眼を惹く者
豪奢に飾られた一室。王城にも届く名を持つ画家に描かせた領主の雄々しい姿は、床面近くから天井にまで達し、彫金された額縁に入れられ、超然とした様子で部屋に睨みを効かせている。
それには眼もくれず机を挟み、男二人が向き合って座っている。バルコニーに出る為の、ガラス張りの大きな扉からは、白い光が差し込み、柔らかく二人を包んでいた。
バルコニーの向こう側は、四方が壁で囲まれた広い中庭になっていたが、家人ではない男は興味を持つ事はなく、絵画によく似た顔の男、ジルニア領の当主カウル=ジルニアから眼を離さず、笑顔を絶やさない。
質も仕立ても良い深い緑色の上着を身につけ、細い銀縁の眼鏡をかけた優男アネッロ=ジュダスは、木箱から数枚の書類を取り出し、机に広げた。
「ではジルニア様、こちらにサインをお願い致します」
立派な口髭を蓄え、満足気にパイプをくゆらせるジルニアは、それを眼だけで見やり鼻を鳴らした。
「アネッロよ、知らぬ仲ではあるまい。同じ書類を毎回書く必要がどこにあるのだ」
深くしわを刻ませたジルニアが苦々しく笑う。笑みを張り付けたままのアネッロは、それを崩す事なく涼しげに言葉を返した。
「ジルニア様への信頼が揺らぐわけではございませんが、我々にも手順という物がございまして。これは通過儀礼とでもお受け止め下さいませんか」
笑顔のまま、しかし頑として事を収めようとしないアネッロに、文句を言いながらも万年筆を渋々持ち上げるしかなかった。
「金貸し風情が」
金で細工された万年筆をテーブルに投げ出したジルニアに、丁寧に書類を確認しながらアネッロは軽く笑い声をあげた。
「私にとっては、褒め言葉でございます」
嫌味にもならなかった言葉を取り消す事もなく、ジルニアは興醒めしたように視線を外へと向けた。
書類を木箱へと戻し、革で頑丈に作られた鞄から金貨の詰まった袋を五つ取り出す。
「どうぞ、ご確認下さい」
「数えよ」
ジルニアが声をかければ、続き部屋に控えていた身なりの良い老齢の男が黒髪の男二人を従え、うやうやしく入ってくる。
毎回変わる事のない三人が金を数える音が続く。バルコニーの下から、罵声や何かを打つ鈍い音が響いてきたが、アネッロは眉一つ動かさない。仕事に来ているだけで、その家のゴタゴタに巻き込まれるのは最も避けたい現実だ。
だがその騒ぎを耳にしたジルニアは立ち上がり、ついてこいと促した。
「面白い見世物が始まる。見ていくがいい」
「いえ、私は……」
「金を数える間だけだ。仕事に取り憑かれるのも構わんが、たまには余興に興じるのも大切だとは思わないかね?」
言葉の裏に、否とは言わせない響きがあり、アネッロは渋々といった様子で腰を上げた。
ジルニアはガラスがはめこまれた、バルコニーに続く扉を開け放つ。
心地良い風が吹き込み、後ろに流しているアネッロの黒い短髪を優しく撫でる。澄んだ空気が肺を満たし、黒く溜まった何かを吐き出すように呼吸したが、出てきたものは当然無色であり、アネッロは今一度、息を大きく吐き出した。
降り注ぐ太陽の光を一身に浴びるために造られたような、白いバルコニーに立つ。
促されて下を覗けば、青々と広がる手入れの行き届いている芝生の上で、裸体の美女達が宴を開いているわけではなかった。
がたいの良い金髪の男が上半身裸の上、肩に丸太を担いでいる。しかし、どう見ても好きで担いでいる格好ではない。
丸太を両肩に乗せ、両腕を後ろから回し、縄でくくられていた。頭を垂れ、上からではその表情は見えなかった。
大人の腕ほどもある棒を、隆起した背に打ちつけられるが、呻き声は聞こえてこない。
強いられるままに視線を投げていると、パイプを口から離したジルニアは楽しそうに口の端を持ち上げた。
