天空の舞台 もう一つの神風連の乱
序幕
やっと来た。やっとこの日が来た。待ち望んだ日が来たのだ。
九年前に起きた神風連の乱。士族による狂気の乱、身勝手な戦だと今なお見なされている。しかし四人の息子たちは急激に進む西欧化で失われた日本文化を取り戻し再び皇国の国にするため戦ったのだ。今日ここに建てられた二つの石碑。「誠忠の碑」「百二十三士の碑」は未ださまよう同志の魂を神のもとへ導いてくれるだろう。並び立つ二つの石碑が神風連の乱本来の遺志を取り戻す旗印となるだろう。
あの日、刀や槍のみで熊本鎮台に立ち向かった戦は一夜で終わりを迎えた。敗走する息子たちに浴びせたあの言葉が今でも忘れられない。「縄目を受けるは武門の恥ぞ」あの日以来、この言葉が心の中に峰となりそびえ立つ。あの言葉、親として私の本心では無かった。息子達はどう受け止めたのだろう。今では聞くすべもない。私がこの峰を越える日は来るのだろうか。最近、賑やかだったあの頃の夢をよく見る。妻にも先立たれ、独りになった私はあの頃が懐かしい。私に残された時間もそう長くない。最後まで私に与えられた使命を果たし心の峰を越えなければならぬ。そのためには今なお四人の息子に着せられた賊名を晴らさなければならない。この乱で喪った四人の息子のためにも。命ある限り私の戦は続く。
一幕
静寂、沈黙、静けさ。私が生まれて十七年、我が家にこの景色がない。男四人兄弟の我が家は夜中もいびきや歯ぎしりの音が響き渡る。特に長男の歯ぎしりと父のいびきが厄介だ。兄たちに言わせると私の寝言が一番うるさいらしい。寝言とは思えないほどはっきり話をするようだ。しかし慣れてしまえばザワつく部屋も居心地が良い。かえって静かな部屋では寝付けない。今日もまた賑やかで騒々しい一日が始まる。
朝の縁側に春のゆるやかな日差しが差し込む。通りの桜は未だ硬いつぼみのままだが、数えきれないつぼみで木全体がうす紅色に覆われている。春の便りもすぐそこまで来ている。父は縁側で日向ぼっこをしながら不規則に並んだ碁石を眺めている。那智黒で出来た黒石を三本の指で握ったまま、いまは手が止まっている。那智黒が父の指の熱を吸い取っていたその時、私の声が部屋中に響き渡る。
「彦七郎兄ちゃん。なんで俺が残していたお菓子ば食べよっとや」
「源三がいつまでも食べずに置いとるけん、兄ちゃんが食べてやったったい」
「今日食べようと思って楽しみにしとったのに。はよ返せ、バカたれ」
次男の彦七郎と私が茶の間で喧嘩を始めた。母が喧嘩の仲裁に入るが私の気がおさまらない。私は大声で食ってかかる。隣の仏間では長男の一三が三男の清四郎に説教している。何が有ったのかは知らないが一三が声を張り上げ話しをしている。父は碁盤の側面に黒石を当てながら四人の様子を伺っている。しかし、一向に収まらない不協和音に頭の芯がしびれを切らしかけているようだ。碁盤を叩く黒石の音が徐々に早くなっている。結局いつもの通り抑えていた苛立ちが堰を切る。
「お前たちいい加減にせんか。喧嘩は外でやれ」
四人集まればいつも父に怒鳴られる。私たちは小うるさいまま土間に下りた。明治八年、長男小篠一三、二十六歳。次男彦七郎、二十四歳。三男清四郎、二十一歳。末っ子の私、源三が十七歳である。三男の清四郎以外は口から先に生まれたように話が止まらない。父の宗平は今は隠居の身だが細川家に仕えていた頃四百石取りで暮らし向きは中の上というところだった。戊辰の役では銃隊長として参加し周りからの信頼も厚い。肥後もっこすを絵にかいたような性格で今なお我が家を取り仕切っている。兄弟の中で私が一番父から怒鳴られる。私は悪い事などしたと思ってないが、父の癇に障るのだろう。不思議だが慣れてしまえば挨拶の様なものだ。我が家にはもう一人家族がいる。愛犬の「とら」だ。今も玄関先の犬小屋では父の怒鳴り声をものともせず目を閉じ寝ている。私は寝ているとらに駆け寄った。
「ばか兄貴たちと散歩に行くぞ、とら」
とらに縄を付け素早く家を後にする。
「母さん、お茶を入れてくれ」
後ろから父の人心地ついたような声を聴きながら私達は通りに出た。最近雨が少なく通りは土埃がまっている。私たちは周りの目もはばからずなお喧騒をまき散らしている。
「兄ちゃんたちがバカ騒ぎするけん、父上に怒鳴られた」
悪態を着く私に三人は同時に言う。
「お前が一番うるさかった」
分が悪くなった私は、とらに向かい念仏を唱えるようひとりごちる。
「三人同時に言わんでも良いよな、とら」
とらは私の独り言に興味は無いと言わんばかり耳を閉じる。茶色の毛並みに耳が黒く垂れている。私の話など聞く耳持たぬと言わんばかりだ。尻尾は表が黒く裏は白い。白黒の尻尾は彼の性格をよく表している。不機嫌な時は、近づいても目さえ合わさない。しかし、食事の時は必ずしっぽを振って参加する。なんだか自分を観ている様で尻がこそばゆい。
とらが我が家の一員になってもう七年になる。島原の親戚の家で生まれた双子の子犬の一匹をもらった。私が島原へとらを貰いに行ったとき、とらは親犬のそばを離れなかった。甘えたい盛りだったのだろう。帰り道、私は彼を抱きかかえ耳元で私の家族の話を聞かせた。私以外はもちろん悪役として彼に伝えた。彼が我が家に到着してしばらくの間、暗くなると親犬を恋しがるようにクンクンと鳴いていた。島原からの帰り道で勝手に意気投合した私は、彼がクンクンと鳴くたび犬小屋に駆け寄り話かけていた。今のふてぶてしいとらからは想像できない。
とらを先頭に四人は、白川河川敷の土手を歩いていた。土手の斜面には黄色い菜の花が帯を広げたように咲いている。菜の花に蝶が引き寄せられる景色は春のうららかさを感じる。川の水は細り、菜の花の香りをまとった風が水面をゆらしている。
突然、一三が土手の草むらにどさっと座り込んだ。長男の無言の合図に我らも草むらに座る。白川の向こう岸には芝居小屋が見え、時おり三味線や太鼓の音が聞こえてくる。一三は小屋を眺めながらしたり顔で話し始めた。
「安岡県令がまた禁止令を出したばい。今度は立小便等の禁止令らしい。勝手にその辺に小便したら巡査に捕まるばい」
「そんじゃ、小便漏れそうなときはどこでするとか」
いつものように悪たれ口は私の出番。
「公衆便所が出来ているらしいぞ」
負けず嫌いの次男、彦七郎が長男に対抗して口を挟む。
「そういえば公衆便所の事で、早速巡査から厳重注意を受けた者がいたらしい。その者は小さな郵便箱を公衆便所と間違え、その箱の中に小便をしたらしい。巡査が注意すると郵便箱の『便』の文字と、穴の所に書いてある『差入口』を指さし便所と思ったと言ったらしい」
一三の話に再び悪たれ口は私の出番。
「バカだな。穴から抜けなくなったらどうするつもりや」
私がそう言うと三人の兄ととらはあきれた顔をした。一三が面倒くさそうに言う。
「源三の頭の中はどうなっている。普通はなんでそんな所に小便などするのかと思うところだろう。馬鹿が。しかし安岡県令もいろんな禁止令を出すよな。『子女の売買禁止』『裸体での歩行禁止』『男女混浴禁止』『加持祈祷の商い禁止』中には今さら禁止しなくても良さそうな物まであるが。文明開化に恩恵を受ける者がいる反面、何の恩恵も受けない者は取り残され腐って悪さをするためいろんな禁止令を出すのだろう」
一三の話に三人はコクリとする。一三は白川(熊本)県政についても話し始めた。
「明治維新後、県政は実学党に握られていたが明治六年、安岡良亮が白川県令に就任し最初に行ったのは県政から実学党を一掃する事だった。あれから二年が経ち実学党は一掃されたが勤皇党や学校党の待遇は今なお冷たい」
白川県は旧幕時代から残った三つの学閥が争い、政治の上にまで及んだ。藩校「時習館」の流れをくむ保守派、学校党。朱子学の字句の注釈だけに重きを置き実践性のない、哲学者を思わせる人材が集まっている。一方、これに批判的なのが実学党である。横井小楠が、実践で学んだことを世の為、人の為に生かす私学を立ち上げた。学生の主流は士族以外の者が多く維新後の県政に大きな影響を与えた。最後の学派は勤皇党である。勤皇党は国学を基礎とし、高本紫溟が本居宣長と交わり学んだ。その後、林桜園を中心とし尊王攘夷運動に発展していく。肥後勤皇党員では宮部鼎蔵、轟武兵衛、河上彦斎が維新で活躍することになる。維新後、急速に力を失った勤皇党の中から、世の中の事はみな神の計らいによるものとする敬神家が集まり敬神党又は神風連が生まれた。
われら兄弟は学派に属せず、高麗門地域の士族集団に属していた。この集団は高麗門連と呼ばれ植野常備を長に百石から五百石の家禄の者、二十二名がこの組織に属していた。一三と彦七郎はこの郷党の補佐役に選ばれている。高麗門連は敬神党と気脈が通じる所があり、一挙の際には協力する密約が結ばれていた。神風連の乱では通丁連や保田窪連からも一挙に参加している。
その後一三の話は熊本洋学校のことに移った。洋学校に通う生徒はいかにも西洋かぶれで小憎らしい。洋学校の生徒とその他の生徒の間には喧嘩や小競り合いが絶えない。どちらも自分が正しいと思い学んでいる事を否定されれば衝突するのも当たり前だ。洋学校の生徒は英語、数学、地理、歴史、化学、天文、生物など他の学校とは全く違う教育を受けていた。口喧嘩では洋学校の生徒に分が良くおのずと士族の生徒は小競り合いを喧嘩の主流とする。威勢のいい生徒があちらこちらで日ごろの憂さを晴らしていた。
「源三、お前はまた洋学校の生徒と喧嘩したとか。高麗門の集まりで、お前が勉強もせず喧嘩ばっかりしていると評判ばい」
私はむかっ腹がたった。
「喧嘩はしとらん。ちょっと尻を蹴っただけバイ。そしたら向こうが殴り掛かって来たけん相手をしてやった」
「先に手を出したのはお前だろうが」
「手は出しとらん。足じゃ」
私の悪態に一三は開いた口が塞がらない。一三は徐々に怒りが込み上げているようだ。
「清四郎が甘やかすけん源三が付けあがるとたい」
怒りの矛先が三男の清四郎に向かった。とんだとばっちりだ。そういえば、清四郎は今まで一言も喋っていない。寡黙な兄は私にとって一番頼りになる。悪事を働いた時の相談相手は清四郎と決めている。兄は見事に解決してくれる。何度父から怒られずに済んだことか。そんな清四郎は一三の恨み言など耳を貸さず無視している。一三は高麗門連補佐役の一人で、小篠家の長男なので我が家での力は絶大だ。また、頭の回転の速さは同じ補佐役の彦七郎とは比べ物にならない。そのため彦七郎は一三に負けじといつも反発している。そんな彦七郎はお調子者で友達も多く社交的である。兄弟四人とも性格が違い同じ両親から生まれて来たとは思えない。
その彦七郎は一三の話に飽き、仕事に戻ると言い残し草むらを立ち去った。それを機に二人の兄も立ち去った。草むらには私ととらが残る。水面に日の光がきらきらと揺れ動いている。優しい光のリズムが子守歌の様に私を包む。私はそのまま坂道に横たわると知らぬ間に寝ていた。
