011 一人、目的地へ
家を出てすぐさま俺は走り出す。全力で走れば間もなく裏庭に続く森に入る。そして外の森とを隔てる壁に突き当たった。
勢いのまま飛び上がり、途中で積み上げられた石の窪みに指をかけ、更に足を掛けて壁の上まで駆け上がる。
そこで一旦止まり、振り返りそうになるのを堪えて壁の外へと飛び降りる。
勢いを殺して着地をすれば、派手な音を立てることはない。少なくとも壁の内側に音が聴こえる事はないだろう。
俺の家は他の家からはかなり外れている。日が完全に落ちたこの時間、誰かに気付かれる事はない筈だ。
念の為に俺は周囲の気配を探りながら歩き出す。
出来れば村の人達に行く先を知られたくない。
俺が姿を消した後に家族が下手な詮索されない為にも。
なるべく気配を消しながら歩く。ここからは急がずに、ある程度村からの距離を稼ぐまで、音を立てずに行きたい。陰から陰へと移動を心掛け、人だけではなく獣にも出くわさぬように。
父親が言っていた通り、今の所獣の姿どころか気配も無いが、念には念を入れて、だ。
俺の目的地へは半日も歩けば辿り着ける。
森は平坦で、足場の悪い場所も少ない。
ここひと月程天候も穏やかだったから、倒木や泥濘も発生していないだろう。
今夜は休まずに行ける所まで行ってしまおう――恐らく俺の体力なら休まずに辿り着けるだろうが、無理はしないように心掛けるつもりだ。
何があっても助けはないのだから。
歩きながら、適度な緊張感はあっても無駄な力は入っていないのを自身で確認する。力んでいると普段しない失敗をする事がある。
父親によく言われた事だ。
どんな時でも余裕を持ち、自然体を心掛けよと。
家を出て一人になっても、俺の中には両親の教えが在る。それが心強い。
俺は拳を作って胸の中心に充てる。
足を止めて、目を閉じ俯く。
家を出る時に、これまで育てて貰った感謝を伝えられなかった。それどころか、凡そ別れに相応しくない言葉ばかり置いて来た。それを胸の内で詫びる。
これからは、どうか、幸せであってほしい。
沢山のものを貰ったのに何一つ返す事が出来なかった、親不孝な息子の事は忘れてくれていいから。
村を出てから俺は歩き続けている。星の位置からすれば、ふた時ほど時間が経っている。 慣れた森の中とは言え、月と星の灯りだけを頼りに歩くのだから、決して安全とは言えないが、今の所は問題なく距離を稼げている。
そろそろ村の人に見付かる心配をしなくて良いだろう――が、緊張は解かない方がいいか。相変わらず小動物の気配すら感じないし、その静寂が却って不気味だ。
魔物の影響にしても、異常な気がして仕方がない。
父親が夕飯時に言っていた魔物の森の「魔力の揺らぎ」が気になっているせいもある。
必要以上に気にしたくはないが、加減が難しいな。
何せ森を歩き回るのは日課と言ってもいい程していたが、家に戻らない「旅」は初めてだ。
どこまで気を配って、どの程度気を楽に持てばいいかも判らない。
両親は冒険者として色んな場所を旅したと言っていた。もっと話を聴いてみたかったと今更ながらに思う。
聴くと実際に行うとでは全く違うのは判っている。それでも、知らないよりはずっといいだろうし。
こうして家を出てみて思うのは、もっと両親と話をしたかったと言うこと。
こんな話を、あんな話を聴いてみたかったと、先ほどからそればかり考えている気がする。
変わり映えのしない風景を見続けているから、どうしても余所事に気を取られてしまうのかも知れない。
「緊張感が少し薄れてるな。休むか」
体力は十分、気力も問題はない。ただ、集中力が削がれている。こういう時は気分転換が必要だ。
俺は周囲を見渡して、他より幹回りがある樹木の下まで行って樹上を見上げた。適度に枝を張っていて、葉の付きもいい。
俺は鞄からロープを取り出すと、二重にして幹の周りに回し、ロープの助けを借りて木を昇って行く。
下からある程度枝葉で姿が見えず、上からも同じくらいの密度の枝葉があるのを確認して、座りの良い枝に落ち着く。跨って幹に背を預けた。
鞄から水筒を取り出して一口飲む。それほど喉は乾いていないが、適度に水分は取っておかないとな。
もう少し奥に行けば川があるから、残りを気にしなくても大丈夫だろう。
「……はぁ」
それなりに気を張っていたから、今のうちに少し力を抜いておくか。
水筒を鞄にしまって、枝の隙間から進行方向を見る。
辺りの気配を探ってみるが、鳥の気配すらしない。眠っているにしても静か過ぎる。夜行性の鳥も獣もいるはずなのに。
まるで固唾を飲んで身を潜めているような。
「……なんだろうな」
俺は生まれてこの方、こんな森を見た事がない。
何が起きているのか。
目的地に着けば、何か判るだろうか。
俺は森の先を見る。それほど高く上らなかったから、生い茂る木々に邪魔されて遠くまでは見えない。
この先には魔物の森がある。
俺の、目的地が。
魔王が居る場所。魔物の住処。人が立ち入ってはならない場所と教わって来た。
思いを馳せても、恐怖心は湧かない。それは俺が魔物の森をよく知らないからか。
幼い頃から立ち入るなと言われて来た。だが両親は魔物に関して、俺たちの敵だとは言わなかった。
強大で危険な存在だとは教わったけれど。
人よりもはるかに多い魔力量、人の森の獣よりもひとまわりもふたまわりも大きいものが多く、時に人では叶わぬ強さを持つ魔の名をを冠する獣たち。
それ以上の存在が、魔物の森には在る。
まだ実際に見ていないから実感が湧かないんだろうか。
いくら想像しても、心が躍るばかりで怖いとは思えない。
「恐怖心が全くないのもよくないよな」
恐怖は身を護る為に必要な感情だ。怖いからこそ警戒し、危険に備える事が出来る。
そうとは思うのに。
「楽しみなんだよなあ」
こちらの森でも魔物を見る事はあるし、実際に狩った事もある。だが、彼の森にはもっと強く、もっと多くの魔物がいるだろう。
考えるだけで、楽しくなってしまう。
「父さんが知ったら呆れるかな」
母さんも呆れるか。
魔物の森の異常を思えば不安を感じるものの、魔物自体の遭遇には楽しみが勝ってしまう。
「まあ、いいか」
実際に森に足を踏み入れれば、楽しいなどとは言っていられないだろうし。
辿り着くまでは楽しく想像しているくらいなら、罰は当たらない――よな?
俺は昂揚を落ち着ける為に、目を閉じて頭を木の幹に凭せ掛けた。