夜戦
夜空を覆い尽くすほどの巨体が、ゆっくりと首をもたげ始める。
黄金色に輝く爬虫類の瞳孔が、眼下にいる小さな存在――リオンを捉えた。
『シュルルゥ……』
舌を鳴らす湿った音。その振動が空気を揺らし、リオンの肌をビリビリと撫でる。
その眼差しは、真っ直ぐにリオンを見据えていた。
ウィングサーペントにとって、目の前の少年はただの餌。取るに足らぬ捕食対象でしかないのだ。
(よしよし……。その調子で僕だけを見ていなよ)
リオンは恐怖と緊張を腹の底に押し殺し、足にグッと力を込める。
そして、一気に解き放った。
「こっちだ!!! 食えるもんなら食ってみろ!! 羽蛇ちゃん!!」
叫ぶと同時に、地面を蹴る。
向かう先は、ニックたちが隠れている村長の家とは真逆の方向。
村外れへと続く一本道だ。
『ギシャアアアアアアアッ!!!!!!!!!』
餌が逃げ出したのを見て、怪物が吼える。
その巨体を大きく翻し――轟音と共に、リオン目掛けて突進を開始した。
「うぉっとぉ!!!?」
リオンは、背後に迫ってきたウィングサーペントの突進を紙一重で躱した。
直後、耳をつんざくような破壊音が轟き、凄まじい風圧が背中を叩く。
リオンの額からは、ツツッーと冷や汗が流れ落ちた。
「流石にあれに当たるのはまずいよねぇ」
瓦礫の中に突っ込んだウィングサーペントは、すぐにその巨大な頭をもたげ、次なる突進を繰り返す。
大地を削りながら這い回り、リオンを捉えようと大口を開けて食らいつく。
だが、当たらない。
いや――正確に言えば、「避けられて」しまう。
どんなに猛スピードで、どんなに手数を増やして食らいつこうとしても、リオンは最小限の動きで難なく躱してしまうのだ。
まるで背中にも目があるかのように、正確なタイミングと位置取りで、巨体の隙間をすり抜けていく。
『シヤァァァァァァァァァッ!!!!!!』
「ありゃりゃ。あんまり食べられないからって、怒っちゃった?」
度重なる空振りに、ついにウィングサーペントは腹を立てた。
捕食者の余裕は消え、激情のままになりふり構わずリオンを追いかけ始める。
ドオオオオオオオオオンッ!!
ドゴオオオオオオオオンッ!!
勢いを殺さず、直線的な突撃を繰り返す怪物。
邪魔な障害物はすべて粉砕する。
村の建物を何事もなかったかのように破壊しながら、その牙はリオンへと迫っていた。
「やばっ、これはまずいかも」
ウィングサーペントの最高速の突進。
リオンに、それを避ける暇はなかった。
その一撃は正確にリオンを捉え、そして――
ドオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
まるで大量の火薬が爆発したかのような、凄まじい衝撃と轟音が炸裂する。
直撃の余波で、猛烈な突風と砂埃が舞い上がり、辺り一面を白く包み込んでしまった。
ウィングサーペントは確信した。
今、目の前にいた小生意気なガキは、この圧倒的な質量に押し潰され、ぐちゃぐちゃの肉塊に変わっているはずだ、と。
だが。
砂煙の向こうから聞こえてきたのは、骨が砕ける音ではなく――どこか呆れたような、気だるさを帯びた「声」だった。
『呆れたな……。また俺様のことを、こんなギリギリの状態で呼びやがって』
「えへへ。でもホバンスさんにも言われてたでしょ? 『一つのことに頼りすぎない戦い方をしろ』って」
風が吹き、砂埃が晴れていく。
そこにいたリオンは、死んでいなかった。
それどころか、傷一つ負っていなかった。
『???!!!!』
ウィングサーペントの動きが止まるのも無理はない。
リオンは、あろうことか。
あの巨大なウィングサーペントの顎を、異形のごとく巨大化させた自らの右腕一本で、ガシリと受け止めていたのだ。
その右腕は、十三歳の少年にはあまりに似つかわしくない代物だった。
肘の先から指先までがどす黒く変色し、丸太のように肥大化している。
まるで幾星霜もの「黒」を混ぜ込んだかのようなその腕は、人の身には余る、地獄の魔人が振るうごとき剛健さを放っていた。
『一応言うがな、リオン。今の俺様はあくまでお前の体の一部であって、便利な「能力」じゃないぞ。……それに、ホバンスも言ってただろ。「使えるもんはなんでも使え」ってな』
辺りに静かに響くその声は、憎まれ口を叩きながらも、どこか楽しげだ。
リオンは気だるげな言葉を喋る巨大化した自らの右腕に向かって、口元を緩めた。
「それもそうだね……『クロ』」
『んじゃ、早速この好き勝手暴れてくれたクソッタレに、身の程ってもんをわからせてやろうぜ。リオン』
「うん!! いくよ!!」
リオンは力強い返事と共に、地面を蹴った。
あの巨大なウィングサーペントの懐へ、真正面から駆け出していく。
『??!!』
ウィングサーペントは、目の前の捕食対象が自ら向かってくることに、一瞬だけ困惑した。
逃げるどころか、向かってくるだと?