どのくらい寝ていたのだろう。目を空けると菜の花の茎が空に向かって伸びている。先には黄色い花びらをまとっている。ああ、菜の花をおひたしにしたら旨そうだ。そう思いながら草むらから立ち上がろうとした。その時、足元に寝ていたとらに足を引っ掛けた。体はゆっくり前のめりに倒れていく。私は頭から土手の斜面を転がり始めた。目には空の青と菜の花の黄色が交互に映し出される。転げ落ちる私の左手にはとらを繋いだ綱がしっかり握りしめられていた。私は彼を道ずれに土手を落ちていく。黒と茶色の塊はおむすびが転がる様に坂道を落ちていく。ようやく二人は坂のふもとで止まった。私は目が回りしばらくうずくまる。真横でとらが声を張り上げ吠えまくっている。
「とら、悪かった。ちょっと転んだだけたい。耳元でそんなに吠えるな」
とらが吠えるのも無理はない。彼はきっと私になぜ綱を握ったまま土手を落ちる。源三ひとりで落ちれば良いのに、と言っているのだろう。春のゆるやかな日差しの中、昼寝を満喫していた彼に突然襲った転落事故。不意打ちを食らい激高する彼の怒りは納まらず吠え続ける。
私の眼はようやく落ち着きを取り戻してきた。ふと、背中に視線を感じ振り帰ると女の子が不思議そうな顔で私を見ていた。
「何してると。土手から落ちて来たみたいだけど」
私の頭がとっさに動きだす。彼女にどんな言い訳をしてこの場を逃げ出そうかと動くのだ。
「つまずき転んだ訳じゃなかばい。草むらが気持ち良さそうなので滑ってみたくなっただけたい」
私は立ち上がり言葉を繋いでみた。どうにか誤魔化せたか。意味不明なことを口走った気もする。しかし彼女に私の声は聞こえていない。何故か笑いをこらえる彼女の瞳は、一瞬私の頭を見て視線を元に戻した。彼女は再び私の頭を見ると、今度は口元から白い歯がくっきり表れ目尻は下がり笑い声まで登場した。どうやら私の頭に何か付いているらしい。私は川岸まで走り水面をのぞき込んだ。私の頭上に菜の花が写っている。恐る恐る後ろを振り返る。やはり菜の花など咲いてない。再び川面をのぞき込むと菜の花が現れた。どうやら私の髷に菜の花が突き刺さっているようだ。色鮮やかな黄色い菜の花が間抜けな私の頭に映える。私はこわごわ頭に手をやるとやはり菜の花が髷に刺さっていた。顔から火が出るとはこの事か。このまま白川に飛び込み逃げ出したい気分だ。心臓の音がやけに耳に着く。彼女の声がする方を見るとかがみ込みとらの頭を撫でている。とらは先ほどまでと打って変わり、上機嫌でしっぽを振っている。彼は若くて綺麗な女性が好きだ。散歩中もすれ違う女性を目で追う。誰に似たのか気恥ずかしい。
意気投合する二人に私は完全に無視されている。しかし無視されているおかげで、すでに手の中にある菜の花を素知らぬ振りで白川に流した。これで証拠は無くなった。私は二人のいる方へ歩き出した。彼女はとらに何やら話しかけている。彼女を近くで観ると年は自分より少し上の様だ。肩口付近まである髪を後ろで束ね、少し広めの額は前髪で隠されている。薄化粧で上向きの口もとはみずみずしい赤色に染められていた。長いまつげが目元をより愛らしく描き出している。美人というより可愛らしい。とらの機嫌がよくなるわけだ。二人に近づくと彼女は私を見上げ目尻を下げながら話しかけた。
「菜の花は無くなったね」
私の顔に一瞬で体中の血が集まって来た。今すぐここに穴を掘り隠れたい気分だ。頭の中は真っ白になるがとっさに言い返した。
「初めからそんな物付いてないけん。寝ぼけとったんじゃなかか」
苦し紛れの一言に彼女は再び笑い出した。私の頭に刺さった菜の花を思い出しているのだろうか。
「そうね。きっと私が見間違えたのね」
彼女はそう言いながら立ち上がった。背は思ったより低く正面に彼女の額が見える。彼女は彼を見ながら名前を聞いた。「とら」だと答え私も彼に目を移した。相変わらず上機嫌で愛らしくしっぽを振って彼女の気を引いている。彼女はその仕草に騙され再びかがみ込み、彼を撫でながら可愛いだの、大人しいだのと言っている。私はその様子に何故かむかっ腹が立つ。とらは猫をかぶっているだけだ。犬ではあるが。
「散歩していたの」
突然の彼女の問いに心がドキリとする。彼女に気付かれないよう視線をはずす。
「そうだ。この土手には良く来る。犬は好きなのか」
「うん。可愛いもん」
彼女の言葉に私の心が躍りだす。そう言えば、まだ彼女の名前を知らない。散歩中、顔を合わせた記憶は無いが、この辺に住んでいるのだろうか。年はいくつなのか、仕事に就いているのか、勝手に心がつぶやく。先ほどまで早くこの場を逃げ出す事しか考えなかったのに、今はここに根を張り彼女と同じ時間を過ごしていたい。私に何が起きているのかわからない。彼女の大きな瞳に吸い寄せられるように私の目は彼女にくぎ付けだ。とらはそんな私の異変に気付き私に向かって吠えた。早く名前を聞けと急かす様に。
「俺の名前は源三だ。高麗門に住んでいる」
「私はみつき。字は日光の「光」と桔梗の「桔」と書くの」
光桔。私は彼女の名前を心の中でつぶやいた。紫の花を付けた桔梗が秋のやわらかな光を受けきらめいている。そんな温かく清らかな印象だ。彼女から漂う清純で可憐な雰囲気と一致する。
突然、春一番の様な風が三人を襲う。彼女は真正面から吹く突風に、目を細め抵抗している。表情が刻一刻と変わる彼女を私は静かに見つめている。風が治まると私たちの間に沈黙が襲った。気まずい空気に私は耐えられなくなる。
「そろそろ行くけん。この河原には良く来るけど、また会えるかな」
私の顔が赤くなってくるのがわかる。思ってもいない言葉が口をついた。いや、正直な気持ちだった。
「多分会えるよ」
あいまいな返事がもどかしい。私は綱を握りこの場を離れようとしたがとらが動かない。綱を強めに引くと彼の顔が不細工になった。それでも彼は両足を突っ張り動かない。
「とら。行くぞ」
私の声を無視するとらに私も苛立ち始めた。そんな二人を見ていた光桔が、くすくす笑い始めた。気恥ずかしいが彼女の笑顔が見れ幸せな気持ちになる。どうにか歩き始めたとらと土手を上がり始めた。後ろを振り返り彼女を見たいが、私の自尊心がそうさせまいと戦う。その時、背中から光桔の声が聞こえた。
「明日またここで待ってるね」
私の自尊心はもろくも崩れ去りあっけなく振り返った。なぜだか前を歩くとらも振り返り二度吠えた。なぜおまえが返事をする。再び前を向き太陽の日差しが弱まった土手を歩きだした。彼のしっぽはピンと立ち、楽し気に左右に揺れている。身体全体で喜びを表す彼がうらやましい。おそらく私の顔もあふれんばかりの笑顔だったろう。川から土手に向かい吹く風から菜の花の甘い匂いがする。いつも遠くに見える阿蘇山が今日はやけに近く見える。阿蘇山からは今日も白い煙が立ち昇っている。
二幕
翌朝、私はニワトリより先に目が覚めた。いつもならもう一度目を閉じるとすぐに寝落ちするところ、今日に限っては眠れない。光桔との約束が気に掛かり眠れないのだ。仕方なく起き上がり台所の水がめから水を飲む。冷たい。この時期、夜明け前の冷え込みで水がめの水も冷たさを増していた。余計に眼が冴えてきた私は暇つぶしに犬小屋へ向かった。外はまだ暗い。とらはまだ寝ていた。私がそっと近づくと気配を感じ片目を開け再び目を閉じた。眠れない私をよそに再び眠りにつくとらに腹が立ち彼の耳元で「コケコッコー」と大声で叫んだ。不意打ちを食らった彼は飛び跳ね小屋で頭をぶつけ、私に向かい執拗に吠えまくった。あまりのしつこさに、父が起きまた怒られると思った私は素早く彼に縄をつけ戸外に向かった。
歩き始めた彼は少し機嫌を直したようだが
今なおしっぽは垂れ下がっている。
私たちは北岡神社まで歩いていた。この神社には樹齢千年とも言われる一対の大きなクスノキがそびえ立っている。その間の石段を登り楼門に向かう。朱色の柱に白壁、欄間には透かし彫りが施された華麗な門だ。ようやく辺りが明るくなり始めた。もちろんすれ違う人など一人もいない。ひと気のない境内を進むと神殿が見えて来た。楼門とは対照的に荘厳な神殿に向かい私は懐に手を入れた。あっ、財布を持ってない。今日はお賽銭を上げずに願い事をすることにした。どんな願い事かはもちろん内緒だ。神様だけが知っている。しかし、お賽銭も上げずに願いが叶うのか。
御参りを済ませ私は境内に置いてある長椅子に腰を下ろした。朝日が私の背中いっぱいに当り服が暖かくなってきた。
「とら。朝日が気持ちいいな」
そんなとらも地べたに座り日差しを正面から受け目を細めている。その姿は年寄りが縁側で日向ぼっこしているようだ。彼もそろそろ初老に入るのではないか。しかし今なお彼の面食いは健在だ。今回、光桔に引き合わせてくれた事はお手柄だった。背中がぽかぽかしてきた。長椅子に横たわり右腕を枕に神殿を眺めていたがその様子がだんだん狭くなり始めた。日差しが心地よくいつの間にか私は眠っていた。
遠くで「シャッ、シャッ」と竹ぼうきで地面をこする音が聞こえる。ぼんやりと辺りの景色が戻って来た。目の前では四十がらみの男性が境内を掃除していた。
「やっと起きたかね。死んでいるかと思った」
勝手に殺すなと思いつつ男に挨拶した。ふと、足元に目を落とすと、とらがいない。あれからどれくらい眠っていたのだろうか。いつの間にか背中で受けていた日差しが体全体を照らしている。空を見上げると太陽がかなりの高さまで上がっている。恐らく十時を過ぎているのでは。その時私のお腹が鳴った。わあ、朝飯食いそびれた。私は寝起きとは思えない勢いで階段降り家まで全速力で駆けた。案の定、卓袱台はきれいに片づけられ米粒一つ残っていない。くそっ。とらめ。何故か怒りがとらに向かう。きっと彼は朝の仕返しに眠りこけた私を置いて家に帰りおいしい朝食にありついたのだ。中の間で縫物をしている母に朝飯が残っていないか尋ねた。母は涼しい顔で兄たちが全部食べたてしまったと言った。私は力が抜けその場にへたり込む。
「なんで残しとらんのじゃ。生れてこの方朝飯食べんかったことは一度もなかばい」
私はこの世の終わりを迎えた様な顔をしながら母に訴える。しかし母は素知らぬ顔で縫物の針先に集中している。二人の間に束の間の沈黙。母は針先から顔を上げ私を見ると笑いながら言った。
「茶棚に握り飯と漬物を閉まっとるけん早よ食べんね」
私は息を吹き返し走って茶棚を開けた。そこには二個の握り飯と大根の漬物が私を待っていた。誰も取らないと分かっているが、両手で握り飯を掴み食べる。漬物はどうやって食べたらいいものか。一個目を一瞬で食べ終わり二個目に差し掛かると飯がのどに詰まった。むせる私に母が水を渡してくれた。さすが母さん、痒い所に手が届く。人心地が付くと今度は漬物と一緒に残りの握り飯を味わいながら食べた。お腹にはもう一個分の握り飯が入るが仕方ない。腹八分が丁度よいと自分に言い聞かせ玄関に向う。玄関先には素知らぬ顔のとらが寝ていた。
