心が折れた日
畑仕事で日に焼けた肌と、人懐っこい大きな瞳。
村を出て冒険者になるだなんて無茶を言った俺を唯一応援してくれた幼馴染。
「いつでも帰ってきなよ。待ってるからさ」
なんて。
その時の俺は未来への展望に溢れていて、その幼馴染の言葉を話半分に聞き流していたけど。
今ならその言葉のありがたみが痛いほどわかる。
――故郷に帰ろう。そう思った今の俺には。
小さい頃から有名な冒険者に憧れていた。理由なんて特にない。娯楽の少ない小さな村での楽しみは、教会の神父様や両親、村の人が時々聞かせてくれるとても強い冒険者の英雄譚くらいだ。
だから村の同じくらいの男の子たちは皆冒険者に憧れていたし、もちろん俺だってそのうちの一人だった。
だから大きくなったら真っ先に村を飛び出して、近くの町で冒険者として活動を始めた。冒険者になるのに特別な資格なんて必要ない。俺みたいな田舎の農夫の息子だって簡単になることができる。
憧れの冒険者になった俺は身の丈に合わない依頼を受けようとしてギルドの受付に怒られたり、先輩冒険者にしごかれたり、地道に依頼を受けて町の人に感謝されたり。
派手ではないけど堅実な冒険者人生を歩み始めていた。
このままいけばたぶん、町の人から信頼されて愛されるような、そこそこの冒険者にはなれていたと思う。
でも、言ってしまえばそれだけだ。そこそこの冒険者どまり。俺の憧れだった英雄譚に出てくるような、とても強くて有名な冒険者なんかに到底なれやしない。
少しでも難しい依頼を受けて、少しでも位を上げて、少しでも有名に。そんな思いを持って冒険者家業に精を出していた同年代の男は結構いて、そういう仲間と集まって酒場で将来の展望を語って馬鹿騒ぎをしては先輩冒険者に「夢ばっか見てんじゃねぇ!」と拳骨を食らっていた。
そんな風に、言ってしまえばどこにでもいる若手の冒険者の一人として過ごしていた俺だったけど、そうやって過ごしているうちに人生で初めての恋人というものができた。
同じ冒険者仲間で、気の優しいかわいらしい女の子だった。
名前はネル。冒険の邪魔にならないように肩より上で切りそろえた紺色の髪と、落ち着いた焦げ茶色の瞳が特徴的だった。
きっかけはネルが一人で冒険者組合に来た時に、俺より若い男の冒険者に絡まれていたところを俺が助けたことだった。
女性で冒険者をやっていること自体は、あんまり珍しいものでもない。男の方が数は多いとはいえ、魔法や闘技なんかは女性も使えるし、冒険者の実力という点を鑑みれば男性も女性も大差はない。
ただ、一人で行動しているのは珍しかったし、ネルもまだ駆け出しで声をかけやすかったんだと思う。
俺もまだまだ若手のガキだったけど、ネルに声をかけていた奴らよりは先輩だったから声をかけて追い払った。ネルが嫌そうな顔をしていたからだ。
俺が冒険者を追い払ったことにネルは感謝をしてくれて、そこからお礼だと言われて食事に連れて行ってもらい、俺とネルの交流が始まった。
駆け出し冒険者だったネルはパーティを組んでくれる人を探していたらしく、そのことについて受付に相談をしていた最中だったらしい。
その話を聞いて俺は「よければパーティを組んでくれる人が見つかるまで、俺が組もうか?」と声をかけたのだ。
ネルはその俺の提案をありがたがってくれて、それから俺とネルはパーティを組むようになった。ちょうどその時俺も組んでいたパーティを解散したばっかりで一人だったから、ネルと二人で再出発を切ったということだ。
最初は臨時のつもりだったネルとのパーティも、ふたを開けてみれば俺とネルの相性は結構よくて無理に解消する必要性が見つからず、そのまま正式なパーティになるのに時間はかからなかった。
正式なパーティになった後は、公私ともに様々な場所を訪れて、一緒の時間を過ごして――そして俺たちは恋人になっていた。
何か大きな事件やきっかけがあったわけじゃないけど、毎日を一緒に過ごす中で自然とそういう関係になっていたのだ。
