婚約破棄されたら聖女になりました。今さら破棄は誤解と言われましても。
「セリア・アーデン。君との婚約を、ここに破棄する!」
舞踏会の華やかな空間に、突如として婚約破棄の宣言が響き渡り、会場が静まり返る。
侯爵令息の言葉に、すべての視線が私に集まった。
こうなる運命だったのかしら。
私は静かにグラスを置き、ドレスの裾を整える。
これほどまでに堂々とした裏切りを目の当たりにすると、むしろ清々しいものね。
「理由をお聞きしても?」
私の問いかけに、ラズロ様は冷徹な笑みを浮かべた。
「お前のように愛想もなくつまらない女では、将来が思いやられる。僕の婚約者にふさわしいのは、このメリアナだ!」
ラズロ様の目が示した先、私の視界に入ったのは、彼の隣に立つ金髪碧眼の少女、メリアナ。
平民出身でありながら魔力の才を持ち、聖女候補と噂されている。
けれど、彼女の指にはすでにラズロ様からの婚約指輪が輝いているって、どういうこと?
聖女候補というのも噂に過ぎないんですが。本当に魔力の才があるかどうかも、あやしいというのに。
「ラズロさまぁ。セリア様が睨んでおいでですわ。こわぁい」
「よしよし、メリアナ。あの意地の悪い女に睨まれて怖かったな」
「ほんとですぅ。わたしぃ、会うたびに睨みつけられてぇ、嫉妬されてぇ」
「なんて酷い女だ! 伯爵令嬢程度の人間が、聖女になるメリアナになんてことを!」
伯爵令嬢程度とはおっしゃいますが。彼女は平民では。
まぁ、聖女になれば地位も上がりますけれど。
この王国には、魔族を封じる力を持つ聖女が百年に一度、誕生すると言われている。
聖女は神に選ばれし者。神託が降りれば、それはもう覆らない。
今年はその百年目。誰がなるのかは、神様しかわからないというのに。
「貴様のような女は、俺に相応しくない! 侯爵家を乗っ取ろうとしていたことも知っているぞ!! っは、終わったな!」
ラズロ様の言葉に、周囲はざわついた。
嘘つきも大概にしてほしい。
私は、侯爵家の跡取りとしてなにもしない貴方に代わって、仕事を一手に引き受けてきたわ。
将来伴侶になる相手に、敬愛を持って接してきたというのに。
そんな私を見ようともしないで、挙句の果てにこの仕打ち?
周囲からの嘲笑と蔑みの瞳が私を刺して、私は吹っ切れた。
……もういい。
誰がわかってくれなくても、私は私の正義を通すわ!!
その決意をした瞬間、会場の空気が一変した。
周りが真っ白になって……
って、私の体、浮いてない??
「なんだ、この光は!?」
「ま、眩しい! これは魔力か?」
周囲に響き渡る驚きの声。
いえ、私が一番驚いているけれど。
『祝福された正義の乙女よ。汝、聖女として選ばれたり』
私の頭の中に、声が。
聖女……聖女って、あの聖女?
眩しさはやがて収まり、私は薄衣のような神聖な光に包まれていた。正しく聖女であるという証拠に、会場内は騒然となっている。
そして次の瞬間、貴族の一人が私に膝をついた。
「聖女様……!」
それに続くように他の貴族たちも次々と頭を垂れていく。
「な、なんだって……セリアが、聖女だと……!」
ラズロ様の顔が見る見るうちに蒼白になっていく。わかりやすい人。
「いやだ、冗談よね……私が、聖女になるはずだったのに!」
取り乱している姿は、みっともないとしか言いようがないのだけれど。
そのとき、突如として扉が開かれた。
「——下がれ」
低く、よく通る声。会場中の視線がその人物に集中する。
「カイン・レオンハルト殿下……!」
この国の第一王子、現王の後継者であるカイン様。
鋭い目……なにを言われるのかしら。
漆黒の軍服を纏ったその姿は、私に歩み寄るほどに圧力を感じた。
「聖女セリア・アーデン」
カイン王子に名前を呼ばれて、どきんと私の胸は鳴る。
「はい」
「貴女を、王国直属の守護騎士として俺が守る」
「えっ……?」
王子が? 私を?
