自己肯定感の低い令嬢が策士な騎士の溺愛に絡め取られるまで
後日談を追記しました。よろしくお願いします。
瞳は透けるような空色で、高い鼻梁と薄く形の良い唇。絶妙なバランスで配されたそれらは美の女神の寵愛の賜物としか言えない麗しさを漂わせ、見るものを魅了する。
そして、その顔を縁取るのは、陽の光を受けてきらきらと艶めく、透けるような銀色の髪。それを無造作にひとつにまとめ流している背中はとても大きくて、中性的な美しさを雄々しく見せる。
騎士団の制服がよく似合うのは、肩にも胸板にもきちんと筋肉がついているからだろう。
それらをじっくりと観察していたから、アンジェリーナの反応は遅れてしまった。
「……あの………お好きな菓子はありませんか?」
気がつけば目の前で少しだけ困り顔をした貴公子がアンジェリーナを見つめている。
「あ、あの、あの……失礼いたしました」
羞恥で赤く染まった頬を隠したくて、さっと俯けば優しい声が聞こえた。
「では私の好物をおすすめしましょう」
美しい花が咲き誇る庭園での茶会。同じテーブルには勿論、周囲にも適齢期を迎えた令嬢や貴公子が揃う今日は、実質王家主催のお見合いパーティーだ。誰もが美しく装い、少しでも良い条件のお相手を求めて決死の覚悟で参加している。
ここに親の付き添いはないけれど、家の繁栄の為に頑張ってくるのだと圧力と取れるほどの激励を受けてきた者も多いのだろう。
だが、アンジェリーナは違う。
彼女元来の気弱な性格に加え、捗々しくない容姿を冷静に理解している両親から言われたのは「失礼のないように」の一言だけだ。
両親も、家を継ぐ兄も、アンジェリーナをとても愛してくれている。無理してどこかに嫁がなくても、アンジェリーナが一生を領地でひっそりと暮らすくらい面倒を見てやるとも言われているし、自身もその愛情に甘える気は満載だ。だから、今日だって本当は来たくなかった。いや、王家からの招待でなければ、どうにか言い訳を考えて来なかっただろう。いつものように壁の花になるのが確定してるのだから当然の話だ。
なのにどうした訳か、彼女をテーブルに誘い熱心にお茶やお菓子を勧めてくれるのは令嬢達のお目当てで、本日の一番人気。名門伯爵家令息のユーティリスだった。
アンジェリーナの兄と友人らしく、何度か邸に来ているのを見かけたことはある。でもその時だって挨拶をしたくらいで、きちんと話をしたことはない。もっと言えば、なるべく距離を取りたいと思っている人物なのに。
「あ、ありがとう、ございます」
家族や邸の使用人以外と話すのは慣れないから、つい吃ってしまう。それが恥ずかしくて小さな声になってしまったのに、ユーティリスはしっかりと聞き取って笑ってくれた。
「このタルトは私の好物なのです。アンジェリーナ嬢も好きだと嬉しいのですが」
子供っぽいはにかんだ笑みを浮かべていても彼の美しさはちっとも損なわれない。いったいどんな奇跡なのかと叫びたくなるのを必死で抑え、精神力を総動員して見つめられながらタルトを一口食べて、アンジェリーナはどうにか笑顔めいた表情を浮かべることに成功した。
「とても、美味しいです。その、ベリーが甘酸っぱくて」
よくやったと自分で褒めたくなる程度にはそつなく受け答えができたのだろう。目の前でユーティリスは嬉しそうに口の端を上げた。
その笑顔に見惚れていた他の令嬢が「私もそのタルトがとても大好きで…」と話し出したので、アンジェリーナを見つめていた視線がやっと逸れる。しかも、同席している令嬢達が我も我もと会話に参加し出したので、やっと息を吐くことができた。
どうにかこのまま席を立つことは出来ないだろうか。
茶会に集まった令嬢のほとんどが羨むテーブルに着きながら、アンジェリーナはひっそりと離席の算段を始める。