「ばかたれが」
ひとこと言い放つと少し胸がすっとした。縁側では兄貴たちが神妙な顔で何か話している。私もその中に加わった。
「去年二月の佐賀の乱では、戦況が悪化すると首領の江藤新平と島義勇はそろって薩摩へ逃げ込んだが、神風連は大丈夫か」
彦七郎は不安そうに一三に問いかけた。
「神風連は太田黒伴雄と加屋霽堅を中心に神々が彼らを動かしている。佐賀の乱では士族が現状の憂さを晴らすため戦を仕掛けた。千百人ほどが関わった戦で両軍の戦死者が二百人にも満たず首領はさっさと逃亡するなどお粗末だった。葉隠れを武士の心とする佐賀の士族も戦の大義が定まらず尻切れトンボで終わったのだろう」
彦七郎はまだ納得いかない様子で一三にかみついた。
「神風連はどんな大義のもと戦うつもりじゃ」
「もちろん神のもと、失った日本人の魂を取り戻す戦になる。神風連にとって死は神の許への昇天を意味し佐賀の乱の様な失態は起こらん。我ら高麗門連は士族の誇りを取り戻し皇国の国を作るため共に戦うのだ」
力強い一三の言葉に一同はうなずく。すると一三は神風連(敬神党)の実情について話し始めた。安岡県令は着任当初反乱分子である敬神党の取り扱いに頭を悩ましていた。県令は色々な職を敬神党員に紹介したがどれも受け入れない。すると業を煮やした安岡は県内各神社の神職を打診した。敬神党はこれを受け入れ加藤神社、健軍神社、阿蘇神社、青井神社などその数二十七神社、六十一名が神職となった。その他の党員は私塾などを開き各自で敬神活動を行っていた。
「先日、太田黒が宇気比を行ったと聞いたが結果はどうだった」
彦七郎が勢いよく一三に問いかける。
「結果は『否』だったようだ」
残念そうに話す一三に苛立つ様子の彦七郎は不満をぶち上げる。
「いつになったら兵を挙げるのじゃ。佐賀の乱からもう一年が過ぎたと言うのに」
私は先ほど彦七郎が聞いていた宇気比という言葉を初めて聞いた。聞きなれない言葉が胸に引っかかりつぶやいた。
「宇気比てなんだ」
一三は教壇に立つ先生の様な顔をしながら説明し始めた。
「一言でいうと占いの様なものだな。神前へ皇国を守る戦をしても良いか尋ね祈りをささげる。その後、おみくじの様に箱に入れてある紙を手に取り『加納』『否』で神の意志を問う。今回の宇気比では『否』が出、戦は認めない言う事だ」
私の頭でも理解できた。
「だから神風連の若い衆が愚痴っていたのか。いつになったら神の許しが出るのだ、と」
宇気比で神の意志を確かめ、戦を行うことで神軍となるのだ。神と共に戦うとは心強い。私はまだ見ぬ戦に心が動いた。戦は父以外誰も経験がない。その父は戊辰戦争の話をあまりしたがらない。戦は時の運と時世の流れ。父は勝ち戦でありながら領土が広がる訳でもなく自分の亡霊と戦った様な気がしたと語るだけだ。何かあったのだろうが、父にとって苦い思い出らしい。
退屈してきた私は、悪友の高田健次郎の家へ出かけることにした。夕方には光桔と約束をしているのでそれまでの暇つぶしだ。夕方の約束ではとらと言う邪魔者も一緒なのだが彼がいなければ二度と彼女に会えなかっただろう。彼は縁結びの神なのか。まさか。昨日の別れ際、とらはあふれんばかりの笑みを光桔に向けていた。いかがにも可愛がってもらおうと下心が見え透いている。
高田健次郎の家にはすでに先客が来ていた。兼松繁彦、十八歳だ。彼の五つ上の兄、群喜は彦七郎と仲がいい。繁彦と健次郎は同級生で同じく高麗門連に所属している。私たち三人は周りから三バカと呼ばれている。二人は縁側にいた。健次郎と目が合うと「もうそろそろ来る頃だと思っていた」と言われ私は縁側に向かった。
縁側から庭を見渡すと暖かい春の光を受け草花が生き生きと命を輝かせている。うららかな陽気に縁側で温かいお茶を飲みたい気分だ。
「兄貴たちが難しい話ばかりするので逃げて来た」
繁彦が日差しに目を細め話しかけてきた。
「ちょうど良かった。いま芝居小屋でやっている軽業団の話をしていたところだ。今度三人で見に行こうか。可愛い女の子も出ているらしいぞ」
私の耳には可愛い女の子と言う言葉だけが響く。頭の中に光桔の顔が浮かぶ。
「可愛い女の子がどうしたって」
私の返事に繁彦は呆れた顔をしている。
「軽業団の話だぞ。綱渡りとか玉乗りなどの曲芸を見に行こうと言っているのだ。三月からやっているんだ。大阪から来ているそうだ。目玉は可愛い女の子の綱渡りだ」
やはり私の耳には可愛い女の子の所しか届かない。
それから三人は勝手に綱渡りの女の子を想像し盛り上がる。三人とも彼女がいないためこの手の話は盛り上がる。理想の女性は三人ともバラバラだ。私はもちろん光桔を思い二人に話した。話をしていると昨日の光桔を思い出し頬が緩む。そんな私を健次郎は不思議そうに見る。
「源三、大丈夫か。さっきからニタニタ口元が緩みっぱなしだぞ」
私はとっさに素にもどり何事もなかったように庭に目を移す。庭のしだれ梅は花が終わり葉を茂らせている。枝の垂れ具合が光桔の目を思わせる。大きな瞳に目尻が下がり愛らしい。梅の枝を見ながら私の頬は再び緩む。今度は繁彦が不思議そうに私を見る。
「源三、気持ち悪いぞ。どぎゃんしたとか」
私は再び何事もなかったように梅の枝から目を離し言った。
「軽業はいつ見に行く」
繁彦がしばらく忙しく改めて日程を決めることになった。綱渡りの女の子も気になるが、今は光桔の事で頭がいっぱいだ。見る物すべてが光桔に見えてくるから不思議だ。
そろそろ約束の時間が迫って来た。突然薄ら笑いを浮かべる私に悪友たちも気味悪そうだ。私は思ったことがすぐ顔に出るらしい。自分では全く気付かないが。これ以上、長居は無用。健次郎の家をあとにし、とらを迎えに家に戻る。縄を付け足取りも軽く土手に向かった。
土手にはすでに人影が見える。待ち合わせの時間にはまだ早いが光桔は居た。突然とらが吠え走り出す。引っ張られ私も駆けながら彼女のもとに向かった。光桔は市松模様の着物に濃い朱色の袴をはいている。華やかな服は彼女の愛らしさを引き立てている。彼女の足元にはご機嫌なとらがしっぽを大きく振っている。光桔は彼の目線に合わせるようにがかがみ込む。
「とらは今日も元気だね」
光桔は彼の頭を撫でながら微笑んだ。一瞬、私も彼と一緒に頭を撫でられたい衝動に駆られる。もちろん冗談だが。
「早かったな」
「うん。とらに会いたかったから」
彼はうぬぼれた目つきで私を見上げる。私は彼女に気付かれないよう足元の小石を彼に向け蹴る。小石は命中し咄嗟に体を震わせ私の方を見た。当然私は目を合わさない。
とらを先頭に三人はゆっくり歩きだした。隣の光桔からは夏みかんのような甘い爽やかな香りが漂って来る。彼女の無邪気な笑顔と甘い香りに包まれ私の心は浮き立つ。
「この辺りに住んどると」
光桔は川向をちらっと眺めた。
「そうね。ここから見えるところかな」
私は辺りを見渡した。土手から見下ろす町並みは大小さまざまな家が建ち並んでいる。曖昧な返事に全く見当がつかない。その後二人は日常の他愛もない事を話した。どんな食べ物が好きだとか親に良く怒られるとか。二人の笑い声にとらは必ず反応し恨めしそうに後ろを振り返る。その回数は増えているようだ。そんな中、彼女の言葉尻に関西風の訛りがあることに気付がいた。聞くところによると生まれは大阪らしい。
一時間ほど三人で散歩を楽しんだ。彼女の笑顔とみかんの香りに包まれた時間も終わりを迎えた。私は光桔に出来るだけ自然な口調で、またとらの散歩に付き合ってほしいと伝えた。ここでも「とらが喜ぶので」と付けくわえる。彼女は頷き、そうだねと言ってくれた。「つぎ」も有りそうだ。身体中の血が喜び駆け足している様だ。喜びのあまり今夜は眠れそうにない。光桔とは三日後の同じ時間に会う約束をして別れた。
帰り道、私はニタニタと頬を緩ませ歩いていた。周囲が私を避けて歩くことなど全く気にならない。たまに振り返るとらは呆れた顔をしていた。彼の方が大人である。家に帰り着いた私を母が見付け、何か良いことがあったようねと言われ素直にうなずいた。その夜は床にはいると同時に記憶が無くなり眠っていた。いつも通りだ。
その後光桔と、とらの散歩と言う名目で会う回数を重ねた。おかげで光桔の事も色々分かって来た。年は二十一歳で私より四つ年上だ。三人兄弟の長女で妹と弟がいるらしい。一番下の弟と私が同じ年で私も弟の一人に数えられている。仕事の事を尋ねるといつもはぐらかされた。まあどうでも良いが。私の中で彼女との距離が順調に縮まっている。たとえ彼女が弟のひとりと思っていようとも。今度悪友二人にも紹介したい。今はまだ友達として紹介するのだが、いずれ恋人として彼らに報告したい。彼女に今度軽業団の公演を見に行くと話したがあまり興味を示さない。悪友二人と可愛い子目当てに見に行くと言ったのが悪かったのか。しかし光桔といると心が弾み目に写る物全てが輝いて見えるから不思議だ。こんな日がずっと続くと思っていた。あの日を迎えるまでは。
軽業団の公演当日は雨が降っていた。河川敷の劇場に到着するころには三人とも足元がびっしょり濡れ、着物の裾が足にまとわりついて気持ち悪い。公演が始まるまで、私たちは綱渡りの女の子の話で盛りあがっていた。正直、今の私はどんな可愛い女の子が登場しようとも興味は無い。頭の中は光桔の事でいっぱいなのだ。
公演は小さい女の子の玉乗りから始まった。その後、球を空中でいくつも操る男の演技など様々な演目が繰り出された。連続で宙返りする男の子に至ってはよく目が回らずくるくると回れるものだと驚いた。私はその演技が終わると「お見事」とつい口をついてしまった。場内からは笑いが起こり私の顔が赤くなる。
最後の演目である綱渡りが始まろうとしている。見上げると家の屋根より高い所に綱が張られていた。私は背筋がぞっとした。この綱を渡ると思うと落ち着かない。下には簡単な敷物らしきものが置いてあるが役立ちそうにない。場内は静まり返り綱の端に照明が集結した。すると場内からは一斉に大きな拍手が起こった。彼女は拍手に答えるように満面の笑みを浮かべている。私はその姿にわが目を疑った。照明の先に居るのは光桔だ。なぜこんなところに光桔が居るのか。何をしているのか。私の頭の中は混乱し考えれば考えるほど訳が分からなくなる。そんな私にお構いなく光桔は綱を渡り始めた。二百人ほどの観客は彼女の演技にくぎ付けになり場内からは物音一つ聞こえない。私は気持ちを落ち着かせるため深呼吸をした。しかしいまだ悪夢から覚めない。今度はもし彼女が落ちてきたらと思うと急に心臓が凍り付くほど痛くなる。光桔が綱の中央まで進むころには私の身体は石の様に硬くなり、体中から冷たい汗が流れだしている。彼女を見ていたくないのだが目は離せない。ゆるゆると進む光桔を見ながらとうとう私は中腰になった。ゴール目前、彼女が少しバランスを崩しふらついた。場内はざわつき、ついに私は立ち上がっていた。どうにか最後までたどり着いた時、隣の健次郎が私を見上げた。