「興味があるかね?」
「いえ。そういうわけでは」
「そうかな。お前の好きそうな状況ではないかと思ったのだが」
その言葉に微笑を浮かべ、小さく肩をすくめて見せた。どちらとも取れるように。
悪趣味だという事は、この人物と繋がりを持たざるを得なかった時から分かっている。
客になる者の事は、周辺の事も含め、調べ尽くしていた。
こういった場面では、肯定も否定もしない事だった。
それぞれに棒を持った男達がこちらに気付き、ジルニアの姿を確認すると姿勢を正す。
アネッロの隣にいる男は、片手を上げてそれに答えた。
雰囲気が変わった事に気付いたのだろう。頭を垂れていた金髪の男は、ジルニアを見上げた。
男であるアネッロでさえ、思わず目を惹いた。
怒りに燃える双眸は空のように青く、憎悪に歪む顔は、男でもそれと認められるほど美しく端整なものだった。
人間的な感情を剥き出しにするその若い男は、白い肌を赤く染めるほど怒りを露にしていた。
だが、罪人の風体をしているにもかかわらず、彼からは人間の持つ黒さが感じられないのだ。
正しい者が持つ、純粋なる怒り。
そうアネッロが考えた所で、金髪の彼は声を上げた。
「お前を父とは思わない! 母や彼女を誑かし、殺したな。他にもつかんでいるぞ! 俺をどうしようとも、真実はいつか明かされる! いつか、お前は吊るされるのだ!」
アネッロにも聞かせようと言うのか、しきりにジルニアの悪行を並べたてようとし、やめろと棒で酷く打たれた。
それを見下しながら、ジルニアは楽しげに笑う。
アネッロは心の中で、若いな。と呟いて、ただ眼を細めただけだ。
調べによれば、十六になった養子が一人いたはずだった。
父と呼んだ事から、あの金髪が息子なのだろう。屋敷の端にある小さな塔へ、母子共に閉じ込められている事は知っていたが、姿を見る事は初めてだった。名は確かロウティアといったはずだ。
「奴の言う事を、信じるかね?」
くつくつと笑いながら、言葉をかけてくるジルニアに、もう一度肩を持ち上げて見せた。
「私には、関係のない事にございます」
「つまらん奴め」
「申し訳ございません。今後もジルニア様とお取引出来る事こそが、私にとっては重要ですので」
「そうだろうな」
もういい、と手を振れば、男達が動かなくなった青年を引きずっていった。
部屋に戻っていくジルニアの少し後を、ゆっくりと追う。
金は数え終わっており、アネッロは書類の入った木箱からジルニアが書いた書類の一枚を取り出して渡す。
「では、こちらが取引をしたという書付となります」
老齢の男に、いつものように一枚手渡し、木箱に鍵をかける。
革の鞄にすべて収めると、アネッロはすぐに立ち上がった。
「では、これで失礼致します」
望む反応が得られず、気に入らなかったのだろう。椅子に深く腰掛けたジルニアは見向きもせず、犬でも追い払うように手を振った。
老執事に門の外まで見送られ、館をぐるりと囲む高い塀を右手に、ゆっくりと歩を進める。
村に続く道へは、森を抜けなければならない。馬車を用意されてはいたが、丁重に断った。森を抜けるとはいえ、馬車が走れるような道はある。
だが、村まで一日もかからない時は、歩いていた。
以前起きた事件のせいでもある。
他の地からの仕事帰り、用意された馬車に乗り、死にかけた事があった。片側しか乗降する扉がなく、途中で囲まれ殺されかけた。
それ以来、信用出来ない上客からの用意した物は、全て断っていた。
風は爽やかで、歩くには丁度良い。葉ずれの音や、鳥の声が森の中を縦横に駆け巡っている。
アネッロは眼鏡を外し、首を締め付けているタイを緩める。ふと人の気配に気付き、足を止めた。
「何用ですか?」