だって、どう考えたってここに自分は不似合いだ。もっと華やかで美しい令嬢が席に着いた方が彼のためにもなるだろう。そう考えて、そっと自分の髪を触った。
侍女たちが必死に手入れをしてくれたおかげで艶はある。でも色は冴えない薄茶色だ。そこに収まっているのもぱっとしない顔。「優しそうな顔」だと言われるが、裏を返せばそれくらいしか褒めようがないのだろう。あ、でも、ヘーゼルの瞳は美しいと褒められることもあるけれど。
体型だって、太ってもいないがほっそりしているとも言えない。胸だって特段大きいわけでも、ぺったんこなわけでもない。
つまり、総じて酷く悪くはないが、大したことがない容姿なのだ。
そんな自分の現状を冷静に把握していたからか、昔から積極性に欠ける性格だった。変わりにキツい性格でもなかったから周囲の人には好かれたけれど、元来の行動範囲が狭いので、それが正当な評価かは分からない。それに、アンジェリーナに好意的な男性達も女性としての好いてくれることはなかったので、女性的な魅力はなかったのだろう。
趣味は読書だけれど、好きな恋愛小説や冒険小説を読んでいただけだから、何かの学問に精通してるわけでもない。自分がモテないとは気づいていたけれどそれに不満を感じていないから、努力もしない。
そうやって出来上がった後ろ向きなアンジェリーナが突然貴公子に話しかけられたら、早々に逃げたくなって当然と言うものだ。
だって彼はみんなの憧れなのだ。そんな人と親しげに話したりなんかしたら、きっとまた嫌な思いをする。そう考えたらついでに先日の出来事まで思い出して、アンジェリーナの眉が悲しげに下がった。
兄とユーティリスが親しいのを好ましく思わない人たちがいるらしい、とは知っていた。
アンジェリーナの家は領地経営こそそこそこ上手くいっていたが、他に商売をしているわけでも投資に成功している訳でもない。爵位だって子爵だし、家の歴史だって古い訳でもない。政治的に発言力がある訳でもない。言い換えれば、薬にも毒にもならない家だから、祖父も父も誰かに嫌われることもなく、目立たぬように平穏に社交界で生きてきた。
だが兄は学舎肌の変わり者で、社交界でも偏屈な人物だと遠巻きにされることが多かった。それでもこれまでは現実的に困ったこともなかったし、両親もアンジェリーナもそれまで通りひっそりと静かに生活していた。
流れが変わったのは3年前、アンジェリーナが17歳になって社交界にデビューした直後だ。
気象が例年とは違うと分析した兄が寒波による作物の冷害を予測して議会に進言、それが現実になったからだった。いや、その後に経済損失を計算してそれを国王陛下の前で報告した後だったか。それまで目立った功績を上げたこともない、年も若い人間が急に登用されたことで大いなやっかみを生んだ。
例えば父が議会の重鎮だったら、もしくは経済的にとても裕福なら違ったかもしれない。いやせめてもう少し両親が社交的であれば違ったのか。
ーーー勿論、兄の性格と言動が一番大きな理由だとは思うが。
年上であれ権力者であれ、間違ったことには「違っている」と大きな声で言い、穏やかな物言いが壊滅的に出来ない。協調性に難があり、他人と親しい関係を作ることに重要性を持たない。
言っていることが正しくともそれではなかなか理解してもらえないのではないかと妹ながらに心配していたが、アンジェリーナとて人付き合いが上手いタイプではない。気難しい兄をフォロー出来ないことを悩んでいた。
それが1年ほど前から急にユーティリスが友人として兄を訪ねてくるようになった。
激論を戦わせた結果仲良くなったのだと、珍しく楽しそうに語る兄を見て嬉しくなったのを良く覚えている。変わり者の兄と友人になってくれたユーティリスにもとても感謝した。