「手洗いは入口にあったぞ。我慢すると体に毒だぞ」
勘違いしている健次郎にわざわざ説明する気力も失せ私は行きたくもない便所に向かった。劇場内からは今日一番の拍手が沸き上がっている。私の心臓はいまだ早鐘の様に打ち鳴らされ、頭に登った血は留まったままである。手洗い場で顔を洗い幾分頭も冷えて来た。私は劇場に戻ろうと振り返ったその時、正面から光桔が向かって来た。私は行き場を失い慌てふためく。
「ばれちゃったね。話そうと思ったけど言いづらくて」
微笑む彼女を見ていると、今までざわついていた心が凪いでくる。
「光桔が出てきたときは心臓が止まるかと思ったばい。その後もハラハラしすぎてまともに見れんかった」
彼女はいたずらっ子の様な眼差しで私を見「心配してくれたんだ」と囃し立てる。私は返事に頭を悩ます。実際、心臓が凍りつくほど心配だったが素直に認めるのは癪に障る。結局、素直に心配したと話した。彼女ははじけんばかりの笑顔で私の返事に答えた。しかし、目も眩むほどの高さにいた光桔を思い出しただけでも寿命が三年短くなる。
光桔は心配する私に満足した様子だ。その時私は公演の千秋楽が気になり尋ねた。
「そういえば、この公演の千秋楽はいつ」
急に彼女の目に寂し気な影が宿る
「七月末が千秋楽。その後は広島での公演が決まっているの」
あとひと月だ。私の胸の中に寂しさが突風のように襲う。彼女の表情も以前曇ったままである。
「あとひと月もある。一緒に楽しもう」
私は淋しさを隠し明るく言った。
彼女はそうだねと答え再び笑顔の華が咲く。残り一カ月。光桔のこぼれる笑顔をずっと観ていたい。光桔の時間が許す限り、私は一緒にいたいと伝え席に戻った。便所の時間があまりに長く悪友二人は大便かと聞いてきた。つい先ほどまでの悲しみが笑いに変わる。私は大量だったと胸を張り言い放った。
劇場を出るころにはすでに雨はあがり金峰山は夕焼けに染まっていた。私は二人と劇場で別れ遠回りして家に戻った。家に着いた私は犬小屋の前でとらを撫でながら泣いていた。涙の意味もわからないまま、しばらくとらと一緒に過ごした。夜空に輝く星だけが二人を見つめていた。
三幕
私のこれまでの人生で時間がこれほど大切な物だと感じたことはない。光桔と過ごす時間は一時間、一分たりとも無駄には出来ない。その大切な時間は瞬く間に過ぎついに千秋楽を迎えた。今日も天空の舞台では光桔の演技が行われている。何度観ても心臓が縮み上がる。毎回立ち上がる私の様子を彼女は呆れた顔で見降ろしている。この劇場で何年寿命が縮まった事か。それでも演技後の彼女の笑顔と会場から湧き上がる歓声を聞くためここに足を運んだ。最後の公演も大歓声のもと幕を閉じた。そんな彼女を私は誇りに思う。
公演後、楽屋に向かう私の足取りは重かった。光桔は八月二日に熊本を去る事が決まっていたのだ。私は明日から始まる北岡神社の祇園祭に彼女を誘うため楽屋に向かった。楽屋前には全身が映るほどの大きな鏡がある。その鏡に映った自分の顔が妙に湿っぽい。こんな顔では光桔に会えない。鏡の前で自分の顔を両手で叩き気合を入れ再びのぞき込む。強く叩き過ぎたせいで頬に手の型がくっきり付いていた。しまった。動揺する私の姿を鏡越しに彼女は見ていた。彼女と目が合う。知らぬ間に見られていたのだ。顔に手型を残したまま彼女のいる楽屋に向かった。彼女は笑いながら私を迎える。私の顔は瞬く間に赤くなり手の型さえ解らなくなった。真っ白になった頭で発した言葉はお疲れ様だった。彼女は目尻を下げながらありがとうと返事をした。しばらくの間、楽屋で楽しい時を過ごす。ふと私は、入り口に繋いだとらのことを思い出した。私は入口まで戻り恐る恐る彼の様子を伺う。案の定長い間放って置かれ機嫌が悪い。しかし、後ろから現れた光桔を見ると瞬く間にご機嫌になった。現金な奴だ。彼女はとらを見ると駆け寄り頭を撫でた。彼女の関心を一身に受け彼も満足している様子だ。
それから私たちはいつもの散歩道を歩くことになった。夕方だと言うのに日差しはいまだ肌に刺さる強さだ。とはいえ、川の流れに冷やされた風が時おり土手を吹き抜ける。とらを先頭に右に私、左にはみかんの香りが漂う光桔がいた。爽やかな香りに気を取られ彼女の話が頭に入らない。それでも私は明日行われる祇園祭りに彼女を誘った。太陽が金峰山に傾きかける頃光桔を劇場まで送り届けた。別れ際、明日の祇園祭が楽しみだとはしゃぐ姿が妙に子供っぽく可愛い。彼女と別れ家路に向かう私の中にいつまでもみかんの甘い香りが残っていた。
翌日、青空にわた雲が浮かび、いろんな動物が行進している様で私の心は浮き立つ。今年の祇園祭は光桔と二人で見に行く。私は女の子と祭りに行くのは初めてだ。この祭りの見どころは豪華に飾られた山車だ。通りを勇壮に練り歩き観客を楽しませる。山車は家々の屋根より高く見る者はその大きさときらびやかさにど肝を抜かれる。今年の山車は清正の虎退治である。私たちは通りを埋め尽くす人垣の後ろで華やか祭りの行列を見ていた。彼女の浴衣には青や朱色の朝顔が描かれ清楚な彼女に良く似合う。今日が二人で過ごす最後の日だ。せめて今日だけは全てを忘れ彼女の笑顔を見ていたい。私はいつも以上に明るく振舞った。
きらびやかな山車が近づいて来た。目の前まで来ると山車全体が目に納まらないほど大きい。光桔はその大きさと迫力に声をあげはしゃいでいる。私はその姿が恋しくて愛しい。山車に目を戻すと清正が握る槍先に光が反射し虎を仕留める姿がより勇壮に見える。通り過ぎた清正の裏に鯉の滝登りが現れた。こちらも滝の音が聞こえてきそうな迫力である。再び心弾ませる光桔が妙に愛くるしく、思わず彼女の手を握ってしまった。一瞬二人の間の時間が止まった。しかし彼女が強く握り返し、再び時間が流れ始めた。彼女の手は思いのほか小さい。まるで生まれたての子犬のように柔らかく温かい。私の手いっぱいに彼女の温もりが伝わってくる。しばらくすると、その温もりは私の中に取り入れられ彼女と同じ熱になる。私は遠ざかる鯉を眺めこの時間が永遠に続くことを願った。
沿道の人だかりが解け始めみんなは北岡神社へ向かい歩き始めた。私は繋いだ手を放す機会を失い袖口に手を隠し神社へ向かった。ミンミンゼミの声が夏の空に響いていた。今までに感じた事のない幸福な時間が流れていた。
神社の境内では大勢の人が参拝のため列をなしていた。さすがにここでは顔見知りに会うため光桔の手を離した。少し寂しそうな彼女の眼差しが愛しい。刻々と変わる光桔の表情に胸が躍る。十五分ほど列に並びやっと神殿の前まで来た。賽銭を入れ拝殿に向かい柏手を打ち願い事をした。私はこれから先もずっと光桔と一緒に過ごせますようにと願掛けを行った。神様もかなり困っているだろう。参拝を終えた私たちは神社前の茶店に入りお茶と和菓子を頼んだ。
「さっき何ばお願いしたとや」
彼女は少し照れた様子で、
「源三とこの先も一緒に過ごせますようにとお願いしたよ」
彼女も同じ願い事をしていたのだ。私たちは神様を困らせるのが好きらしい。彼女も私の願い事を聞いて来たので色男になりたいと願ったと言うと光桔は笑い転げていた。彼女の笑顔をずっと観ていたいと心の奥で叫ぶ私がいた。
夕焼けが空を染めるころ二人は初めて出会った土手の草むらに腰を下ろしていた。真っ赤な夕日が水面に映し出され川の流れがきらめいている。私たちは静かにその流れを眺めていた。しばらくすると辺りは暗闇に包まれ、今度は下弦の月が水面にゆらゆら映し出された。土手を歩く人の姿も無く虫の声だけが辺りに響く。彼女に話すことは山ほどあるが今は言葉が見つからない。光桔も静かに水面にゆれる月を眺めている。
「また会えるよね」
彼女の言葉に私はうなずく事しかできなかった。私は草むらに腕を広げながら横になり天空を仰ぎ見た。彼女は私の腕を枕に星空を見上げるように横になった。二人の目の前には天空の舞台が広がる。そこでは星をかたどった役者たちの間を忙しそうに走り回る流れ星が二人を楽しませた。虫の声が一段と大きさを増しまるで舞台で奏でる演奏をしているようだ。
月が西の山に沈み天頂には雄大な天の川が二人の間を引き裂くように流れている。今日だけは許してくれ、そう思いながら彼女から漂う甘い香りに包まれていた。寝息をたて始めた彼女を私の腕は勝手に引き寄せる。全身に彼女の温もりを感じた。天の川だけが二人の様子を眺めている。
光桔の旅立ちの日が来た。当日、彼女は白いシャツに濃紺の袴姿という和洋折衷の様相だった。シャツのボタンには一つ一つ違う花の絵柄が施されたお洒落な服だ。彼女からはいつもと違う大人の雰囲気が漂う。それに引きかえ私は忘れ物をした子供の様にそわそわと落ち着きがない。最後の見送りにはとらと悪友二人も連れてきた。みんなで賑やかに見送りたかったからだ。別れ際、彼女はシャツのボタンを一つ取り私に手渡した。そこには桔梗が描かれていた。桔梗がもつ誠実で気品ある印象が今の光桔を想わせる。たしか、花言葉は変わらぬ愛だったのでは。花好きの母が話していた気がする。私は光桔の温もりが残るボタンを握りしめた。旅立ちの時、光桔にかけた言葉は「元気でな」だけだった。彼女にかける言葉が見つからない。日ごろ、口から生まれように話す私が肝心な時に静まり返る。彼女は私の言葉に頷き、「源三も体に気を付けてね」と言い残し泣きながら馬車に乗り込む。動き始めた馬車を見た途端私の目や鼻からは大量の水が流れ出す。その姿を見ていた悪友二人は大笑いして別の涙を流していた。隣では、とらが寂しそうに彼女を見送っている。涙で目を開けていられない私に向かい悪友は次があるさ、と慰める。大きな入道雲が空に浮かび汗と涙と鼻水が同時に流れる私の心の中に大きな穴ができた。その穴を手の中のボタンが少しだけ埋めてくれた。
その後、私と光桔は手紙で互いの気持ちを伝えあった。自分で書いた手紙を読み返すと稚拙な文章と言葉で綴られ今更ながら情けない。知っている言葉をどんなに組み合わせても今の気持ちに当てはまらない。それでも私は手紙を送り続ける。離れ離れになって彼女への想いがより強くなったようだ。彼女からの返事が今の私の楽しみだ。別れ際に貰ったボタンは、麻の袋に入れ私のお守りとして肌身離さず持ち歩いている。今ではこの麻袋が私の身体の一部となっている。
相変わらず我が家は騒々しい。かく言う私が一番うるさいらしいが自分では分からない。茶の間では家族全員で夕飯を取っていた。一三が食べながら私に話しかける。
