の位置を変えながら、黙ってしまった男に視線をやって、苦笑した。
「野良犬が物乞いするような顔すんなって」
「も、物乞い?」
あんぐりと口を開けたモネータに、カリダは歯を見せて笑う。
「それにしても、おれ専用の部屋があるとは思わなかったな」
ストーブ近くの床を指差し、その辺で寝ようと思ったのにと言えば、金髪男は驚愕に目を剝いた。
そんな彼を不思議に思い、小さく首をかしげる。カリダには当然の事だった。
「変なやつらだな」
「アネッロ様は、色々と言われていますが、本当は優しい方なのです」
「……それについては、頷けないけど。エサ貰っちまったからな、少しだけ大人しくしてやるよ。ほら、案内しろ」
「あ、ああ。こっちです」
カリダの言葉に面食らいながら、モネータは右手を差し出しかけて、やめた。腫れてしまった両目に、怒気がはらんでいるのを感じ取ったのだ。
棚に置いてあったランプを二つ手にし、四方に取り付けている燭台の蝋燭から、火を移す。
一つを小さな少女に手渡してやり、アネッロが消えた方向とは逆へと歩き出す。
壁一枚隔て通路を挟み、扉が二枚、間隔を開けて並んでいた。
「奥の部屋を使って下さい」
「おれ、手前がいい」
「どうしてですか?」
「手前のが、いざという時に逃げやすいだろ」
「押し込み強盗があった場合、真っ先に狙われると思いますが」
それを聞いて、カリダは呻き声をあげ、奥の部屋へと入っていった。