驚きの目を向けると、カイン様は続けた。
「神託はすでに降りた。貴女はこの国の要。よって、俺の直属に置く。異議は——ないな?」
最後の一言は、ラズロ様に……いえ、ラズロに向けられていた。
ラズロは言葉を詰まらせ、結局は膝をつく。涙を浮かべて。
「……は、はは……っ、冗談だろ……僕の婚約者が……王子の守護対象に……?」
皮肉な運命ね。私を捨てたその瞬間に、すべてを失ったのは他ならぬラズロ自身なのだから。
カイン王子が私に手を差し出してくれる。
「俺が導こう。聖女を──この国の光を」
その手に触れた瞬間、運命が私を完全に飲み込んだとわかって。
私は、ただの〝捨てられた令嬢〟ではなくなった。
聖女として、この国を、未来を動かすことになるんだわ。
その予感をひしひしと感じた私は、王子の手をとったのだった。
***
翌朝。
分厚いカーテンが開けられて私は目を覚ました。
黄金色の陽光が豪奢な客間を照らし出す。その私の視界に映ったのは──
「カイン王子殿下! なぜ目の前に……っ」
「聖女は王直属の存在だ。ゆえに、警護は最優先。これからはできる限り、俺がつく」
四六時中ということ!?
なんの冗談ですか?
朝起きたら枕元に王子がいるってどういう状況なのかと。
「たしかに護衛騎士がつくとは聞いてましたけど……まさか、殿下ご本人とは……」
「問題か?」
「問題しかありません!」
「だが俺には、聖女の力を見極め、守り、育てる役目がある。だから、傍を離れるつもりはない」
彼はただ私の手を取る。そして、甲にカイン様の唇が……っ
「……っ」
親愛の印だとわかっていても、私の心臓は飛び跳ねる。
そんな私の気持ちなんて知りもしないカイン様は、微動だにせず私を見つめた。
「三か月後、貴女は神殿に迎えられ、国家の柱となる。その時が来るまで、俺のもとで準備を整えてもらう。訓練も、実務も」
「訓練……ですか?」
「聖女はただの象徴ではない。魔物を浄化し、人心を導く力が求められる。その素質が、貴女にはある」
昨日、私の中に灯ったあの光。あれは確かに、〝なにか〟が目覚めた感覚だった。
「……わかりました。殿下のご期待に、応えてみせます」
「そうか」
わずかに笑ったその顔は、なんだか可愛くて。
王子としての仮面を脱ぎ捨てていた……そんな風に感じたのは、気のせいかしら。
***
それからの日々は、息つく間もないほど忙しかった。
朝は魔力制御の訓練。昼は礼儀作法と戦術。夜は、王宮の政務を王子と共にこなす。
カイン王子は厳しく、冷徹なほど理路整然としていた。けれど——
彼は、絶対に私を見捨てなかった。
私がつまずけば手を差し出し、言葉を失いそうな時には、黙って隣にいてくれる。
感情を大きく見せないだけで、誰よりもまっすぐに向き合ってくれる。
心を誰にも明かさないようでいて、その奥に、静かで確かな温もりを持っている人だった。
そしてその温もりに──私は、少しだけ、近づきたくなっていた。
***
一ヶ月後。
王都北方の黒霧の森で、魔物の群れが出没したとの報せが入った。
「出るぞ、セリア。初陣だ」
「……えっ、私もですか!?」
「貴女の浄化の力が必要だ。俺が守る。心配はいらない」
そう言ってカイン様は私の手を取ると、迷いなく馬車へと導いてくれる。
この一ヶ月、修行したけど……もう実践だなんて信じられない。
「……カイン様」
「なんだ?」
「……怖いです」
私のそんな気持ちを、カイン様は受け止めるようにじっと見てくれている。
彼は私を裏切ることはしない。なら、私は王子の心に応えたい!