「彼女に振られたからといつまでもめそめそするな。今度の日曜に高麗門連の会合があるけんお前もこい」
「振られちゃおらん。ばか言うな。俺は忙しいけん会合には出らんばい」
口から米粒を飛ばしながら話す私に父は眉間にしわを寄せ私の方を向く。
「源三が一番暇だろうが。会合は絶対出ろ。それと口から米粒を飛ばすな。馬鹿者」
少し興奮気味の父の口からも米粒が飛んだ。私は何の会合かと一三に尋ねると、行けば判ると面倒くさそうに言い放たれた。
会合当日は良く晴れ渡りこの夏一番の暑さになった。会合場所は首領である植野常備の自宅である。戸や襖は全て取り除かれた家の中には二十二名が集まった。たまに吹く風も人混みを抜けきれず各自持ち合わせた扇子の音が部屋中に響く。私の隣に悪友二人も座っている。そこへ植野常備が現れ補佐役三人と並び座った。補佐役三人の内二人がわが兄である。二人の表情が硬く私は会合の中身が気になった。植野が座敷を見渡し話し始めた。
「今の世の中、文明開化に踊らされこれまで続く日本の伝統や文化は捨てられ、新しい世の中が来た錯覚に皆が陥っている。我ら士族も進むべき方向が定まらず、中岡県令や新政府に都合よく利用されておる」
室内は静まり返り植野の声だけが等々と響き渡る。隣では悪友二人が真剣な眼差しで聞いている。植野は一呼吸置き話を続けた。
「このままでは西洋かぶれの野蛮人であふれ日本人の魂は失われかねない。また、欧米諸国は日本を植民地にしようと虎視眈々と狙っている。骨抜きにされ軟弱な日本に成り下がればいずれ彼らの属国となり皇国は滅びるだろう。我々は新政府や県政に立ち向かい日本の魂を取り戻さねばならない。そのためには、かねてより密約を交わしている神風連や通丁連などの攘夷派と連携を図り、戦を起こさねばならない。なかでも神風連は一番の規模を誇り、多くの者が神職に就き神々と向き合う姿は信用するに値する。神の庇護のもと闘う戦は我々としても心強い。我ら高麗門連も世直しの戦を起こそうと思うが、みなの意見を聞きかせてくれ」
植野が一息に話し終えると集まった者達はあちらこちらで論じ始めその場が騒然となった。聖徳太子でもあるまいし、皆が一度に話す内容が判るはずもない。植野はざわつく室内を見渡しながら再び話し始めた。
「みんなの意見は解った。それでは三人の補佐役と話し合い神風連の太田黒と共闘についての協議を行う」
私は耳を疑った。ここに聖徳太子がいたのだ。私が不思議そうな顔をしていると、隣で健次郎が大きく頷いていた。何に頷いているのやら。正面に座る一三が緊張の面持ちで口を開いた。
「これから先、些細なでき事が発端となり鎮台兵といさかいが起こるやもしれぬ。各自勝手な行動は慎み何か問題があれば我々に相談するように。特に源三はあちこちでもめごとを起こすため周りの者はよく目を光らせておくこと」
その場から笑い声がこぼれる。何もこの場で言うことは無いだろうと私は思いむっとする。繁彦は同情の目で私を見、健次郎は腹を抱え大笑いしている。三人の性格はてんでバラバラである。小さい時から三人で遊び不思議と喧嘩にはならない。腰が曲がる程の爺さんになっても三人で馬鹿をやっていたい。
その後、高麗門で起きた出来事などの報告があった。会合の終わりに植野が今から戦の備えをするよう言いお開きとなった。
翌日から私は剣の稽古に没頭した。表向きはまだ見ぬ合戦に向けての備えだが、本音は光桔の事が頭から離れず気が滅入、うっぷんを晴らすためだ。父はそんな私を満足気に眺めている。稽古を終え額から大粒の汗が流れる私に父は三日坊主で終わるなよと言いながら家に入った。私は父の言いつけを守りその後も稽古を続けた。最初はからかっていた兄たちも今では一緒に稽古をする様になった。竹刀を振る音が表に漏れ、通りかかった高麗門の仲間は足を止め私達の稽古に見入っていた。その年は静かに暮れていった。
翌年明治九年三月二十八日、我らに激震が走った。明治政府より廃刀令が発布されたのだ。二月に白川県から熊本県へと改称されたばかりの城内では早速鎮台兵と士族が小競り合いを始めていた。警察官はこの件に積極的には介入せず、見て見ぬふりをしていた。なぜなら警察官の多くは武士から転身した者からなり、それに対し鎮台兵は農民出の者が多数を占めていたためだ。彼らは身内の士族に甘く鎮台兵に厳しかった。
廃刀令の発布後、多くの士族は刀を布で包み帯刀を続けあからさまに法を破る事はしなかった。一部の者はすぐに帯刀をやめた者もいた。刀を持たぬ彼は欧米諸国の捕虜となったように醜く武士の誇りは微塵も感じられない。
高麗門連内の緊張感も頂点に達していた。さっそく集められた会合では皆の意見が出しあわれた。その席では今が決起する時だとの意見が多く幹部は頭を抱えていた。幹部は神風連や各郷士団と早急に協議を行う事でその場は治まった。一方神風連の若者も太田黒や加屋などの幹部宅を訪れ「我々はいつになったら死なせてもらえるのですか」と言い寄り幹部を困らせていた。しかしいまだ宇気比で神の許しを得ず決起するに至らない。神風連は神の御意志がすべてを左右する。勿論、共に闘う我らも神のご加護が得られれば頼もしい。いずれにせよ戦の時が迫っている。
そんな折り、我が家でもちょっとした事件が起こった。一三が兄弟の写真を撮ると言い出したのだ。これに彦七郎が猛反発した。文明開化の象徴である写真を、なぜ今さら撮るのかと言い寄ったのだ。本当は魂を抜かれると思い怖気づいているのだ。そんな彦七郎の不満を聞き流すように一三は両親に兄弟の写真を残すためだと言い話しを終わらせた。私は好奇心から期待に胸を膨らませた。
撮影当日、私たちは一番お気に入りの着物で写真館へ向かった。私は紺の小袖により深い濃紺の羽織を身に着け白い袴をはいた。凛々しい私に良く似合う。四人が胸を張り堂々と通りを歩く姿はいかにも武士らしい。風はまだ冷たい。しかし久しぶりに訪れたささやかな娯楽に私たちは胸を躍らせる。
到着するといかにも写真館らしい格子模様のシャツにツバのない帽子をかぶった店主が出迎えた。彼はさっそく私たちを撮影室へ案内した。その部屋は薄暗く電球の光が撮影場所を赤々と照らしていた。そこには花の形を模った厚手の布が敷かれていた。その布は絨毯と言うらしく上に椅子が三つ置かれていた。私と彦七郎はふかふかの絨毯に足を取られながらよちよち歩く。一三と清四郎は下駄を脱ぎ素足で絨毯に上がった。私は目の前の小さな箱を眺めた。箱には黒い布がかぶせられ中央にガラスの様な光る物が付いている。店主は電球の光を私たちに向けながら黒い布の中を覗き込んだ。見慣れぬ光景にその場の空気が張り詰め、誰もが黒い箱の光るものに目を奪われる。私たちは目の前の箱に魂を吸い取られていたのだ。そんな私たちを店主は見かねて魂など吸い取られませんよと冗談交じりに言った。
撮影の準備が整い店主は私たちに向かいポーズを取って下さいと言った。「ポーズ」てなんだ。坊主は寺に居るがこの場に坊主は関係ない。その時、清四郎が腰から刀を抜き絨毯に立てるように構えた。彦七郎は両肘を少し広げ自分を大きく見せようとしている。一三は左足の袴を少し上げ逞しい足を見せていた。私は兄たちを見ながら咄嗟に両手を袴に突っ込んだ。しまった、かっこ悪い。店主は撮影中三十秒ほど動かずにいてくださいと言い添え撮影が始まった。私はまばたきもせず、息も止めていた。「終わりました」の一言で再び息を始めた。疲れがどっと押し寄せる。周りを見渡すと兄たちも同様に疲れた表情をしていた。
写真の仕上がりには数日かかるらしい。私はこっそり一枚追加した。光桔に送るためだ。どんな写真になるのか楽しみだ。光桔に出会ってからもう一年が過ぎようとしている。一緒に過ごした時間は短かったが私の人生で一番楽しい時間だった。日常の些細な出来事も一緒にいると心が弾み夢の中にいる様だった。今でも光桔の事を思い出すと当時の熱い思いが鮮やかに蘇る。彼女に再び会える日までに、もっと男気のある大人になる。
出来上がった写真を一三が持って来た。茶の間に居た私を見つけると口を尖らせ恨み言を言った。追加した写真のことが見つかった
のだ。私は平謝りしてその場をやり過ごす。写真を見て驚いた。四人とも同じ顔をしているのだ。父はさすが兄弟、よく似とるなあと感心している。私は自分の姿をまじまじと眺めた。袴に手を突っ込んだ姿は何とも頼りなく拍子抜けした。彦七郎と清四郎は写真機に目を合わせていなかった。きっと魂を吸い取られると思ったのだろう。根性なしだ。私と一三は写真機を睨みつけるように写っていた。しかし四人の中で私の表情が一番硬かった。はぁ、溜息がもれる。それでも光桔にこの写真を送ることにした。
その日の夕飯では写真の話で食卓が賑やかだった。誰が男前だのたくましいだのと兄たちは好き勝手に話しをした。挙句の果てには源三は少し魂を吸い取られていたなどと言う始末。私も負けじと彦七郎と清四郎は魂を抜かれるのが怖くて写真機に目を合わせなかったと皮肉たっぷりで言う。食卓はいつもに増して大盛り上がりだった。戦が近づいているとは思えないほど和やかな夕食だった。
翌日、光桔宛てに手紙を書き、写真も一緒に送った。手紙には写真店での出来事を書いた。兄たちは魂を抜かれると臆病風に吹かれていたが私はそんな迷信など信じずどっしり構えていた、などと書いた。しかし写真に写る私の姿はとても弱弱しかった。きっと彼女に気付かれる、そう思ったが気にしないことにした。光桔からの返事が楽しみだ。
この年の六月二十六日に熊本県に断髪令が出た。断髪令自体は明治四年八月に発布されていたが熊本県で正式に断髪令が出たのはそれから五年後だった。先の廃刀令と合わせ熊本での緊張は頂点に達した。一三は兄弟全員を座敷に集め神風連の現況を話し始めた。
「神風連の若い衆はもはや我慢の限界を超え太田黒はじめ幹部の自宅に押し掛け決起を促したようだ。太田黒はこれに応じ主だった者六、七人を天明村の新開大神宮に集め御神意を伺うため宇気比を行った。
拝殿にはすでに太田黒を始め皆が集まり、白木の台には境内から湧く清水を汲んだ土器と檜の木片二枚が添えてあった。その木片には「可」「否」の文字が別々に記してある。太田黒の長い祝詞が始まり最後にその木片を土器の中に入れ神前から退いた。太田黒は一同と共に額を床に押し付けるように深々と伏拝した。伏拝は一時間ほど続きその間拝殿は静まり返り、たまに吹く風は木の葉をゆらし葉のささやきが響いていた。やがて太田黒が立ち上がり音もなく神前に進み、柏手を打ち深々と礼拝を終え土器の中を覗き見た。土器の中では一片の木片が浮かびもう一片は沈んでいた。彼は浮かびあがった木片を取り上げその文字を見ながらうなり声を挙げた。その木片には「可」の文字が記されていたのだ。彼は振り返り一同を見渡しこの事を告げた。御神示は「可」とでた。御神明に決起を許された以上、我々は正しく神軍である。これより日本の魂や皇国を守る戦を行う。拝殿には太田黒の野太い声だけがこだました」