それからしばらくの間はネルと二人で冒険者家業をこなしていった。
俺もネルもそれなりに上昇志向があってどんどん依頼を消化していっていた。ネルと組むまでは難しくてなかなか手が出せなかった依頼も手を出していって、俺とネルは若手の中でもそれなりに有望株として注目を浴びるようになっていった。
そうしてネルと二人で過ごしていったのだけど、ある時俺たち二人では先に行けないかもしれないという壁にぶち当たった。
それまでは二人でも問題なく依頼をこなしていたのだけど、その頃組合から回される依頼は二人だと達成が厳しいくらいの難易度のものが回されるようになってきていた。
当然俺とネルも二人で努力はしていたんだけど、二人でできることにも限界がある。だから俺たちはこれ以上の実力を手に入れるために、パーティに一人の男を迎え入れることにした。
組合の教育係も兼ねている男で、アキラという名前の冒険者だった。
教育係ということもあって俺たちよりも位の高い冒険者で実力もあって、柔らかい笑顔で人当たりのいい気のいい男だった。
俺たちにも熱心に指導してくれて、冒険者の基礎から応用、依頼人との交渉の仕方や、組合の制度の賢い使い方とか。
冒険者に必要なことは一通りアキラから教えてもらったように思う。
そうやって冒険者として学び直している日々の中、気がかりなことが一つあった。
その頃、ネルの帰りが遅くなることが時々あった。俺とネルは恋人同士で一緒の宿に寝泊まりしていたけど、何も四六時中一緒に行動しているわけじゃない。お互いの自由時間だって当然持ってたし、相手を束縛するようなこともしていなかった。
だからそれまでもネルの帰りが遅くなることはたまにあったけど、その頃はその頻度が以前と比べて格段に増えていた。
ある時気になって「帰りが遅いときって何してるの?」って聞いても「ちょっとね……大丈夫だよ、心配しないで」なんて言葉を濁されてしまった。
だから俺はその時ネルが何をしていたかなんて知らない。
そんな日々を過ごしていくうちに、なんだかネルの態度が少しだけ硬くなったと感じるようになった。普段は別にそうでもないし、恋人同士の距離感で過ごす時間だって当然あった。
でもふとした瞬間、前なら触れ合っていたようなタイミングで体を逃がされたり、話を切り上げられたり。腹を立てるようなタイミングでも出来事でもなかったけど、積み重なれば違和感にも気づく。
それと同時にネルとアキラの距離感が以前よりも近しいことに気づいた。俺とネルみたいな恋人同士の距離感じゃないし、あくまで仲のいいパーティメンバーとか友達とか、そういった距離感だったけど。
以前より確実に距離感が詰まっているのが見えて、俺は内心焦っていた。
そりゃ、俺よりアキラの方が優秀な冒険者だ。組合の教育係で、俺たちにも熱心に指導してくれる。俺だって別にアキラに対して悪感情なんて持ってない。
でも、俺とネルの関係に比べればまだまだ知り合って間もない人間なのも確かだ。それなのにネルの興味が徐々にアキラに向いて行っているように見えて、それはやっぱり冒険者としての実力の問題だと思うようになって。
だから俺は自分の実力を上げるために、少しの間一人で特訓をすることにした。
アキラに追いつけ、追い越せ。ネルの関心を俺に引き戻すために。
そんな思いで二人から離れて特訓をする。今思えば本当に馬鹿げてるんだけど、その当時の俺はそうすることが最善だと思い込んでいた。
一週間、二週間、三週間、一か月。一日も休まずにみっちりと特訓をした。
正直に言ってたった一か月で劇的に実力が向上するなんてことあるわけがない。物語の英雄譚に出てくる英雄ならともかく、俺は田舎の農夫の息子だ。そんな隠れた才能なんてあるわけない。
でも自分なりに納得のいくような特訓をして、俺は二人の元に帰ったんだ。
ネルは笑顔で出迎えてくれた。アキラも笑顔だった。二人の距離感は以前と変わらないように見えて、俺はそんなことに安堵していた。
ネルが笑顔の裏でどんなことを考えていたのかなんてことは、もう今更知る術がないのだけど。