ただ、話はそれだけでは終わらなかった。兄自身が嫌いなのか兄がどんどん陛下に登用されるのが面白くないのか、アンジェリーナが夜会で嫌みを言われることが増えたのだ。
大まかに分けてそれらの嫌みは2種類あるのだが、男性からは兄に対する悪口、女性からはアンジェリーナ自身の悪口を言われていて、それがまたアンジェリーナ自身の自己肯定感を低くし、自信をなくす理由となった。
「散策ですか?」
周囲の会話が弾んでいることを確認してそっと席から立ち上がったアンジェリーナは、突然かけられた声にびくりと肩を揺らした。
そっと声の方に視線を向ければ、他の令嬢達から熱心に話しかけられていたはずのユーティリスもまた席を立ち上がったのが見えた。そしてそのまま、アンジェリーナのそばに歩いてくる。
同席していた人達は突然の出来事に静かに二人の様子を見つめていて、その視線がまたアンジェリーナを不安にさせた。
「私もご一緒致しましょう。王妃様ご自慢の薔薇を見に行くのは如何ですか」
ユーティリスが言い終わる頃には、何故だかアンジェリーナの手は差し出された彼の手のひらの上にあった。そしてそのまま流れるようなエスコートで並んで歩き出している。そこにアンジェリーナの意思なんてこれっぽっちもないのに。
ユーティリスの行動に強引なところなんてひとつもないのに、どうしてだかそれが当然のように動いていて、自分でも状況が上手く把握できない。ぐるぐると回る頭を回転させても正解なんて出ないけど、どしたらいいのか分からなくて「どうしよう」だけが頭の中で回っている。だから勿論、気の利いた会話なんて出来るはずもない。
「アンジェリーナ嬢は読書が趣味と聞きました。何かお気に入りの本があれば教えてもらえますか?」
とても気の利いた、気遣いのある問いかけだと思う。でも、恥ずかしくて好きな本なんて言えるわけがなかった。ついつい答えながら、顔が下に向いていく。
「私が読むのは簡単な小説です。とてもユーティリス様にお勧めできるような物などありません」
きっと彼が読むのは歴史や経済など専門的で実際に役立つ本だろうから。ただときめく時間を過ごすための本など読んだことがないと思うと、とても言えなかった。しかし、その答えは目の前の貴公子を不愉快にさせたらしい。滅多に見ることのない憮然とした表情を浮かべると、すいっとその切長の瞳が眇められた。
「薔薇もとても美しいけれど、貴女はきっと、もっとささやかで可憐な花の方がお好きかな?アンジェリーナ嬢ご自身のように」
真意を計りかねて、咄嗟に返事が出来なかった。
「それぞれの花に違う美しさがあるのは当然だし、それは素晴らしいことだと思います。同じように人にも好みがあって、どの花を手折りたいかは個人の自由だ。そうだと思いませんか?」
「そう、ですね……」
読書の話だったはずなのに、なんの話をされているのかすら分からない。でもじっと見つめられた真摯な視線と声で話をされているから重要な話なのだろう、とは思った。
「とてもショックを受けたのですよ。何処かの誰かが私の知らないうちに私の好きなものを勝手に決めて、それが正しいことだと大勢の人が信じ込んでいた。ひどいと思いませんか?」
強い瞳には非難の色が見えた。それを見て「あっ」とアンジェリーナは声を上げた。
つい先日の夜会での会話だ。数人の令嬢に囲まれて「変わり者の兄妹は家柄も人物もユーティリス様に釣り合わない。彼の優しさに思い上がって擦り寄るなどみっともない。彼の為に身を引くべきだ」と詰られた。その中には当代切っての美女と名高い侯爵令嬢もいたし、ユーティリスの両親に気に入られていると噂される令嬢もいた。夜会でいつも華々しく輝く彼女達が怖い顔をして集団で詰め寄るから、アンジェリーナはとても怖かった。
