第一話 絶命
人生とは儚いものである。
例え、どんなに賢い学者であろうと死から逃れる知識はなく、優れた名医であっても死を治すことは叶わない。
早い遅い、満足のいくものか否か、その詳細は千差万別であろうがそれでも尚、死とは唯一、全人類に平等に与えられる生の終着点である。
生きながらにして死神、邪神、破壊神、などと恐れ、崇められた生涯不敗の武術家にもそれは平等に迫っていた。
「我もここまでかいのぅ」
横たわるまだ温かい死体に腰を掛け、そうつぶやくのは最強と謳われ、生きる伝説となっている武術家その人である。
彼は戦時中、武器を持たない無手を貫き、数多の敵を屠ってきた。その戦果は挙げるときりがなく、わかっているだけでも一個師団に相当するとも言われている。
戦後、彼は世界中を旅し、裏表問わず各国の名だたる武術家と死合いを行い、その技を磨き歩いた。
その姿はまさに狂気に染まり、数多の死合いの中で彼は畏怖され、その圧倒的な強さは神に例えられた。
そんな彼はつい先程の死合いが、生涯最後の死合いになると直感していた。それは本能か、はたまた数多の命を奪い、誰よりも死の近くにいたからか。
「結局、最後まで我を超える武術家は現れんかったか。カッカッカ。それもまたよい。憂うべくは、この技々を後世に伝えられなかったことかのぅ」
武術家とは、己の技を磨くだけではなく、弟子を取り、それを後世に伝えることも大きな使命である。
彼は後世のために技を伝える、などと考える殊勝な人間ではない。ただ、己が磨き、創り上げた技術が絶えるのが我慢ならないだけである。無論、過去に幾人も弟子に取った人間はいた。しかし、誰も彼の修行に耐えられるものは居なかった。それもそのはず、修行という名のそれは、地獄に跋扈する悪鬼羅刹すら裸足で逃げ出すのではないかと思うようなものであったのだから。
「……まぁこれで一つの夢がかなうわい。さて、夢にまで見た地獄の閻魔様は……どれほどに強い……かのぅ。楽し……み…………じゃわい……………………のぅ…………………………………………」
無敵の強さを誇っていた男は、最後の死合いの後、静かに息を引き取った。老衰である。
男が次に目を覚ました時、そこには何もなかった。ただ広く広がる真っ白な世界。距離感も分からなくなり、地平線などの境界らしいものもなにも認識できない。
「……はて? ここが地獄かいのぅ」
辺りを見渡すも本当に何も認識できない。試しに少しあたりに手を伸ばし探ってみたり、駆けてみたりとしてみるものの、自分が進んでいるのかどうかももはや分からなかった。
「ふむ。本当に何もないようじゃな。さて、どうしたものか」
何もないこの空間が地獄というのであれば、それは、確かに地獄には違いないであろう。何も刺激のない空間で永久に近い時間を過ごすなど、考えただけでも発狂ものなのだから。
「どうもこうもしないわ。貴方は地獄に落ちるのよ」
「カッカッカ。我が背後を取られたのに気が付くことさえできないとは。もしやお主が閻魔様かいのぅ?」
振り返るとそこにいたのは少女であった。白いワンピースに身を包み、背中に見えるそれは、閻魔様には似つかわしくない天使のような翼が輝いている。
「閻魔様は最終決定者。その者の行き先が極楽浄土かはたまた地獄か、最後まで決定しなかった場合にのみ、審判を下す。貴方は第一層で満場一致で行き先が決定した。閻魔様には会えないわ」
「そうかそうか。まさか本当に存在するとは。にもかかわらず会うこともできんのか、想定しておらんかったわい」
どうしたものかと少し考えこむも、すぐに何か思いついた様な怪しげな笑みを浮かべた。
「お主を殺せば出てくるかいのぅ」
少女に向けられたのは怪しげな笑みだけではない。武術に疎い一般人でも感じ取れる、否。感じ取る前に意識を鼓動を失ってしまうほどの濃縮された殺気が向けられる。
それでもなお、あくまで威嚇として手加減のされたそれは、少女の表情を動かすには至らなかった。
「無駄、私を殺しても何も変わらない。私はただのメッセンジャーで案内人なのだから」
期待するような一切の反応を示さない少女に毒気を抜かれ、男は殺気を霧散させた。
「なんじゃ、つまらん。で、めっせんじゃーとやらは何を伝えてくれるんかいのぅ」
無表情のまま、少女は淡々と言葉を発する。