それから俺たち三人は、パーティでとあるダンジョンの探索に向かった。
そのダンジョンは俺とネルの二人からすれば格上のダンジョンで、アキラがいることで初めて探索が許可されるような場所だった。
探索の初めは順調だった。俺も特訓の成果を出せたし、俺がいない間にネルもしっかり訓練をしていたみたいで、俺たち二人の連携もそつなくこなすことができた。
アキラを加えた三人での連携もそれなりに上手くいっていたと思う。
そのまま行けば順調に攻略できた。そう確信できるくらいには俺たちの実力は上がっていて、だからこそ慢心もあったんだと思う。
注意深くしていれば気づけたはずの罠に俺たちは引っかかってしまった。
モンスターハウスと呼ばれる類の罠は、広い部屋にたくさんのモンスターが瞬時に湧き出す罠だ。俺たち三人はこの罠を作動させてしまい一気に劣勢に追い込まれた。
必死になってモンスターを討伐しても、どんどん湧き出てくる異形の姿たち。俺たちの体力も魔力も気力もどんどん削られていって、瞬く間に限界が近づいてきていた。
それでも死に物狂いでモンスターを討伐していた時に、それは起こった。
終わらない戦闘で疲弊したパーティ。足にも力が入らなくなってきていて、それに加えて倒したモンスターの血肉があたりに散乱していて滑りやすくなっていた。
条件はそろっていた。いくら俺たちより上級の冒険者のアキラだって、ここまでくれば俺たちとそう変わらない。だから――そう。だから、俺とアキラは不意に、同時に足を滑らせて体勢を崩してしまった。
そんな俺とアキラに降りかかるモンスターの牙や爪。こんな疲弊した状態で食らえばそれだけで致命の一撃だ。
残された体力で俺は必死に体を捻ってモンスターの攻撃を避けようとした。それがいけなかったのかもしれないし、幸いだったのかもしれない。
俺の瞳には、アキラをかばってモンスターの餌食にされるネルの姿が映し出されていた。
一瞬だけ悲鳴が聞こえたと思う。あまりのことに思考が追い付いていなかったから、詳しいことは覚えていない。
その一瞬でネルが死んだ。アキラをかばって。
体を捻った俺はぎりぎりでモンスターの攻撃から致命傷を避けることができて、それでも地面に叩きつけられていた。肺の中の空気が一気に押し出されて、視界が明滅する。
致命傷を避けたとはいえ満身創痍だ。そもそも自分では避けたなんて感覚すらなくて、致命傷を受けてなくても出血多量で死にかけだった。
そんな状態だったからその後のことはよく覚えていないけど、ネルが死んで怒り狂ったアキラがモンスターに突っ込んで死んで、俺はその間に体勢を何とか立て直して逃げ出した。そんな感じだったと思う。
冒険者組合に命からがら逃げ帰った俺は、その時に起こった出来事を報告して、怪我を治した後そのまま冒険者を辞めてしまった。
俺の心はぽっきり折れてしまっていた。
何のことはない。俺は英雄でも何でもない普通の人間だったから、目の前で繰り広げられた光景に耐えられなかっただけだ。
仲間が死んだこと? それもある。
恋人が死んだこと? そうだな、そういうのもあると思う。
罠が怖かった? 怖かった。怖くないなんて言えない。
冒険者を続けるのが怖くなった? そうだな。俺にはここが限界だよ。
あの時見た光景が脳裏に焼き付いて離れなかった。
あの時、俺とアキラはほとんど同じ状況だった。どっちも足を滑らせて、どっちもモンスターから狙われていた。
その中でネルは、迷いなくアキラをかばった。
つまり、そういうことだったんだろう。
本当はどうだったかなんて、二人とも死んでしまったから確かめようがない。でも、あの場面でとっさにネルが取った行動が答えなんだと思う。
いろんな要因が重なった。一度に目にした光景が多すぎた。
そんなの、ただの普通の人間の俺の心を折るには十分だ。
だから俺は冒険者を辞めたのだ。次に何をするかなんて考えてなかったけど、もう冒険者で一旗揚げようなんて夢はなくなっていた。
そうして俺は故郷に帰ったのだ。