震えながら、それでも彼女達の言う事の正しさにも納得していたから、つい言ってしまったのだ。「自分も貴女方と同意見だ。ユーティリス様は皆様の美しさは勿論、私の凡庸さにもきちんと気がついています。何より私自身、自分の価値をきちんと知っています」と。
「聞こえて、いたのですね……」
間違ったことは言ってないつもりだ。でもそれが彼の心の何処かを傷つけてしまったのだと知り、アンジェリーナはきつく唇を噛んだ。
目の前で後悔の色を深くして落ち込むアンジェリーナを見て、不謹慎だが歓喜の気持ちが湧き上がった。
そうして、ようやっと気づいた。ずっと自分に興味を示してくれない彼女を見て、落胆していたのだと。周囲から理想の貴公子だと騒がれ、知らぬ間にいい気になっていたのだと。
そうして我知らず苦い笑みを浮かべてユーティリスは随分と昔の記憶を思い返した。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
野うさぎ、みたいだなと思った。
初めて見つけたのは子供の頃。どこかの保養地へ夏の避暑にと家族で訪れた時だったか。
何時だとか何処だとか、時も場所も朧げにしか記憶にないのに、彼女の姿だけはしっかりと覚えている。
ふわふわと茶色の髪を風に揺らして走っていた。そんなに幼くもない年頃で、きっと同じ年頃の令嬢たちは室内で刺繍やおしゃべりに興じていたろうに、その少女だけは違った。ふらりと一人で、嬉しそうに小さな微笑みを浮かべて何処までも続く草原を走っていた。
その手には摘んだばかりの数輪の野花。決して派手ではない可憐なそれを時おり見ながら、ゆっくりと、まるで妖精たちと戯れるかのように走っていた。いや、数匹の蝶々たちと戯れていたのだったか。
そんな彼女から目が離せなくて。じっと見つめていたら、自分が見られていると感じ取った瞬間、ユーティリスの方を一瞬だけ振り返って、一目散に森の方へと駆けて行ってしまった。
その姿はまるで、人に見つからない時は草原でゆったりと遊ぶくせに逃げ足の速い野うさぎを思い出させた。
それから毎日、ユーティリスは少女と会えることを期待して草原に足を運んだ。今度会えたら声を掛けよう、一緒に草原で遊ぼうと決めて、ワクワクと胸を弾ませて。
結論を言えば、会えたけれど声をかける事はできなかった。やはり令嬢だからか、誰かから見られて怖かったのか、翌日からは侍女や親族と思われる女性達と一緒だったから。でも彼女達と笑い合う姿もとても愛らしくて、やっぱりユーティリスは少女を見つめていた。少女の周りにだけ特別に柔らかな風が吹いているようで、見ているだけでも笑顔になれたから。
あの時からずっと探していた。だが、数度見かけただけの名も知らぬ少女を探すことはやはり難しかった。
それでも忘れられず、大人になった今ならもしや、と考えていた頃に新しく友人になった男の邸で偶然に彼女を見つけた。
5年以上経っていたけれど、見間違えるはずも見落とすはずもなかった。それほどに少女はその可憐さをそのままに成長していたし、挨拶をしただけでも、あの時彼女の周りに吹いた柔らかな風を感じた。そしてその風が自分を包むことに信じられないくらいの喜びと興奮を感じた。
彼女を手に入れると決意するまで一瞬だった。
名門と名高い伯爵家の長子とは恵まれた出自だと思う。それに甘えず弛まぬ努力を続けたおかげで、現在は近衛騎士団の騎士として陛下の信頼も厚い。将来は父の跡を継ぎ政治の世界で成果を出すべく、見聞を広め、領地経営にも参加している。
それらの状況を考えれば、自ら望んだ相手を妻として求めるのはそう難しいことではないと思った。アンジェリーナとは身分の壁もないし、自分が貴族令嬢の夫として理想的な相手だという自負もあった。親は自分の判断を信頼してくれるだろうし、彼女とその両親も結婚相手として前向きに考えてくれる、と。