「でも……カイン様と一緒なら、戦えます!」
その瞬間、彼の瞳が僅かに揺れて。
「……必ず守る。命に代えても」
カイン様の言葉に、胸の奥がふるりと震えた。
カイン様にとって、私のことはただの任務なんだって、わかってる。
それでも——ほんの少しだけ、この方の特別になりたい……
そう、願ってしまう。
黒霧の森に到着して馬車を降りると、空気が一変した。
名の通り、森は黒い霧に包まれ、ひやりとした風が肌をなぞった。
足元からはじわりと魔の気配が滲み出してくる。遠くでは、唸り声と蹄のような足音が混ざり合っていて、ゾクリと泣きそうになる。やっぱり、怖いものは怖い。
「セリア、気を抜くな」
「わ、わかりました……!」
王子は剣に手をかけながら、私の前を歩いてくれる。
その背中が頼もしくて、私は勇気を出して必死で歩を進めた。
怖さはある。
けど今はそれ以上に、胸の奥に熱を帯びる感覚があった。
これは〝力〟の兆し?
私の中に確かに息づく光が——呼ばれている気がする。
「来るぞ」
その言葉の直後、茂みが揺れ、魔物が姿を現した。
「きゃっ……!」
鋭い牙、唸り声、真紅に光る目。
黒い影のような、実体のない魔物。
どうしよう……震えて動けない……っ!
「セリア!」
王子が私の前に立ち、剣を抜き切り裂いた。
魔物を睨む眼差しは鋭く、それでいて、背中からは揺るがぬ安心感が伝わってくる。
なにもできない自分が不甲斐ない……恥ずかしいっ!
「申し訳ありません、私……修行、したのに……」
「できるさ。貴女の力を、俺は信じている」
魔物はまだいる。カイン様にばかり、負担はかけられない!
── 貴女の力を、俺は信じている。
その言葉を反芻し、私は奮い立った。
王子は、私を信じてくれている。
その期待を、裏切りたくはない!
私は目を閉じ、胸の奥にある光をそっと掬いあげるようにして、祈る。
「神よ、この邪なるものを清めたまえ……」
私の手のひらの上に丸い光が現れる。
まるで天から降りた一条の光が、森を照らすようにほとばしり、魔物を包み込んだ。
「ギャアアアッ!」
魔物の悲鳴が霧の中に消えていく。
残されたのは、透き通るような静寂だけだった。
「これが……私の力」
自分で言うのもなんだけど……結構すごい気が。
「すごいな、これは……」
カイン様も同じ感想だった。信じられないものを見るように私を見つめている。
「……貴女の力は間違いなく覚醒している。予想以上だ」
「でも……これで終わりじゃないんですよね?」
「もちろん。群れはまだ森の奥にいる。気を緩めるな」
私が頷いたその時、再び気配が押し寄せた。
「もう一度、力を使ってくれ。今度は広く、全方位に」
言われるまま、私は力を集中させ、両手を前に差し出すように広げる。
光の球体が現れ、力を練るとさらに大きくなった。そしてそれを周囲へ広げるように解き放つ。
「……神よ、浄化の光を!」
私の祈りに応えるように、光が四方へとほとばしった。
瞬く間に、霧の中の魔物たちが悲鳴を上げて消えていく。
聖女の力って……ここまでなのね。
なんとなくだけど、わかった気がする。私が聖女に選ばれた理由。
これは迂闊に使ってはいけない力だわ。
力を誇示し、魔力をひけらかす者には与えてはならない、それほど強大な力。
私利私欲のために使わない〝正義〟の証。
それが、聖女の力なんだって。
「浄化が終わったな。貴女のおかげだ」
微かに微笑むカイン様に、優しさが滲んでる。
どうしよう。私の胸……うるさいかもしれない。
「……私、ちゃんとできてましたか?」
「もちろんだ。……よくやった、セリア」
名前を呼ばれると、顔が熱くなる。心が、じんわりと温かくなっていく。
自分の中に眠っていた光。
そして、それを信じてくれる人。
カイン様がそばにいてくれる限り、私はきっと、どこまでも強くなれるって。そんな確信があった。
***
魔物を浄化した後、私たちは森を抜ける。そして王都へと帰る馬車に乗り込んだ。
「セリア」
「……なんでしょう、殿下?」
隣に座るカイン様の表情は真剣で、どこか深いところを覗き込むような眼差しだった。
「貴女は……本当に聖女として、国を背負っていく覚悟があるか?」
その言葉には、重い意味が含まれている気がして、私はしばらく黙ったまま考える。
聖女としての使命、王国を守る覚悟——それらが私にあると言える?
