確認ボタン
夜、入ろうとしたコンビニの自動ドアが開いた瞬間、おれは驚いた。
「ボタンを押してください? 押さないよ!」
一人の男がレジの前で店員に怒鳴り散らしていたのだ。店内には他に誰もおらず、店員は困惑した様子。おれはとりあえず棚の陰から様子を伺うことにした。
「ちょっと買い物するだけで、なんでいちいちボタンを押さなきゃならないんだ!」
「私の年齢は六十五歳だ!」
「大嫌いだ! ボタンも、この国も!」
「馬鹿なルールだよ!」
「なんで、みんなもっと頭を使わないんだ!」
「おかしいよ!」
「国が定めたルール? じゃあ、国から死ねって言われたら死ぬのか!?」
「ロボットかよ、お前たちは!」
……どうやらレジの確認ボタンを押すことを拒んでいるらしい。まったく、馬鹿なのはあんただ、と言いたくなる。たかが数秒で済むことに、何分かけるつもりなんだ。
「これは国の陰謀だよ!」
「絶対に押さないからな!」
「押したら最後! 個人情報を抜かれるんだよ!」
男はさらにヒートアップし、次々と的外れな主張を繰り返す。あの調子ではスーパーや他の店でもトラブルを起こしているのだろう。哀れなものだ。無人販売所くらいしか心休まる場所はないに違いない。
「あの、お客様。ボタンを押していただかないと、このお酒はお売りできないんです」
店員が困り顔でそう伝えると、男はさらに声を張り上げた。
「いやいや、甘く見るなよ! 私だってねえ、一度押したことがあるんだよ! そのときから、なんかおかしい! 家のインターホンが勝手に鳴ったり、スマホに変な広告が出たりするようになったんだ! あれは絶対にあのボタンのせいだ!」
「でも、お客様……」
「私は何年も前からやばいって言ってきたんだ! お前ら変! 頭おかしい!」
店員は完全に困り果てた様子だった。これ以上あの怒鳴り声を聞いていると、こっちの頭がおかしくなりそうなので、仕方なくおれはレジに向かった。すると、男は初めておれに気づいたようで、驚いた表情を見せた。
男は何か言いたげだったが、おれは無視して商品をレジに置き、「会計お願いします」とだけ言った。
男が文句を言うかと思い、少し身構えたが、黙って店員の動きを見つめている。
「あと、それもお願いします」
「はい、かしこまりました。では、ボタンのほうをお願いします」
「……押すのか?」
「えっ、そりゃ押しますよ」
不意に男に話しかけられ、少し驚きながらもおれは答えた。「あなたと違って暇じゃないんで」と付け加えようと思ったがやめておいた。これで喧嘩になったら馬鹿らしい。それこそ暇じゃないんだ。
「やめておけ……」
「はい?」
「それは、悪魔との契約のボタンだ。そのボタンを押すのは、あとからどんなルールを追加されても受け入れるという意思表示なんだ……」
「違いますよ」
「政府は我々国民を管理するつもりなんだ」
「はあ、悪魔じゃなかったんですか?」
「だから、政府が悪魔なんだ! 押しては駄目だ!」
「はいはい」
「あ、お客様、袋はご利用になりますか? 一枚五円になりますが」
「ああ、一枚ください」
「レジ袋を有料化したところで、プラスチックごみの問題は解決しないよ! 全然エコじゃない! 関係者の自己満足と利権だよ!」
「はいはい、エコはエゴですね」
「押すのか、そのボタンを……」
「押しますよ。ほら」
おれはボタンを押した。
「ああああああぁぁぁ!」
「うるさ……大げさですってば。あんたのほうがよっぽど悪魔だよ」
『指紋認証が完了しました』
「ほら、大したことないですよ」
「はい、お釣りとこちらの商品、それから配給品のベランテキウムをどうぞ」
「それは、政府が広めたドラッグだぞ! 思考力を奪い、国民を言いなりにさせるためのものだ! あああぁぁぁ!」
男はそう叫ぶと、コンビニから飛び出していった。おれは店員と顔を見合わせ、苦笑いした。