その楽観的な予測が崩れたのは、驚くほどに自信のない本人と内気な娘を溺愛する家族が共に結婚自体に後ろ向きだと知った時だ。更には気候にも経済にも周辺国の歴史にも詳しい彼女の兄が、妹に対してだけは盲目的に主観的な見解しか持たないと知った時には目眩がした。
確かに堅実な領地経営を続けている子爵家に未婚の娘を養うくらいは容易いのかもしれない。変わり者とはいえ広い見識を持つ兄は妹を溺愛しているのだから、終生大切にしてもらえるだろう。何より彼女と触れ合うものは幸せな気持ちになれるのだから、その柔らかな空気に触れたいものが生活を支えてくれることは間違いない。
でもそれでは困る。
どうにか彼女と接点が持ちたくて、接触したくて、何度も邸へ通った。
頭の回転が良い友人からは「何が目的だ」と不信がられもしたが、先に目的を伝えるのは悪手だと誤魔化し続けた。
それでも、どうにも成果は得られなくて。焦っている時に、偶然聞いてしまったのだ。
数人の令嬢が口々に重ねる言葉も、彼女達に絡まれたアンジェリーナがきっぱりと告げた言葉も。「自分はユーティリスには興味がない」と言っているのと同意語だった。
だから決心した。例え多少、いや結構に強引でも軽く無理やりであったとしても、アンジェリーナの視界に自分を入れると。そのまま本人がうっかり油断した隙に結婚の約束を交わしてしまえばいい。本人の同意さえあれば、両親も兄も心配はしても反対は出来まい。しかも相手がユーティリスなのだ。これ以上の結婚相手がいないとなれば、どうとでも押し通してしまえる。使えるものは家も地位も世間の評判だって使えばいい。
そう決心して、幼馴染の王太子を使い、息子の治世を心配する王妃を利用して今回の茶会を計画した。
表向きは若い未婚貴族達の出会いの場として、実質は貴族達が秘密裏に婚姻を利用して派閥を作るのを阻止する為に。真の目的は自分とアンジェリーナが親密になるための出会いの場として。
そして今、野うさぎは罠の前に来たのだ。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「ーーー申し訳ありませんでした」
アンジェリーナの勇気を振り絞った謝罪はやっぱり小さな声にしかならなかったけれど、きちんと届いたらしい。ユーティリスが小さく息を吐いて一歩近づいたのが分かった。下を向くアンジェリーナの視界に彼の靴先が入ったからだ。
「分かってくれたならいいんだ」
穏やかな声が聞こえたと同時にそっと髪に触れる気配がした。
「綺麗な髪ですね。素敵な色だ」
きっとこの生き生きとした茶色の髪のせいもあったのだろう。ユーティリスが領地でよく見るウサギは茶色のものが多い。
数年前の記憶を思い出して微笑めば、目の前のアンジェリーナは居心地悪そうな顔で「ありがとうございます」とだけ言った。
この先のことをユーティリスずっと、綿密な計画をすべく考えていた。絶対に逃したりしないと、その為にはどうやって言質を取ってしまおうかと。でも今、目の前で困った様子で立ちすくむアンジェリーナを見ていて、そんな緻密な計画は何処かに飛んでしまった。
心の求めるままに目の前の細い肩に触れ、そっと抱き寄せた。
突然抱き寄せられたアンジェリーナは混乱の極地にいた。みんなの憧れの貴公子が何故自分を抱きしめているのか全く分からない。わからないけれど、こんな密接した触れ合いを誰かに見られたら彼の評判が落ちてしまうことだけは分かった。だから、バクバクとうるさい心臓の音を聞きながら、どうにかできる限りの落ち着いた声を出したのだ。
「あああああの、誰かに見られてしまったらユーティリス様の評判に傷が付きます」