自分への問いかけに、私はふっと笑った。
そんなの、決まってる。私はこの国と人々を守りたい。
「……あります。私は、これからもこの国を守るために、力を尽くす覚悟です」
言葉にすることで、はっきりと定まったわ。
王子は、しばらく無言で私を見つめた後、ゆっくりと頷く。
「そうか。ならば、共に戦おう」
共に。
その言葉だけで、私の心臓は喜んでるようで……
すべてを受け入れてくれるような温かさに、私は頷いた。
胸が高鳴り、空気が少しずつ変わっていく。
これからも、王子と共に。
この国を守るために——私は、聖女としての道を歩むことを。
王子の隣で、共に戦い、守り続ける。その覚悟を、今、心に深く刻んだ。
***
ある日、毎日修行づくめの私を、カイン様が町へと連れ出してくださった。
いつもと違う雰囲気の街並みを歩くのは、どこか新鮮で、心が弾む。普段は厳格なカイン様も、どこか表情がやわらいで見える。それだけで、私も少しだけ心をほどいて歩けた。
通りすがりのお店を眺めていると、ふと色とりどりの花が並んだ花屋が目に入る。
「……あ、カイン様。あの花屋さん、きれいですね」
私が指さした先には、小さな花屋。春の花々が咲き誇り、通りに甘い香りを漂わせていた。
「行ってみるか?」
そう言ってくださったカイン様の言葉が嬉しくて、私は思わず笑顔で頷いた。
「行きましょう!」
花屋に入ると、ふんわりとした香りに包まれた。私は自然と深呼吸をして、癒される気持ちになる。カイン様は無言のまま、私の隣で静かに花々を眺めていた。
「どれも素敵ですね……」
「そうだな。でも、セリアが好きそうな花を選ぶのは難しいな」
「え?」
──買ってくれるつもり?
意外な言葉に驚いて、私は思わずカイン様を見つめた。
「貴女は、どれが好きだ?」
まっすぐに向けられた瞳に、胸がどくんと跳ねる。それを悟られないように、私はあわてて視線を花へと戻した。
「それなら……あの青い花が好きです。アイリス。信頼と尊敬を意味するんですよね」
澄んだ青の花弁が凛と咲いている。それを見つめたカイン様が、ふと微笑んだ。
「……アイリス。確かに、君にぴったりだ」
そんな優しい表情を見せるなんて。きっとこの花、お気に召したのね。私はくすっと笑いながら横を見ると、ふと目に入った小さな鉢植えに目を留めた。
「あ、これ。アーモンドですね。この花も可愛い……」
「貴女の方が、可愛いが」
「え?」
「っ……あ……」
カイン様はごほんと咳払いし、そっぽを向いてしまった。
心なしか耳が赤く見えるけれど……まさか風邪?
「大丈夫ですか? 戻ります?」
「いや、問題ない。……これがアーモンドか。か、可愛いな」
「はい。本当に。この花、希望や新たな始まりを象徴しているんですよ」
「希望や、新たな始まり……か」
そう繰り返すカイン様の声が、なぜか少し熱を帯びて聞こえる。そして、彼は私の方をじっと見つめてきた。
そのまなざしはまっすぐで、どこか熱っぽくて。
気の、せい?