一三の話はその場で見て来たような鬼気迫る話しぶりで私たちは言葉が出ない。兄にそんな才能が有るとは思わなかった。
神風連での出来事は高麗門連にもすぐに伝えられ早速私たちは集められた。その席では神風連と共闘し政府と戦う事が決まった。しかし参加は強制するものではなく各自判断することとなった。また賛同者は後日改めて集まり今後の計画を話し合う事となり会合は終わった。もはや戦は避けられない。
戦が近づいていることもあり、私は剣の修練に力を注いだ。稽古中、私の隣にとらがちっとも面白くなさそうな顔で竹刀を眺めている。稽古が終わると散歩に行くため仕方なく私の隣で待っている。稽古を終え流れる汗を拭いていると、すかさずとらは立ち上がり早く散歩へ行こうとしっぽを振って催促する。私は新しい着物に着替え二人でいつもの土手に向かった。照り付ける夏の日差しの中、川の水に冷やされた風は土手に向かって吹き上げる。風は私たちの散歩を後押しするように後ろから吹いてきた。空には白く大きな入道雲が沸きたっていた。蝉の鳴き声がまだ見ぬ死闘を思わせるように耳につく。まだまだ暑い夏は続く。
四幕
今年の夏は蒸し暑かった。日中木陰でじっとしていても大粒の汗がぽたぽた落ちるほどで、いつもは食欲旺盛な私が冷たい素麺だけでお腹が膨れる。おかげでだいぶん痩せたが家族は誰一人気付かない。光桔がいれば痩せた私を心配してくれただろう。薄情な家族とは違い。とらもこの暑さに耐えきれず栗の木陰で舌をだし肩で息をしている。私も彼と並んで栗の木陰で寝転がる。ときおり吹く風が勝手口の風鈴にあたり涼し気な音色を奏でる。いつの間にか、そのやさしい音を聞きながら眠り込んでいた。
八月は補佐役の兄二人にとって忙しい毎日だった。宇気比で戦の許しが出、決起に向け神風連や各士族団と話し合が行われていたためだ。その話し合いでは熊本鎮台襲撃を主として安岡県令、鎮台司令長官の種田政明、陸軍中佐の高島茂徳などの要人暗殺も含まれていた。すでに熊本鎮台の様子を探るべく同志が鎮台に納入している商家に住み込み場内の様子を探っていた。さらに、鎮台兵の中にも同志が紛れているらしい。彼らは竹筒に火薬を詰め導火線を付けた火薬球を各営舎の床下に設置しているそうだ。戦の時、この火薬球に点火し爆発の混乱に紛れ攻め込む計画らしい。加藤清正が築城した難攻不落の城を襲撃するにはいささか無策の様に感じられるが勝負は時の運。勢いで勝るわが軍が鎮台を蹴散らすだろう。
会合ではもう一つ重要なことが決められた。戦では武士の魂である刀と槍のみで闘い、鉄砲は使わないことが決められたのだ。鉄砲の使用に関しては賛否両論あった。しかし、最後は日本の魂を取り戻す戦であるとの神風連の意向に沿う形で鉄砲は用いない事が決まった。ただし火薬を球状に模り導火線を付けた焙烙玉は使用することになった。刀と槍での戦は私にとっては望むところだ。戦に向け一歩ずつ準備は整いつつある。
九月初旬、待ちに待った光桔からの手紙が届いた。さっそく開けると手紙と一緒に写真が入っていた。そこには浴衣姿の光桔が写っていた。一年前、祭りではしゃぐ姿が可愛いかった光桔が今では大人びた眼差しで写真に写っていた。袴に手を突っ込む私とは大違いだ。綺麗だ。私はしばらくの間、写真に見とれていた。
中の手紙には自宅のある大阪で公演を行っていると書かれていた。自宅から通う生活ではあまり変化が無くつまらないと愚痴が書かれていた。私の写真は彼女の部屋に飾っているようだ。袴に手を突っ込み写ったあの写真だ。体がかっと燃える様な恥ずかしさに襲われる。しかし、光桔の写真に目を移すと心が穏やかになりみかんの甘い香りが蘇った。光桔の写真はボタンと一緒に胸の麻袋に入れ持ち歩く事にした。彼女といつも一緒にいるような気がし、淋しさも少しやわらぐ。
季節は着実に進んでいるようだ。十月に入り朝夕は冷え込みが強くなった。日中は相変わらず日差しは強く、朝晩の温度差で銀杏の葉も徐々に黄色く色づいている。決起の日取りが決まった。彦七郎から十月二十八日に決起すると知らされた。勿論秘密裏に事が進められており、かん口令が敷かれている。
光が差し込む座敷で清四郎が本を読んでいた。何を読んでいるのか気になり背表紙を覗き込むが難しい漢字が並び全く分からない。本を見る私に兄は読みたいのかと聞いてきた。私は間髪入れず興味ないと言った。私は本を読むとすぐにまぶたが重くなる。いままで眠くならない本にお目にかかったことがない。
「ところで兄ちゃんは鎮台兵との戦は怖くなかと」
「怖くないと言ったら噓になる。いままで人を切ったことも無ければ、切られたことも無い。まして死など知る由もないのでなおさら不安で怖い」
清四郎口から不安と言う言葉が出たのは意外だった。兄も不安や死の恐怖を感じていると分かり私は少しほっとした。今の私は戦の不安や恐怖に打ち勝つため、剣の鍛錬を行っていた。しかし、いざ鎮台兵との死闘を考えると底知れぬ不安や恐怖が心の中に広がる。この戦では我ら二百名足らずの人数で鎮台兵四千七百名に立ち向かう。しかも鉄砲も用いないのだ。どうしても「負け戦」が頭の中から離れない。正直、私の中でこの戦に対し立派な理念や信条など持ち合わせていない。世の中が急激に変わり不安を感じる事は有っても、それが戦に結びつかない。しかし三人の兄達と共に闘う事に何の不服もない。士族として、武士として最後は立派に死を迎えると心に決めている。
「俺も兄ちゃんと一緒の気持ちばい。今は剣の稽古で胸の中の不安を打ち消しよる」
「そうか。源三も大人になったな。しかし源三は死に急ぐことは無いぞ。お前はまだ若い」
清四郎は子供に諭すように言う。
「なんば言いよっとや。兄ちゃんと四つしか違わん」
「今の四歳は大きな差ばい。この一年で源三は恋も覚え剣の上達も目覚ましかった。なにより、周りへの気遣いが出来るようになった。この一年は今までの三年、五年に匹敵する。また、兄弟四人が一度に死ねば父や母の面倒は誰がみるとか」
清四郎は戦に出るなと言い出した。「俺も一緒に闘う」と言い放ち座敷を出た。モヤモヤとした気持ちのまま私はとらを連れ走り出した。気が付けば北岡神社の夫婦クスの前まで来ていた。階段を登りながら二本のクスを見上げた。視界には納まらない大木に圧倒され、私はその場に立ち止まった。幹はどこまでも続き頂は見えない。私はこの大木が過ごしてきた年月を思い起こした。日照りや台風などに耐え、今なお大地に根を張りこの地に生き続けている。千年の時を乗り越えた大クスと私の生きた十八年を比べると、なんだか馬鹿らしくなってきた。いつの間にか心の闇も晴れ、つい先ほどまで何を悩んでいたのかさえ忘れた。俺も三人の兄と共に闘う。そう心の中で誓い境内に向け歩きだした。拝殿では戦の必勝祈願と光桔の幸せを願った。またしてもお賽銭を忘れた。気にしない。気にしない。
十月二十四日。昼過ぎに一三が慌ただしく家に戻って来た。額からは大粒の汗が噴き出し、何事かと私たちは一三のもとに集まった。全員が集まり一三は息を切らしながら小声で言った。
「決起の日程が警察を通じ安岡県令の耳に入った。急遽、今晩決起する」
四日前倒しになったが私の心は落ち着いていた。早速、私達は戦の準備に取り掛かる。鎮台襲撃の件は両親に伝えていない。両親には今晩ウサギ狩りに山へ入ると伝えた。ウサギ狩りは夜中に行うため良い口実だ。戦の仕度と言ってもさほど時間はかからない。仕度を済ませ最後に光桔宛ての手紙を書くため座敷に向かった。先ほどから机に向かい筆を取ったが筆はいまだに止まったままだ。最後に何を書けばいいのかわからず時間だけが過ぎていった。
私は光桔との思い出を振り返った。土手をとらと一緒に転がり落ちたところから始まった。それはまるで光桔に吸い寄せられたかのようだった。三人で歩いた土手や綱渡りする彼女を心臓が破裂する思いで見上げていた劇場。二人で行った祇園祭、その夜一緒に見上げた星空や可愛い寝顔を思い出していた。私はたくさんの思い出を最後の手紙に綴ることにした。書き始めると気持ちが溢れ、筆が止まらない。最後に光桔と出会えたことに感謝し「ありがとう、幸せだった」で締め括った。書き上げた手紙を郵便箱に投函した。私は郵便箱に向かい手を合わせ無事に届きますようにと願った。
夕食後、兄弟四人はウサギ狩りの話をしていた。今晩、大きなウサギを狩るので皆気を付けろと一三が話すと、兄たちは三匹狩る、五匹狩るなどと好き勝手に話した。私も負けずに三十匹狩ると言ったら兄たちに馬鹿にされた。不機嫌な私を見て清四郎は武士の誇りを持って戦に臨めばいいと励ましてくれた。
両親が寝静まり一三は今夜の戦の全容を話してくれた。部隊は大きく三つに編成されていた。第一部隊は要人襲撃部隊となっており、五人の要人を暗殺する。熊本鎮台司令長官種田政明、参謀長陸軍中佐高島茂徳、歩兵第十三連隊長陸軍中佐左与倉知実、熊本県令安岡良亮、熊本県民会議長太田黒惟信の五名だ。敵の首を揚げ屋敷に火を放ち、それを成功の合図とする。総勢三十名の暗殺部隊はその後本陣に合流することになっている。
第二部隊は本隊となり熊本城内大砲営に当たる砲兵第六大隊を太田黒伴雄や加屋霽堅ほか七十名で襲撃する。
最後の第三部隊は我々が担う戦場である。歩兵第十三連隊を七十名で襲撃する。総勢百七十名が熊本鎮台兵四千七百名に立ち向かう。一三の話を聞きながら私は肩に力が入った。兄たちの眼もぎらぎら光り熱い思いが伝わってくる。
一三がそろそろ出掛けるかと言い放つと三人は無言で立ち上がり土間へ向かった。私の胸にはボタンと写真の入った麻袋がある。最後まで光桔と共に過ごしたい。胸に手を当て深呼吸し心を落ち着かせた。玄関先にとらの姿が見えた。いつもならとっくに寝ているのに。私は駆け寄り頭を撫でた。彼の尻尾は垂れ下がり今から始まる戦を知っているかのようだ。私の目には今にもこぼれ落ちそうな雫が溜まっていた。彼の頭を撫でながら「行って来る」と告げ、後ろ姿が見えなくなった兄たちを追った。とらの視線を背中に感じながら家を小走りで去った。
集合場所の藤崎八幡宮にはすでに百人ほどが境内に集まっていた。皆は刀や槍の手入れや最後の身支度を行っていた。私たちはあらかじめ腹巻や小手など動きやすい甲冑を藤崎八幡宮に置いていた。交代で甲冑に着替え、最後に必勝と書かれた鉢巻を頭に巻いた。兄達の姿は勇ましく、いよいよ戦が始まるのだと心が震えた。
高麗門の仲間二十二人の内十四名がこの戦に参加することになった。植野のもとに全員が集まると歩兵営舎襲撃の作戦を話し始めた。
「まずは営舎西口の門より先鋒隊の上野堅吾が討ち入り焙烙玉で各営舎に火を放つ。その際、事前に火薬庫の床下に仕掛けた火薬玉に神風連の後藤が火を着け爆破する。神風連より、後藤の警護を数人出してほしいと申し入れがあった。誰か頼める者はいないか」