多少吃しはしたが意味は通じただろうと返答を待つと、何故だか返事は聞こえず抱きしめる腕の力だけが強くなった。
「だだだだ誰かが来たら、その、困ると思うのです」
これなら分かるだろうと思ったのに更に腕の力は強くなり、アンジェリーナはユーティリスの腕の中にすっぽりと抱き込まれてしまった。これでは熱烈な恋人同士の抱擁としか見えない。
どうにか注意を引きたくて、彼の胸にぴたりと当たっている自身の手をぺしぺしと動かして、ようやっとユーティリティが口を開いた。
「ここは奥まっているから誰も来ませんよ。それに誰かに見られたとしても私の評判に傷などつきません。勿論、貴女の評判にも」
ユーティリティが声を発するとその胸に密着している耳や手から振動が伝わって、アンジェリーナの体全体で聞いているみたいになる。
「いや、いっそ誰かに見られた方がいいのか。そうすれば、余計な手間が省けるし、貴女の兄君も諦めずをえないでしょうから」
「あ、兄がどうして……いえ、それより、やっぱり誰かに見られるのは良くないと思うのです。何よりこの格好は凄く恥ずかしいですから」
今度はユーティリスの胸に手を置いてぐっと突っ張ってみた。勿論、男性で近衛騎士である彼の力の方が強いから密着する体を離すことは出来なかったが。
それでもアンジェリーナの抵抗する意思が伝わったのか、ようやっと拘束していた腕の力が緩まり少しだけ二人の間に隙間ができる程度には体を離すことができた。とはいえ、相変わらずアンジェリーナの腰にはユーティリスの腕が巻き付き、腕の中にいるのだが。
疑問符ばかりが頭を埋める中、そっと見上げるとユーティリスはとても嬉しそうに微笑んでアンジェリーナを見下ろしていた。
それはまるで愛しいものを見つめるような蕩けそうな甘い眼差しで、居た堪れなくなったアンジェリーナはすぐに視線を下げた。
「きちんとお会いするのは今日が初めてだと思うのです。なのに急になぜ……」
控えめに口にした困惑は、ユーティリスの小さな笑い声で最後まで紡ぐことは出来なかった。
「ふふっ。なるほど、貴女にとっては初めてか。でも私にとってはようやく、なのですよ」
うっとりするような甘い声で囁かれた言葉はしかし、アンジェリーナの頭の中に疑問符を増加させただけで何の答えにもなっていない。
おずおずともう一度視線を上げて、小さく声を上げた。
「ようやく、なのですか?」
ユーティリスの腕の中でゆるく首を傾げると、彼の笑みはますます深くなる。
「ええ、ようやくです。ようやく、貴女を捕まえることが出来た。逃げられないと思って観念してくださいね」
更に追加された理解できない言葉に返事もなく固まった時、唐突に木々をかき分けるガサリッという音が聞こえた。
ハッとしてアンジェリーナ振り返ると、そこには木々に手をかけたままびっくりした顔で固まっていた王太子殿下がいた。
しばらく無言で見つめ合った3人の沈黙が破られたのは、殿下の固まっていた表情が破顔した瞬間だった。
「なーんだ、そういうことか。急に貴族の令嬢子息を集めて懇親を図ろうだの、勢力図の把握は不可欠だの急に言い出すから、どんな魂胆があるのかと思って後を付けてみたら……言い出した理由がやっと分かったぞ。俺も母上もユーティリスの恋路の手助けをまんまとさせられたって訳か」
大きな声で心底愉快そうに笑いながら茂みから抜け出した王太子がこちらに歩いてくる。流石に抱き合った体勢のままで迎えるのは不敬に当たるだろうとアンジェリーナは逞しい腕から抜け出そうとしたが、何故だか腕の力が緩むことはない。それどころか、ユーティリスは自身の主人に向かってニヤリと不敵な笑みを浮かべている。
「見つかってしまいましたか。きっちりと完全に捕まえてから殿下にはお知らせしたかったのに、残念です」