「……買うか。アーモンドと、アイリスも」
「え、いえ! 今は修行中で忙しいですし……いつかゆっくりできるようになったら、また見にきたいです」
「……そうか」
少し寂しげに見えたカイン様。私、なにか変なこと言ってしまったのかしら。
「できる限り、貴女の希望は叶えたい。なんでも言ってくれ」
「そんな……もう十分すぎるほど、よくしていただいています」
「俺が、したいだけだ」
カイン様は、本当に優しい人。
聖女となった私の機嫌を取るのも、大変なんでしょうね。
「申し訳ありません。なるべく、わがままは言わないようにしますね」
「……どうして、そうなる」
カイン様の綺麗な眉が、少し困ったように歪んだ。
どうしてそんな顔をされるのか分からなくて、私は小首をかしげる。
「えっと……?」
「君は、鈍感だ」
「そんなことないと思いますけど……」
否定する私に、カイン様はじっと目を細めた。
「いつか、気づいてくれればいい」
その顔があまりに整いすぎていて、私の胸はばくん、ばくんと忙しくなる。
もしかして、カイン様は……
かぁっと顔が熱くなった。どうしよう、恥ずかしくて顔が上げられない。
もしそうだとしても、きっと気の迷いに違いないというのに。
「……手を」
そう言って差し出されたカイン様の手。
私はそっとその手を取った。
握られた手のぬくもりに、胸の鼓動はますます激しくなって。
その日はずっと、私の足元がふわついていた。
***
聖女になって、三ヶ月が経った。
数々の試練を乗り越えた私は、王都の神殿で正式な浄化儀式に臨んだ。
白銀の装束に身を包み、神官や王子に見守られる中で儀式を終える。
そして部屋に戻る途中の回廊に、見覚えのある影が立っているのに気づいた。
「……セリア」
——ラズロ。
背筋に冷たいものが走る。
そこにいたのは、かつて私の婚約者だった男、ラズロ・ヴェイン。
侯爵家の長男。あれから勉強のためにコネを使って王城の文官を務めていると、話には聞いていたけれど。
「久しぶりだね。……驚いたよ。こんなに立派になって」
「……なんの用ですか」
できるだけ冷静に返す。
けれど、心のどこかで、この男の存在が私の傷を抉る。
もう会いたくなんてなかったのに。
ラズロは、懐かしさを装ったような笑みを浮かべながら、私の間合いへ平然と足を踏み入れてきた。
「いや……当時はちょっと焦ってたんだ。誤解だったんだよ、あの破談は」
「誤解? じゃああの女性はどうしたんです?」
「っは、あいつは魔力の才があると嘘をついてたんだ! 聖女にもなれない女なんて捨ててやったさ! 貧民街で泥水すすってればお似合いだ、ざまぁみろ!」
本当に、最低な男。
ラズロが高笑いをしながら、ねっとりした瞳でさらに私へと近づいてくる。
「お前がここまでになるなんて、本当に思わなかった。だから、今こうしてな……もう一度、お前の隣に立ちたいんだ」
「黙って」
胸の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。もう、我慢なんてしない。
「私を切り捨てたのはあなたでしょう。なのに今さら、都合よくすり寄ってくるなんて」
ラズロが言葉を継ぐより早く、私は彼の胸倉を掴み上げた。
「〝お前の隣に立ちたい〟? 願い下げよ!!」
そのまま、三ヶ月の鍛錬と試練の成果を込めて、肩口から思いきり投げ飛ばす。
「ぐああああっ!?」
床に叩きつけられる鈍い音が鳴った。
私はふんっと鼻を鳴らしてラズロを見下ろす。
「〝つまらない女だ〟って、あなたが言ったこと、忘れてませんから」
私は部屋に帰るべく歩を進めた。もう二度と関わりたくなんてない。
だけど、背後から足音が迫ってくるのがわかる。しつこい。
「待て、セリア! まだ話は——」
「近づかないでください。……でなければ、もう一回投げ飛ばしますよ?」
睨みつけると、ラズロは一瞬怯えたように足を止めた。
ようやく、すっとした。
この男に傷つけられるなんて、もうまっぴら。
私は強くならなくちゃいけない。
その瞬間、私の中でひとつの過去に決着がついたって——そう、思ったのに。
「ふざけるなッ……!」
「!?」
突然、ラズロが顔を歪めて、叫ぶように私へ飛びかかってきた。
「お前が! 俺を投げた!? くだらない女のくせに!! 澄ました顔しやがって!」
ラズロが拳を振り上げた瞬間、後ろから手首が掴まれた。
「——汚らわしい手で、セリアになにをしようとした?」
底冷えするほどの威圧を帯びた声が、廊下に響いた。
でも私にとっては、誰よりも安心する声。
「……え?」
ラズロが振り返る間もなく、風を裂く音が私の耳を打つ。
ドガッッッ!!!!