だが、怪物はすぐさま迎撃しようと身を翻す。
ウィングサーペントが大口を開け、リオンを思い切り噛み砕こうと迫る。
「当たらないよ!! そんな攻撃!!」
リオンは空中で身をひねり、その牙を紙一重で躱した。
だが、ウィングサーペントも攻撃の手を緩めない。
噛みつきを避けられたと同時に、その長大な体をうねらせる。
空中に浮いて身動きの取れないリオンを叩き落とそうと、丸太のような尻尾を振り回したのだ。
が。
グガガッ!!
『喰らわねぇよ!!! バァカ!!』
クロが顕現した右腕が、その質量を真正面から受け止める。
それどころか、強引に軌道を逸らして軽くいなしてしまった。
予期せぬ反動を受け、ウィングサーペントの巨体が大きくバランスを崩す。
無防備な土手っ腹が、ガラ空きになった。
『よっしゃあ!!! リオン、今だ!! 叩き込んじまえ!!』
「くっらえええええええ!!!!!」
リオンは重力を味方につけ、一気に地上へ――怪物の胴体へ向かって急降下する。
右腕を限界まで振りかぶり、ウィングサーペントの土手っ腹を正確に捉えた。
『ギシャアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!!!』
漆黒の巨腕がメリィッ!! と腹の中心を深々と抉る。拳が分厚い筋肉の層を突き破り、中の内臓を圧し潰す感触が伝わる。
衝撃は背中側まで突き抜ける。
ウィングサーペントの巨体は空中で「く」の字に折れ曲がり、完全に破壊された。
ズゥゥゥゥゥン……!!
地響きを立てて、巨大な体が大地に沈む。
ピクリとも動かなくなった怪物を見下ろし、リオンは拳を突き上げた。
『ガッ......シャァ....ァ』
「やったぁ!!やっつけたぞ!!!」
『完全に内臓をシェイクにしてやったぜ!.....へん、ザマァみやがれ』
リオンが右腕を軽く振ると、魔人のような巨大な黒い腕はウネウネと蠢き、粘度を持つ液体状へと変化した。
ドロリと溶けたその影は、リオンの足元へと飛び込んでいく。
影の表面がまるで水面のように揺らぎ、ぽちゃん と軽快な音を立ててその中へと消え去った。
直後。
足元の影から、再び黒い物体が勢いよく飛び出す。
不定形のそれは瞬く間に形を成し、ニヒルな目と牙を生成すると――
パチンッ!!