ちっとも残念そうではない口調でいう彼の顔は、そのセリフに反してとても楽しそうだ。これまた分からない、とアンジェリーナが困惑の表情を浮かべた時、ぐいっと顔を近付けて王太子に顔を覗き込まれた。
「なんと!爽やかな近衛騎士の皮を被った腹黒策士に捕まったのはアンジェリーナ嬢であったか。なるほど、あの兄を出し抜くためにはユーティリスといえど手段を選ばない訳だ」
それはそれは楽しそうに笑う王太子だったけれど、ふっと真顔に戻るとひたとユーティリスを鋭い眼差しで見つめた。
「で?俺は最も信頼する大事な側近二人を失うことなく治政を進められるのだろうな?」
さっきまでの年相応な青年らしい快活さを消し治世者としての責任を義務を負う者のオーラを纏った物言いは、ユーティリスの腕の中に守られたままのアンジェリーナでさえ、くっと気が引き締まる。なんなら、その王者の醸し出す空気に足が竦みそうになった。
その時、アンジェリーナの背中を温もりが触れた。まるで大丈夫だと教えるようにゆっくりと背中を撫でるのはユーティリスの大きな手だ。それは魔法のように彼女の心を凪がせた。
「勿論です。私は私自身と最愛との幸せを諦めるつもりは絶対にありませんが、同じように貴方が作る豊かな治世も何があっても諦めるつもりはありません」
そして自信に溢れた声と言葉は彼女の身体を通して心まで震わせた。
安心出来るのに同じくらいドキドキする。
初めての状況にどうしていいのかわからない。恥ずかしくて早くユーティリスと離れたいと思うのに、同じくらいこの腕の中で守られていたいとも思う。さっきまでとはまるで違ってしまった自分の気持ちが理解出来ない。
「そうか、それならばいい。君達側近二人が義兄弟になれば何かと便利になりそうだし、俺からも後押ししてやろう。アンジェリーナ嬢も良い機会だから、過保護な兄の手から離れて自由に見聞を広げてみるといい」
アンジェリーナが自身の気持ちに戸惑っているうちに男性二人の話はまとまったらしく、王太子はひらひらと手を振りながら歩き去っていった。最初と同じ、気さくで快活な好青年にしか見えない様子で。
その後ろ姿を眺めながら、アンジェリーナの頭上ではぁっと大きな溜息が聞こえた。見上げると、ユーティリスが困った顔でこちらを見下ろしている。そこには彼女を突然抱きしめた時の強引さも、王太子と対峙した時の自信溢れる気迫もない。ただ愛しさと、それゆえの自信のなさが浮かんでいる。
「こんなに強引に貴女を捕まえたことを許してもらえるだろうか?」
しばらく見つめ合った後、ぽつりと漏らした声は不安に揺れていた。
「いや、許してもらえなくても離せないな。だから悪いが諦めて欲しい。貴女は私のものだ」
台詞はこれ以上ないくらい強引なのに、ちっとも口調と合っていない。だからこそ、アンジェリーナは許してしまう。絆されているだけだと頭のどこかで囁く声に納得しながら、それでも強引なくせに弱気な人を好ましく思ったから。
「では、まずはもう少しお話しませんか?私は貴方のことをほとんど知らないので」
小さく浮かべた笑みは騎士の腕の中で守られる可憐な花のよう。そして恥じらいに視線を伏せた彼女は気付かない。彼女を囲う騎士がそれはそれはうっそりと笑ったことを。
後日談:賢兄の嘆息
妹はとても、とても可愛い。
なぜだか彼女自身の自己評価は地を這うほどに低いが、あんな可憐で善良な女性はまたといないだろう。
人見知りが故に相手は選んでしまうが、気を許した人をあんなにも癒してくれる人間を妹以外に私はみたことがない。
そんな妹が終生心穏やかに生きられるように、私も両親も結婚には否定的だった。
彼女の善良さや優しさを真に理解出来る男少ないだろう。もし理解出来ない男を夫に選んだりしたら、幸せから離れてしまうのではないか。無能な夫に軽んじられたり、性悪な姑に邪険にされるような生活など、絶対に送らせたりしない。