「今から貴方を地獄に落とす。伝えるのはそれだけ」
「カッカッカ。つまらんつまらん!」
少女の言葉に男は高笑いをした。わざわざ姿を現し伝えることがそれだけとは、ならば何故姿を現したのか。それがここのルールなのかもしれないという事は何となく感づいているが、そんなものはどうでもよかった。
折角人外の、神か天使か、人知の外にいる何かが目の前にいるのだ。少しでも楽しまないなら損ではないか。そう考えるのがこの男である。
「気が変わった。そうら! 行くぞ!」
自然体から繰り出される何のひねりもない拳。無造作にも見えるそれは、ただの人体であればそれを豆腐のように貫き、どこに当たろうが致命傷となる必殺の威力を持つ拳である。
少しでも眼前の者を楽しむ為、威力、速度共に落とし、様子見のつもりで打ち込んだその拳は、それでも少女の頭を消し飛ばすには十分すぎた。
「なんと! この程度でも死んでしまうとは」
頭部を失った首からは噴水のように血が噴き出し、体は力なく崩れ落ちた。その血は真っ白な世界に唯一、色を付けながら広がってゆく。
「しもうたわいのぅ……まさか人外の者がここまで弱いとは思わなんだわい。こ奴がおらずとも地獄には行けるじゃろうか」
少女を殺めたというのに、彼の頭の中には戦うことしかなかった。
案内人と名乗る者の命を奪ったのだ、果たして自分は無事に地獄へたどり着けるのか。閻魔様ほどではないにしろ、悪鬼羅刹の蔓延るであろう地獄をそれはもう楽しみにしていたのだ。
もし地獄に行けず、こんな場所で戦うこともできず永久を過ごすことになれば、それは彼にとって本当の意味で地獄になるだろう。彼はそれを心配していた。
「想像以上に武術的狂気に取りつかれているのね。可哀想に」
「はて? まだ居たんかいのぅ」
声のする方には先ほどとは違う、天使のような少女が宙に浮かんでいた。その少女は、首のない死体を見て、大きなため息をつく。どうやら先ほどの少女よりは表情豊かなようだ。
「あなたは本当に救いがないわね。唯の地獄なんて生温いわ。その性根、魂を鍛えなおしてあげる」
「ほう! この我を鍛える? 良いぞ良いぞ! 鍛えてもらうかいのう」
最強を自負するこの男にとって、自分を鍛えるなどという少女の言葉は冗談にしか聞こえなかった。故の高笑い、まさに傲慢そのものであった。
「今からあなたが行くのは所謂異世界。そこは魔法の存在する世界。人々は魔法、スキルその他あなたのいた世界にはなかった力を持っているわ。もちろんあなたには何も与えない。己の慢心、傲慢を無力さとともに噛み締めなさい」
少女の言葉の持つ意味とは裏腹に、男は楽しそうに笑っていた。
これから待つ己の運命が、かつて自分が戦ったことのない強者との戦いを予見させるのだから。
「愉快愉快。未知の強さを持つまだ見ぬ相手か。楽しみじゃわい」
「そんなことを言っていられるのも今のうち。己の無力を思い知り、その魂に敗北を刻み、魂に染み付いたその業を洗い流しなさい」
そんな言葉もこの男には一切響かないようである。
「カッカッカ。どうでもよいわい。強者と死合えるのならのぅ」
「ならさっさと行ってもらいましょう。さて、あなたは魔法使いに殺されるのかしら? それとも魔物? なんならドラゴンに丸呑みでもされてみる? 長い年月をかけて生きながら消化されるのは正に地獄よ。あなたが苦しむ様をこの目で見れないのが残念だわ」
いたずらっぽく笑う少女の言葉に嘘はない。少女はこの男を心底嫌っていた。本来、人類にさほど興味もなく、数々の人間を淡々と裁く彼女たちは、本来人間に関心を向けることはない。だが裁く前に見た彼の生前データは、どんな独裁者の非道な行為もかわいく見えるほどであった。
過去に起こしてきた悪逆非道、己の欲望のための残虐な殺戮。どんな形であれ微塵も好意を寄せる理由などないのだから。
「つまらんことをぐちぐちと。いいから早う地獄へ落としてくれ」
少女はゆっくりと右手を上げ、何かに合図を送るようなしぐさをする。それに合わせ、男の立つ床が淡い青い光を放ちだした。
「言われなくても堕とすわよ。精々苦しみなさい」
「カッカッカ。言われずとも楽しんでくるわいの――」
その言葉を最後に、男は白い空間から姿を消した。男はこれから異世界に転生し、新たな生を歩むのだ。魔法やスキルの存在する世界で、その身一つで。