植野の話に私はすぐに声を挙げた。
「俺がやる」
すかさず健次郎と繁彦も名乗りを上げた。
植野は笑みを浮かべうなずいた。
「それでは三人に頼もう。幼馴染で気心も知れていよう。この警護は歩兵営舎襲撃のカギを握る。この爆破で鎮台兵の戦意を消失させ一気に勝負に出る。失敗は許されないぞ」
私たちは互いの顔を見合わせ頷いた。
「そのほかの者は先鋒隊の上野に続き鎮台兵を撫で切りにする。いよいよ我らの出番が来た。みんな心行くまで暴れようぞ」
その場にいた者から一斉に「オウ」と言う気合の掛け声が沸き上がった。
月明りが拝殿に上がる一人の男を照らしている。男は境内に集るつわもの達を見渡し話し始めた。
「皆の衆、いよいよ出陣の時が来た。神は我々の望みをお聞き入れ下さり今日の出陣と相成った。この闘いは日本人の誇りと道義を取り戻す戦である。神も我らと共にこの戦に臨まれる。存分に闘おうぞ」
拝殿から声を挙げた男は首領の太田黒伴雄だった。甲冑姿の彼からは聡明で物静な雰囲気を感じる。しかし眼から発する力は、この戦を最後まで戦い抜く強い意思が感じられた。太田黒の出陣式を受けその場にいた者は立ち上がり「エイエイオー」と鬨の声を挙げた。境内には法螺貝の音がこだまし身が引き締まる。いざ出陣。
我ら悪友三人組の顔は強張り火付け役の後藤と共に先鋒隊のすぐ後ろにいた。歩兵営舎の入り口に到着すると門に三本の梯子が掛けられ先鋒隊が営舎の中に入った。二人の門番の内、一人は襲撃の知らせに走りもう一人は先発隊と闘っている。三対一では勝負にならず、あっという間に門番は斬られた。三人は素早く門を開け先鋒隊がなだれ込む。私たちは後藤を先頭にその流れから抜け火薬庫へ向かった。火薬庫は建物の陰になり辺りは真っ暗闇だ。先鋒隊が営舎に火薬筒を投げ込み辺りは少し明るくなった。後藤はさっそく埋めてある火薬玉を探し始めた。我ら三人は後藤に背を向け取り囲むように陣を取り彼を守った。事前に埋めた火薬玉の目印として大な石を置いていた。後藤は四つん這いになり石を探した。地を這うように動き回る後藤から「無い、石が無い」と言う小さな声が漏れる。その声を聴き私の背中に冷たい物が流れた。どうやら火薬玉を埋めた場所が分からないらしい。健次郎一人を見張りに残し私と繁彦は刀を仕舞い近くの地面を素手で掘り始めた。戦場に来て穴掘りするとは思ってもいない。とらがいたら火薬玉の場所もすぐに判っただろうと思いながら地面を掘る。私は不安を隠しながら一心に地面を掘り続けた。私たちの周りには大小さまざまな穴が出来上がった。その時後藤が火薬球を掘り当てた。私は胸をなでおろす。火薬球は油紙に包まれ、長い導火線が付いていた。後藤は導火線を伸ばしマッチに火を付け始めた。しかし気があせりマッチがすぐ折れる。悪いことは重なるもので腹巻に入れたマッチは汗で湿り火が付かない。
そんな時、三人の衛兵が私たちを見付けこちらに向かってきた。健次郎が三人に向かい「衛兵が来るぞ」と言った。その場に緊張が走り、私は立ち上がり刀を抜く。三人の兵は寝込みを襲われ慌て来たのか寝巻のままだ。健次郎の掛け声で我らは兵士に向かい駆け出す。相手との間合いをつめ私は気合と共に刀を振り下す。刀は相手が構えるサーベルに一直線に向かった。カンと言う乾いた音と共に火花が散る。鍛錬の成果か、振り下ろした刀は相手のサーベルを押し込み肩先にまで届いていた。相手はうなり声を上げ後ずさりした。すかさず二刀目を胴めがけて振る。手ごたえがあった。相手はゆっくり前のめりに倒れた。一瞬の出来事だった。私は倒れた兵を呆けたように眺めている。ぼんやりする私に繁彦が「助太刀頼む」と言ってきた。この言葉に私は我に返る。繁彦のもとに駆け寄り加勢に入った。二対一では相手に勝ち目は無く、すかさず逃げ出した。農民出の兵とはこんなものか思いながら私はあとを追いかけ袈裟懸けに刀を振るった。相手はうめき声をあげその場に崩れ落ちた。私は繁彦のもとに駆け寄り声を掛けた。繁彦の身体は石の様に固まり目は血走っていた。私たちが真剣相手に立ち合うのは初めてだった。彼の気持ちはよくわかる。私の場合、日々の鍛錬で体が勝手に動いただけだ。彼は私にすまないと言い、私達は健次郎の闘っている方に目を移した。健次郎の側で兵士が倒れており、彼は肩で息をしていた。私たちは刀を鞘に納め後藤のいる所まで駆け戻った。
後藤は今にも泣きだしそうな顔でマッチを擦っている。後藤の周りには折れたマッチ棒が散乱している。みんなの顔色にも焦りが見え始めた。私は後藤からマッチを取り上げ力任せに擦った。マッチはボキと音を立て真っ二つに折れた。残りのマッチは少ない。私は深呼吸して次のマッチに手を伸ばした。息を止めながらマッチを擦る。すると先端からボッと言う音と共に黄色い炎が現れた。炎は周りにいる三人の顔を照らした。そこには笑顔が浮かびあがっていた。私はゆっくり導火線に火を点けた。導火線からは白い煙が上がり煙は火薬玉に一直線に向かい始めた。健次郎の「行くぞ」と言う声と共に四人はその場から駆け出した。五十メートルほど離れた建物の陰で四人は息を殺し見守った。ドンと大きな音と共に爆風が私たちの所まで届く。炎が瞬く間に建物を呑み込み中では数回大きな爆発が起こった。私たちは互い顔を見合わせ、今日一番の笑顔でその景色を眺めていた。
その後、私たちは第三部隊に合流した。先ほどまで薄暗かった歩兵営が今では昼間の明るさを取り戻すほど炎に照らされている。町に目を移すと数か所で火の手が上がっている。どうやら要人暗殺部隊も成功を修めているようだ。わが兵は営舎から出て来る寝ぼけ眼の鎮台兵を次々と切り倒している。兵は逃げまどい戦になっていない。どうやら戦況は我々に有利なようだ。反乱を聞き、駆け付けた将校たちは声を張り上げ逃げ惑う兵をまとめ立て直しを計るが未だ混乱している。私は無心で目の前の相手と闘っていた。サーベルを振り回す相手に負ける気がしない。片手で振り回すサーベルと腰を据え両手で切り込む刀の威力は比べ物にならない。私の刀は風を切り大暴れしていた。
開戦から二時間が過ぎ、私の身体に疲れが見え始めた。刀を握る手がしびれ思う様に刀が振れない。次から次に現れる兵を相手に、ついに体力の限界が近づいていた。数に勝る鎮台兵に押し返され、形成は逆転し始めた。そんな時、後ろから一三の声が聞こえた。一三も無事らしい。少しほっとした私は一三の声に耳を傾けた。
「太田黒と加屋が殺られた」
兄の言葉に私の身体は一段と重くなってきた。さらに鉄砲隊が陣を整え私たちに向け一斉に火を放った。鉄砲隊の攻撃に私たちはなすすべも無い。一人、また一人と仲間が倒れ始めた。私たちは鎮台兵に押され少しずつ陣が下がり始めた。その時、どこからか藤崎八幡まで陣を引けと叫ぶ声が聞こえて来た。目の届く所に清四郎や健次郎、繁彦が刀を振るっていた。私は清四郎の助太刀に入り衛兵を倒すと清四郎は藤崎宮まで引くぞと言い放ち戻り始めた。私は健次郎と繁彦へこの事を大声で伝えた。二人はオウと言うと私達のところへ向かい駆け出した。二人が闘っていた相手が追って来ると思い、私は刀を正眼に構え相手を威嚇した。しかし相手は追ってはこなかった。私たちは燃え盛る歩兵営を後にした。足取りが重い四人は藤崎宮へ駆け出しだ。
藤崎八幡宮の境内では戦い終えた者がけがの手当てを行っていた。鎮台兵が追って来る気配は無い。今なお燃え続ける営舎の後始末をしているのだろう。私たち四人は目立った怪我はなく疲れ果てその場に座り込んでいた。先ほどまでの薄雲も晴れ空にぽっかり月が浮かんでいる。月は光桔と一緒に見た物と同じとは思えないほど、しんしんと寂しさが増す様に見える。
境内に負傷者のうめき声が広がる。かすかに聞こえる鈴虫の声、私たちの心の傷を慰めるように鳴いている。終わった。我々は敗れたのだ。戦は三時間で終わりを迎えた。ここにいる者達からは数時間前の勇壮な姿は消え去り、魂が抜け落ちたように憔悴しきっていた。
残った幹部で善後策が話し合われていた。しかし太田黒、加屋という二つの柱を無くした今、話しもなかなかまとまらない。そこに一三と彦七郎がいた。兄弟四人無事のようだ。
夜明けが迫り本格的な残党狩りが始まることから、金峰山まで兵を引くことになった。私たちは重い足取りで金峰山を目指し歩き始めた。途中、清四郎と私は家に戻り両親に最後の挨拶をすることにした。
家に戻った私たちは土間に座り込んだ。反乱の騒動で家の明かりが付いている。座敷から父が現れ「どうなっている」と怒鳴られた。いっぽう母は、水がめの水を私たちに渡すと鎧を脱ぐ手伝いを始めた。夜明け前の水は冷たく美味しかった。清四郎は戦の成り行きを父に話した。話を聞き終えた父は何も言わず奥の座敷に向かった。家に戻り私は少し落ち着きを取り戻した。新しい着物に着替えると清四郎が父上に最後の挨拶をするぞと言いながら座敷に向かった。私も後に続く。襖を開けると正面に父が座り目を閉じ瞑想していた。眉間にしわを寄せる父の姿は恐ろしい。私たちは父の前に進み頭を下げると辺りは静寂に包まれた。父は今もなお目を閉じたままだ。清四郎は頭を下げたまま話し始めた。
「この度はこの国の道義と皇国を護る戦とは言え父上に何の相談もせず参戦いたしましたこと誠に申し訳ございません。その戦にも敗れおめおめと戻った次第です」
目を開いた父は、目尻が吊り上がり鬼の形相になっている。
「己の信じる道を進むことに誰の断りもいるまい。ただ自分で決めた道は最後まで歩み通せ。縄目を受けるは武門の恥ぞ。今後この家の敷居は二度と跨ぐな」
父はそう言い残すと立ち上がり部屋を出ていった。私たちは頭を下げたまま立ち去る父の足音を聞いた。辺りはしだいに明るくなり日差しが部屋の中まで届いている。いつも通りの朝が始まろうとしていた。しかし私にとっては特別な朝である。横目で兄を見ると彼の頬に涙のしずくが落ちていた。私は兄に声をかけぬまま立ち上がり襖に手を掛けた。そこには母が声を殺し泣き崩れていた。私は母に向かい「すみません」と一言いい残し土間へ向かった。母は通り過ぎる私に向かい一三と彦七郎の着替えを用意すると言って仏間に消えていった。私は草鞋を履きとらのもとに向かった。
私を見ると犬小屋から駆け出ししっぽを振って出迎えた。とらを撫でていると胸が熱くなり涙が目に溜まる。最初の涙がこぼれ落ちるとあとは雨のようにぽろぽろと落ちて来た。父へのいとま乞いの際には涙は出なかったのに、とらとの別れはつらい。彼も私の胸の内に気付いたのか、しっぽを降ろしクゥンクゥンと寂しそうに鳴き始めた。その様子が私の心に刺さり大粒の涙に変えた。私の涙は地面に大きなシミを作っていた。いつの間にか私の後ろに清四郎が立っていた。清四郎の手には一三と彦七郎へ渡す着物がある。兄は「もう行くぞ」と私に言う。私の耳には何も聞こえない。どれくらい時間が経ったのだろうか、兄は突然私の後ろ襟をつかみ門に向かって引きずり始めた。引きずられる私は最後にとらの姿を目に焼き付けた。門を出て彼の姿も見えなくなると兄は掴んでいた手を離した。私も諦め立ち上がると兄の後を追った。兄に追いつき顔を見上げると兄は声を上げずに泣いていた。私たちの後ろからは悲しげなとらの鳴き声が響いていた。