廊下に音が響くと同時に、カイン様の拳がラズロの頬を正確に捉えた。
その瞬間、ラズロの体は空を飛び、廊下の柱に叩きつけられる。
「うがっ……ああああああっ!!」
悲鳴とともに崩れ落ちるラズロなど見向きもせず、カイン様が私の元へ来てくれる。
「セリア。怪我はないか」
その声に、私は呼吸を取り戻した。
「殿下……ありがとうございます、大丈夫です」
そう言いながら震えてしまった手を、カイン様がそっと両手で包んでくれる。
──温かい。
「遅くなって、すまなかった。……もう大丈夫だ」
そっと私の肩を抱き寄せたカイン様は、倒れたラズロを冷ややかな目で見下ろした。
「貴様のような下劣な男が、彼女の婚約者だったとは……。国家の恥だな」
「ち、違っ……! セリアが、調子に乗ってるから……!」
「黙れ。二度とその名を呼ぶな」
足が音を立てて振り下ろされ、ラズロの胸を踏みつける。
カイン様……こういうところ、容赦がない。
「聖女であるセリアに手を掛けようとした罪は重いぞ。王都から永久に追放する。その顔を、二度とセリアに見せるな!」
ラズロは顔を青ざめさせたまま呻き、やがて意識を失った。
……容赦ない。
けどラズロに向けられていた冷たい目は一転して、私の方へ向き直った途端、優しい光を宿している。
「……怖かったな。あとは、俺に任せてくれ」
その言葉に、愛情を感じてしまいそうになる。
私を守ってくれて。あんなに怒ってくれて。
「無事で、よかった……っ」
カイン様の王子としての顔が崩れた。
目が潤んでいた。眉がほんの少し下がって、唇はかすかに震えてる。
ああ、カイン様は、こんなにも私のことを想ってくれてたんだ。
言葉にならない想いが、そのまなざしから、痛いほど伝わってきた。
怒って、守って、今はただ、私の無事を喜んでくれている。
その優しさが、愛しさが、胸に押し寄せて、私は息を飲んだ。
この人の想いに、触れてしまった気がして。
私の胸は、キュンと痛んだ。
***
ラズロは、すべてを失った。
爵位も財産も、そして名誉も。
彼を庇う者は、ただのひとりもいなかった。
一件の報告を受けた国王は、即座に処罰を命じた。
ラズロは侯爵家から籍を抜かれ、身一つで辺境の僧院へと送られた。表向きは『修行』と名づけられたが、実際には王都からの永久追放に他ならない。
私のことを終わったと言った、ラズロの方が終わりを迎えた。
だけど、胸に残ったのは怒りや憎しみじゃない。
あの夜、絶望の底で差し出された、温かな手のひら。
寄り添い、守ってくれた彼の声が、心の奥に深く刻まれていた。
カイン王子殿下──いえ、彼という一人の男性への想いだけが。
夕暮れの星のように、胸の奥で静かに光り続けていた。
***
カイン様と私は、共に政を学び、共に戦い、幾つもの難題に立ち向かった。
時に声を荒らげて言い争い、時に他愛もないことで肩を揺らして笑った。
ある日、山岳の魔獣討伐の帰り、激しい雨に遭い、私たちは洞窟に身を寄せた。
濡れた外套を火のそばに掛け、焚き火の明かりが壁に揺れている。
湿った空気の中、カイン様がぽつりと呟いた。
「……貴女が笑うと、俺は本当に救われるんだ」
ただの言葉以上の重みを感じて、私の胸はきゅうと締めつけられた。
カイン様の隣にいると、自分は自分でいられる。
誇り高く、まっすぐに、恥じることなく──。
火がぱちりと弾ける音がした。
しばらくの沈黙のあと、彼はふいに言った。
「……実はな。貴女がラズロと婚約していた時から、ずっと気になっていた」
その言葉に、私は思わず顔を向ける。
「え……?」
彼は焚き火を見つめたまま、ほんの少し目を伏せる。
横顔が、どこか寂しげだった。
「社交の場で見かけた。貴女はいつも完璧だった。言葉遣いも、立ち居振る舞いも、貴族の理想みたいだった。でも……その奥に、無理をしているような目をしていた」
あの頃の私は、婚約者として振る舞い、ただ正しくあろうとしていた。
婚約者として、家の誇りを背負って、失敗の許されない立場で。
誰にも、弱さを見せずに。
「でも、そんな中でも困っている人にはさりげなく手を貸して、笑っていた。貴女のそういうところが、ずっと気になって──忘れられなかった」
ゆっくりと、彼の視線が私に向けられる。
「だから……婚約破棄された時、胸が痛んだ。どうして、君が傷つかなきゃならないのかと」
その瞳に宿るまっすぐな想いに、息が止まりそうになった。
「聖女として目覚めた貴女が、誰より強く、美しく見える今でも。……俺にとっては、あの時からずっと変わらない、特別な存在だ」
胸の奥が、あたたかく、じわりと滲む。
見せたことのなかった私を、
気づかれないと思っていた私を、
彼は、ずっと見ていてくれた。
「……そんなふうに思ってくれていたなんて、知らなかった」
震えた声が、火の揺らめきに紛れて消える。
それでも、彼は穏やかに微笑んだ。
「ようやく言えたよ。あの頃は、立場が許さなかったからな」
当時言えなかった想いが、今ようやく繋がって──。
私たちの間にあった距離が、そっと縮まった気がした。
いつしか私は、誰より深く、彼の隣にいたいと願うようになっていた。
***
出会ってから一年の春。
王宮の庭園が柔らかな光に包まれる季節、カイン様は夜の帳の下、私を呼び出した。
「セリア。……貴女に見せたい場所がある」
カインに連れられて辿り着いたのは、宮廷の奥にひっそりと残された古い庭園。
かつて王妃の私的な空間として使われていたと聞いていたけど……そんなところになんの用が?