リオンの掲げた右手と、軽快なハイタッチを交わした。
「『イェーーイ!!』」
少年と影は、息の合った声で勝利を祝った。
「これでニックさんも村の皆さんも一安心だね、クロ!!」
『まぁな。……だが、俺から言わせりゃまだまだってところだ。最後の踏み込みも甘いし、動きはまだ粗だらけだぞ』
「えぇー?! そんな!! もうちょっと褒めてくれたっていいでしょ!!」
一人と一匹(?)が和やかに戯れていると、村の方角からこちらへ走ってくる人影が見えた。
「おぃーーい!? 大丈夫かリオン!!?? さっきのデケェ音……それにこの状況、勝ったんだよな?!」
ニックだ。
先ほどの凄まじい地響きを聞き、心配になって家から飛び出してきたのだろう。
彼は大きく手を振りながら、息を切らして駆け寄ってきた。
「あ! ニックさん、見てくださいよ!! ウィングサーペント、ちゃんとやっつけちゃいましたよ!!」
「ぅお?! 本当だ……すげぇ……」
ニックは巨大な怪物の骸を眺め、呆然と立ち尽くす。
そして、恐る恐るリオンに向き直った。
「リオン、お前……こいつを一人でやったのか?」
その言葉を聞いた瞬間。
リオンの足元の影が、勢いよく膨れ上がった。
『ちげぇよ!! バカ!!! 俺様との協力あってこそだよ、クソガキ!!!』
「うおおお?!! な、何だこの変なウニョウニョはっ??!!」
突然喋り出した黒い物体に、ニックは腰を抜かさんばかりに驚く。
そんな彼を見下ろし、クロは目と口を器用に作り出すと、ふんぞり返るように告げた。
『へん、今更気づいたかよ。口の利き方は気に食わねぇが、まぁいい。俺様は「クロ」……せいぜい覚えておけよ』
「まぁ、僕の相棒というか、お守りというか……家族みたいな感じ?」
リオンのふわっとした言葉を受け、妙に飲み込みきれないものが喉につっかえる。
だが、それでもニックは大きく息を吐き出して、無理やり納得することにした。
「……家族、ねぇ。まぁ、あんたがそう言うんだったらそうなんだろうな」
頭をボリボリと掻きながら、リオンとその隣にいる珍妙な黒い物体を交互に見やる。
常識的に考えれば納得などできるはずもない。だが今の彼にとっては、それ以上に目の前で怪物が死んでいるという現実の方が重要だった。
「……って、そんなことはたいしたことじゃなかったな。俺、村のみんなを呼んでくる。早くみんなに、このことを伝えないといけねぇからな」
ニックは笑顔を浮かべながら村の方に向かって歩みを進める。
リオンもその後に続こうとした、その瞬間だった。
『ギ、……ギシャア……』
「「っ???!!!」」
死んだはずのウィングサーペントが、動き出した。
重たい瞼を持ち上げ、こちらをギロリと睨みつける。
弱々しくも鋭い眼光は、確実にこちらの命を奪わんとする殺意に満ちていた。
『ッシャアアアアアアアア!!!!!!!』
素早いなんて次元ではない。
もはや爆発に等しい瞬発力で放たれた、獲物を打ち砕かんとする決死の一撃。
そして、その矛先はリオンに向かったものではなかった。
「っうわぁあああああああ?!!!」
リオンの前を行く、ニックに向けられたものであった。
「……ッ、ニックさん!!!!」
ドンっ!!
リオンは咄嗟に地面を蹴り、勢いよくニックの背中を突き飛ばした。
不意を打たれたニックは、受け身も取れずに無様に地面を転がっていく。
「...え?リオン??」
ニックが驚いて顔を上げた、その時だった。
彼がさっきまで立っていた空間を、ウィングサーペントの巨大な顎が通過する。
そして――身代わりとなったリオンの姿が、その口元にあった。
それは咄嗟の判断であり、あまりにも迂闊な代償を伴うものだった。
『ギシャアアアアアアアッ!!!』
ガブゥッ!!!
「ぐあっ……!?」
獲物を逃した怪物の大口が、代わりにリオンの体を丸ごと食らいつく。
鋭い牙が体に突き刺さる――かと思われたが、寸前でクロが防いだのか、それとも「餌」として持ち帰るためか。
ウィングサーペントはリオンをその口で無造作にくわえ込んだ。
「リオン!!?」
『くそがぁ!!? このガガンボ、まだ飛べんのかよ!!?』
バサァァァァァッ!!!
リオンをくわえたまま、ウィングサーペントは残された翼を無理やり羽ばたかせる。
決死の覚悟か、最期の執念か。
長い胴体を鞭のように空中でしならせ、強引に空へと舞い上がる。
「は、離せぇ……っ!!」
抵抗する間もなかった。
あっという間に地面が遠ざかり、村の家々が、そして手を伸ばすニックの姿が豆粒のようになっていく。
「リオンーーーーッ!!!」
地上から響く悲痛な叫びも、轟々と鳴り響く風の音にかき消されていく。
全てを飲み込んでしまうような夜空へ。
リオンとクロは、怪物と共に誰も手の届かない彼方へと追放されてしまったのだった。