私たちは後れを取り戻すため金峰山に向け歩みを速めた。山道には紫色の桔梗が私たちを道案内するかのように転々と咲いている。朝日を受けた桔梗は紫をより高貴な色に造り上げていた。
金峰山の山頂にはすでに多くの者が集まっていた。そこで戦の全容を聞いた。暗殺部隊は五部隊ともに襲撃に成功し、その場で暗殺できなかった者にも致命傷となる傷を負わせていた。首領の太田黒伴雄は銃弾が胸を貫き倒れかけた所を吉岡軍四郎に抱きとめられ法華坂の民家で切腹したそうだ。第二、第三部隊は不意を突いた初めこそ優勢に闘っていたが時間が経つにつれ鎮台兵が立て直されると状況は一変不利となった。皇国を守る戦とは言え刀や槍のみで鉄砲にかなうはずもない。されど我らは最後まで勇ましく闘い抜いた。きっと後の世に我々の意志は引き継がれると私は信じている。
山頂では再び善後策が話し合われているがなかなか結論が出ないようだ。ここで一三と彦七郎に会った。二人に家での事を話すと少し寂しそうな顔をした。母に預かった着物を渡すと早速着替えていた。私は昨夜の疲れが体を襲い日の当たる草むらに横になって眠っていた。
結論がやっと出た。再び熊本鎮台へ攻め込み命尽きるまで戦う事となった。ただし二十歳以下の者を死なすには忍びないとの声で、その者たちは家に戻す事になった。私は今朝、家の敷居を跨ぐなと言われたばかりだ。家には戻れない。悪友二人も家には戻らないと言い張っている。盾突く私たちに清四郎と繁彦の兄群喜は頭を痛め、いったん山麓にある谷尾崎三王社まで五人で降ることにした。
日が暮れて辺りが暗くなり私たちは山を降り始めた。途中、残党狩りを見かけたが山の中に隠れ捕まることは無かった。月明りが私たちを神社へ導いた。月が真上に上がる頃、山王神社に到着した。拝殿に上がり交代で見張りを行い寝ることになった。私の疲れは頂点に達していたが眠れない。今後の不安がのしかかり目が冴える。健次郎だけがいびきを立てて寝ている。彼を羨ましく思いながら私も知らぬ間に眠っていた。
朝日が鳥居の中から顔を出し拝殿まで一直線に伸びていた。朝日に起こされたのは初めてだった。肌寒いが清々しい朝だ。健次郎はすでに起き私に向かいお前のいびきがうるさくて眠れんかったと言った。お前が一番に寝たくせ、よく言うよと私は独りごちた。
清四郎が近くの家から握り飯を貰ってきた。このあたりに友達がいるらしく朝一番に頼み作ってもらったらしい。私はおにぎりを見ると急にお腹が空いて来た。白い握り飯がうまい。清四郎が握り飯を食べながら友達から聞いた町の様子を話し始めた。歩兵営舎や大砲営舎では焼失した建物の後片づけやけが人の手当てなどが行われ、熊本県は鎮台の守りを固めるため政府に応援要請を行い広島から応援部隊が向かっているらしい。また、鎮台兵による残党狩りが始まっており友達も心配していた。ここもいずれ見つかるだろう。私たちは今後の事を話し合ったが何も決まらずまた夜を迎えた。今夜も交代で見張りを置き寝ることになった。
明け方、見張りの時間となり私は鳥居の下で座り込んだ。この神社は山のふもとに建てられ境内に上がる急な階段が百段ほど眼下に見える。月も沈み辺りは真っ暗闇だ。星が空一面を覆いこれほど多くの星を見るのは光桔と一緒に見たとき以来だ。夜明けまであと一時間ほどだろうか。下から吹き上げる風が冷たく膝を抱え小さく丸まり風をしのいだ。ふと眼下に複数の灯りが動いていた。こんな時間に誰が起きているのか。もしかして鎮台兵による残党狩りか。そう思い灯りのする方を目を凝らして見る。灯りはぼんやり辺りを照らすだけでよく見えない。少しずつこちらに向かっているようだ。私は階段の中ほどまで降りまじまじと見つめた。灯りの周りに鎮台兵の制服が見えた。残党狩りが迫ってきたのだ。私はきびすをかえし境内に向け駆け出した。一気に駆け上がり息があがりながら叫んだ。
「残党狩りが迫っているぞ」
その場に緊張が走る。「どうする」と言う繁彦の声に健次郎がしばらく間を置き答える。
「敵に切り込み最後の意地を見せようぞ。武士の魂を見せる時ぞ」
健次郎の言葉に清四郎以外の者は立ち上がり「最後に一花咲かせるぞ」などと威勢のいい声を上げていた。興奮する私たちとは対照的に清四郎はいまだに座ったまま目を閉じている。それを見かねた兼松群喜が清四郎に声を掛けた。全員の眼が清四郎に集まりその場が静まり返る。清四郎は目を開けみんなを見定め口元が動き始めた。
「みんな聞いてくれ。これ以上無益な戦はするまい。衛兵にも家族がいる。賊兵といえどもその家族に何の罪もない。我らはすでに戦に敗れたのだ。最後は潔く切腹し武士の誇りを示そう」
清四郎の言葉に誰もが口を閉じた。長い沈黙を群喜が破る。
「切腹するぞ」
群喜の一言にその場に立っていた者たちは力が抜け尻もちを着く。二十四歳とは言え年長者の言葉に私たちは無言と言う言葉で返事をした。力なく座り込む私たちと入れ替わり清四郎は立ち上がり「俺が鎮台兵に話をつける」と言うと拝殿を降り暗闇に消えていった。この場を沈黙が支配する。その沈黙を破るべく清四郎が戻って来た。辺りに鎮台兵の気配がする。清四郎は息を整え話し始めた。
「鎮台兵は我らの最後を見届けると言ってくれた。また境内には誰一人入らないと約束した。この戦で我々は神と共に闘って来た。敗れはしたが我らは皇国の礎になった。最後は神の御前で切腹することになりこれ以上の死に場所は無い。死をもって歴史に生きた証を刻もうぞ」
普段、口数の少ない清四郎の言葉が私たちの心に響く。皆立ち上がりお互いの顔見合わせた。どの顔からも不安の色は消え、笑みさえこぼれている。
辞世の句を書き終え、私たちは鳥居に向かい横一列に腰を下ろした。年下の私は一番左に座っている。境内の外側で二十人ほどの衛兵が私たちを見ていた。その中には鉄砲を持っている者もいた。もし私たちがあのまま切り込んだとしても鉄砲の餌食となり犬死していただろう。夜明けが迫り阿蘇の山々が銀色に染まり星が一つ、また一つと消えていく。私たちは辞世の句を正面に置き準備が整いみんなの動きが止まった。私はつい先ほどまで死の影に怖れていた。しかし今はその影も鳴りを潜めなぜか心穏やかだ。境内はしだいに明るくなり始めた。今まで気づかなかったが周りには紫色の桔梗が咲いている。死を目前に控え今までの思い出が蘇る。厳しさの中にも愛情を注いでくれた父。父とは対照的にすべてを包み込む優しい母。私の自慢の四人の兄達。最後まで一緒に過ごせた悪友二人。私の成長をいつも近くで見てくれたとら。私に愛を教えてくれた光桔。私の人生は本当に幸せだった。最後に心に浮かんだのはみんなへの感謝の気持ちだった。ありがとう父上、母上。ありがとう兄貴や親友たち。ありがとう光桔。ありがとう、とら。
生れてきてよかった。
私は短刀を腹に突き刺し横一文字に切り裂いた。不思議と痛みは感じない。鳥居の先に阿蘇山が見え太陽が顔を出し始めた。境内に白銀の光が集まりまるで舞台の主役に当る照明の様だ。天空より降り注ぐ白銀の光に私の身体は包まれた。温かい。今度生まれ変わる時も両親や兄達、悪友二人と同じ時代に生れてきたい。もちろん今度こそ光桔と結ばれ、とらは私たちの子供として生まれて来て欲しい。そんな日がきっと来る。
かねてより思ひこみにし真心のへふは操の立つそうれしき 小篠源三
終幕
我が家に四つの遺体が運び込まれた。清四郎と源三を運んだ鎮台兵は二人が立派に武士の最後を遂げたと伝えてくれた。私の言葉を守った四人を誇りに思う。しかし息子たちに向けた最後の言葉が今も胸に突き刺さっている。反乱の汚名をきせられた息子たちは小篠家の墓に入れられず本妙寺にある雲晴院に埋葬をお願いした。四つ並んだ小さな墓石が息子たちの生きた証となった。
埋葬を済ませた頃から、とらは食事に手を付けなくなった。私は彼に向かい「亡くなった者はもう戻らない」と自分に言い聞かせるように話した。しかし彼は一向に食事をしない。痩せていく彼を見かね、私は四人が眠る雲晴院まで散歩に連れ出した。井芹川沿いを二人で歩いていると不思議なことに四人の息子たちの気配を感じた。私は六人での散歩を楽しんだ。墓地に着くととらは知っていたかのように四つ並んだ小さな墓石に向かう。その墓石に寄り添うように座り込んだ。その姿は恋人に出会えたように満ち足りた様子だった。私はしばらくその様子を静かに眺めていた。騒がしかった日々が遠い昔に感じられる。今では妻と彼の三人暮らしだ。私の心に冷たい風が吹き抜けた。帰り支度を終え手綱を引くがその場から動かない。彼の気持ちも良くわかる。私は仕方なく墓に置いて帰ることにした。ここは我が家からも離れておらず、後から戻って来るだろうと思い首の縄は外し戻った。
暗くなっても戻らないとらを私は迎えに行くことにした。しかし先ほどの寂しそうな姿を思い出し私の足は止まった。一晩くらいみんなと一緒に過ごさせよう。
翌日、私は日の出と共にとらを迎えに家を出た。冬の足音がすぐそこに聞こえる中、今朝は特に冷え込んだ。口からでる白い息が寒さを助長する。彼は大丈夫だろうか。私は心配になり歩みを早めた。雲晴院に着いた私は息を上げ息子たちの眠る墓に向かった。すると、とらが源三の墓に寄り添うように倒れていた。私は駆け寄り彼を摩りながら声を掛けた。しかし、既に身体は冷たくなり口元には血が固まっていた。彼は自分で舌を噛み切り死んでいたのだ。主人を追う様に自害したとら。私はまた家族を失った。体の力が抜けその場に座り込む。あふれ出る涙は頬を伝いとらの上に落ちていく。自分で舌を噛み切るなんて、さぞかし痛かったであろう。しかし彼の顔には微笑みが浮かび穏やかな表情をしていた。私は源三の墓に寄り添い死んだとらをうらやましく思った。
朝日が二人を包むように照らしている。その隣で夜露に濡れた桔梗が一輪咲いている。紫が目に鮮やかな桔梗はまるでとらと源三の再会を喜ぶように花びらに雫をためていた。
急激に進む西洋化に政府は骨抜きにされ、近い将来欧米の属国となる事を危惧し息子たちは戦を起こした。この国の将来を見据えた戦だったのだ。そうでなければ数に勝る熊本鎮台相手に闘いを臨まない。国の未来に命をささげた多くの若者たちを私たちは忘れてはいけない。
大正十三年二月、太田黒伴雄と加屋霽堅に正五位が贈られ、神風連の乱は神風連の変へと名前を変えた。戦から四十八年が過ぎていた。
幕