そう思った瞬間、私は目を疑った。
そこには風に揺れる白と紫の花々──アーモンドとアイリスが咲き乱れている。
「わぁ……素敵……」
ほうっと漏れる感嘆の息。
誰の記憶にも留まっていないその場所はもう、『忘れられた場所』ではなかった。
まるで夜空の星々と共に、私たちの歩みを祝福してくれているよう。
なんて、言い過ぎかしら。
「一年かけて、こっそり庭師たちに頼んで整えた。……最初から、貴女と見ると決めてたんだ」
「一年前って……もしかして」
カイン様が静かにうなずく。
その眼差しがあまりにも優しくて、胸の奥がじんと熱くなった。
一年も前から、この日を思い描いてくれていた。
一年後の未来にも、私が隣にいると、信じてくれていた。
白と青の花々に囲まれながら、カイン様はゆっくりと向き直る。
風にそよぐ花の香りの中、真っ直ぐな声が響いた。
「俺は王になる。けれど、未来を語る前に、まず一人の男として言わせてくれ」
その手に握られていたのは、王家に代々受け継がれる誓いの剣──
王太子が婚約を申し込むとき、ただ一人に捧げる証。
カイン様はその剣を地に伏せ、片膝をついた。
夜風が花々を揺らす中、カイン様の声が静かに響く。
「セリア。俺は、貴女を心から尊敬している。強くて、誠実で、誰よりも優しい貴女を。……どうか、俺の隣に立ってほしい。王としてではなく、一人の男として、人生を共に歩んでほしい」
瞳の奥に、熱が溢れた。
胸の奥からせり上がる想いが、止められない。
「セリア、愛している」
胸がつまって、息ができなかった。
ずっと、聞きたかったはずなのに。
言葉があふれそうで、なのにうまく出てこなくて。
「……そんなの、ずるいです。あなたばっかり、全部言ってしまって」
私はいつも貴方に救われている。
何度も支えられ、励まされ、笑わせてもらった。
いつの間にか、心はすっかり──カイン様のものだった。
「私があなたの隣に立っていいのかと、ずっと悩んでました。けど……」
「いいに決まっている」
カインが私の手を優しく取る。
温もりが、指先から心へと広がっていく。
「貴女じゃなきゃ……駄目なんだ」
カイン様……やっぱり、ずるいです。
そんなこと言われたら、涙が我慢できないではないですか……。
私の頬から滑り落ちていく、涙。
そんな私を、愛おしい瞳で見つめてくれるカイン様が……大好きなんです。
私の方こそ、あなたでないと、駄目なんです。
私は涙を拭うと、愛する人に最高の笑みを向ける。
「……はい。生涯、あなたの隣に立たせてください」
その瞬間、風が丘を包み、花びらがふわりと舞い上がった。
星々がそれを照らし、私たちの誓いを静かに見守っている。
そっと、優しく、温かい腕が私を抱きしめた。
心の奥まで、静かな光が満ちていくようで──言葉なんて、もういらなかった。
見上げると、カイン様が柔らかく微笑んでいた。
その笑みに、すべてが報われた気がして、胸がきゅっと熱くなる。
星空の下で、ふたつの影がゆっくりと、ひとつに重なる。
きっとこの先も、私はこの手を離さない。
あなたとなら、どんな未来も歩いていけるから。
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