その為には妹が遠慮なく暮らせるだけの財力を身につけようと思った。
祖父も父も堅実な領地経営を行なっていたが、領地自体の元がしれている。特段広いわけでも、希少な鉱物が産出されるわけでもない。特産物すらあるわけでもない。
だから学問の世界に進んだ。自分の頭脳が人よりいくばくか優れている事には気付いていたし、興味もあった。沢山の事を学べば領地を豊かにする新しい方法も見つけられるかも知れないという期待もあったし、学問の世界で名をなすことで開ける道もあるだろうと考えたのだ。
そして、努力は実を結んだ。
気象学と地理学を学んでいたから気付けた事実を王に進言し、我が領地はもとより国土が疲弊することを防いだ。その実績を買われて政治の世界に登用もされた。出世の道が開けたのだ。
しかも副産物まであった。
周りの貴族には保守的で変化を受け入れられない古い奴が多かったし、自分の既得権益を守る為に私を陥れようとするものまでいたが、その中に一人、友と呼べる人物に出会えたのだ。
血筋も頭も、ついでに容姿までも優れた男で、私から見ても有能で何者にも変え難い人材だ。
彼と、彼が主として仕える王太子と三人で話す時間はとてつもなく有益な時間で。彼と二人で王太子の治世を支えていくのはとても楽しくやり甲斐のある仕事だと思えた。妹にも尊敬してもらえる兄でいられると、幸せな未来を描いた。
なのに、だ。
奴は妹に恋をした。いつの間にか、気付けば妹を視線で追っているのに気付いた。
それでも妹が振り向かない限り、奴の片想いが続くだけだ。自己肯定感が低く、人からの好意に鈍感な妹が奴の気持ちになど気付くことはないと安心していた。たかを括っていた。
それが、たった一度送り出した茶会で覆った。気乗りしない妹を「王家からの招待だから」と送り出したことをそれはそれは深く後悔した。
ほとんどの人間が騙されているが、奴は優しいだけの、財力があるだけの貴族じゃないのだ。
代々宰相を輩出する家柄の嫡男として産まれながら身体を鍛えて近衛騎士になり、軍部とも繋がりを作った。その一方で絶え間ない努力を重ねて現宰相である父親の補佐をも人知れず務めている。私が話していても、その見聞に驚くことさえある。
その全てはいずれ自身が宰相となり、王太子を支えて国を繁栄させるため。その時に着実に努力を重ね、実績を積んできたのだ。
地に足がついたといえば聞こえがいいが、用意周到で粘着質な男だ。目標を定めたら諦めることを知らない。
その執念深さを甘く見ていた。
茶会から帰ってきた妹は一人ではなかった。
一人で馬車に乗って出かけたはずが、エスコートされて帰ってきたのだ。
「正式な挨拶は日を改めてまた来る。今日は将来の義兄上に顔見せだけのつもりだから」
友である男からの宣言と、その言葉にオロオロしながらもどこか嬉しそうな妹の顔を見た時の気持ちをどう表現したらいいだろうか。
雄弁過ぎて貴族社会の重鎮から疎まれるほどの私が、ただの一言も発することが出来なかった。ただただ二人を交互に見つめて、戸惑うばかりだったとは、不甲斐なさ過ぎて自分を殴りたくなる。
ただ……不思議と温かな気持ちを微かに感じていたことも事実で。
自分がたった一人認めた男が自慢の妹の素晴らしさを見つけてくれたこと。自慢の妹があの男の素晴らしさに気付けたこと。
だから今日、珍しく奴の家に訪問していつにないほどに飲み明かしている。
酔った勢いにしてしまえば許されるだろう。過保護なほどに妹の幸せを願う兄の気持ちも、その妹が離れていくことを寂しく思う女々しさも、彼女が選んだ相手が悔しいが自分の認める男だった喜びも。
お読みいただきありがとうございました。