シティ・ラブ
──久しぶりに会った彼女は、王都の酒場で酔客の膝に座り艶笑を浮かべていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「すまない、ファイーナ。君との婚約を解消したい。私は真実の愛を見つけたんだ」
卒業も近いある日、学園の中庭で私が言うと、ファイーナは悲しげにまつ毛を落とした。
「王太子ヨシフ殿下。私と結婚して、その方を愛妾にするのではいけないのでしょうか?」
「スクウカを愚弄しないで欲しい。彼女はそんな扱いを受けていい女性ではない」
公爵令嬢のファイーナとは、幼いころから婚約を結んでいた。
嫌いだったわけではない。
むしろ好きだった。大切な幼なじみで親友だった。一緒に王宮で教育を受けて、ひとつ年下の弟セルゲイと三人でこの国の未来を語り合った。彼女となら、素晴らしい国を築いていけると思っていた。
だが、貴族の子女と裕福な平民の通う学園で、私はスクウカと出会ってしまった。
今、私の隣に立っている彼女は裕福な商家の娘で優秀な成績を修めていた。
平民ならではの視点と闊達な性格、美しいがゆえに冷たく見えてしまうファイーナとは違う愛嬌のある可愛さ──私はスクウカに夢中になった。彼女も私を愛してくれた。
「誤解しないでください、ファイーナ様。アタシ、ヨシフが王太子だから好きになったんじゃありません。王太子妃になりたいわけじゃないんです。ヨシフがいれば、ほかになにもいりません。アタシはヨシフとふたりで生きていきたいだけなんです。そのためなら、どんな苦労も受け止めます」
「スクウカ……」
愛する人と見つめ合った後、私はファイーナに視線を戻した。
私達の真実の愛に打たれたのか、彼女は諦めたような表情をしている。
「王太子の座は辞すよ。王族籍も返上する。この学園を卒業したらスクウカとふたり、平民として生きていこうと思う」
「ヨシフ……」
スクウカがそっと寄り添って来たので、私は彼女を抱く手に力を込めた。
「ファイーナ、本当にすまない。だが、私はどうしても……」
「何度も謝らないでくださいな、殿下」
ファイーナは寂しげな微笑みを浮かべて、婚約解消を受け入れてくれた。
そして学園卒業後、私は言葉通り王族籍を返上して平民になった。スクウカも家族と縁を切って私について来てくれた。
王家の血をばら撒いてはいけないと私は子どもが出来なくなる処置をされたが、スクウカとふたりなら子どものいない人生でも楽しく幸せに過ごせることだろう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「スクウカ!」
私が叫ぶと、酔客の膝の上にいた彼女は憎々しげな表情になった。
平民になった私に金食い虫の馬は飼えなかった。スクウカが村を出たことは極秘事項だ。馬車を雇う金をだれかに用意してもらうわけにもいかない。
宿にも泊まらず街道を徒歩で来たので、数か月ぶりの妻との再会になる。
「どうしてここに?」
「君を迎えに来たんだ! 私達はもう二度と王都へは入らないと誓ったことを忘れたのか?」
「……」
拗ねたような顔のスクウカは問いに応えない。
私の言葉を聞いて、スクウカを取り巻いていた酔客たちが距離を取る。
顔を見合わせて、罪人だったのか? と囁き合うのが聞こえた。
「さあ、帰ろう」
私は彼女の手首をつかんで無理矢理立たせた。
スクウカを膝に座らせていた酔客は彼女を引き留めなかった。
この酒場の主人はスクウカの実家の商家との関係が深い。最初からすべて知っていたに違いない。カウンターの向こうで困惑した表情を浮かべているものの、酒場の入口へと彼女を引きずっていく私を止める様子はない。
酒場の入り口でスクウカは足を止めた。
体に力を入れて、それ以上動こうとしない。
「……嫌よ」
「スクウカ」
「もうあんな田舎は嫌なのよ! アタシ、生まれも育ちも王都なのよ? 牛ふん臭い農村で土に塗れて暮らすなんて真っ平よ!」
農村出身らしき酔客が何名か、スクウカの言葉に不快そうな表情を浮かべた。
そんな暮らしが嫌で王都に来たのだろうに、王都育ちに莫迦にされるのは気に食わないようだ。
あるいは農家の次男か三男で、家も畑も継げずに追い出されたのかもしれない。
私とスクウカは、王領の小さな村に家と畑をもらった。
婚約を解消して王家と公爵家の顔に泥を塗ったふたりに与えるにしては破格の扱いだ。
理由はわかっている。世間知らずな私達が行き場を見つけられず、反王家の派閥貴族に利用されるのを防ぐためだ。私に子どもが出来なくなる処置をされていると言っても、学園時代に出来ていたと、私かスクウカに似たほど良い年齢の子どもを連れて来ればいくらでも利用出来る。
最初はスクウカも田舎暮らしを楽しんでいたように思う。
しかし彼女は少しずつ不満を口に出すようになった。
スクウカが一番嫌がっていたのは、田舎の時間の緩やかさだった。生き馬の目を抜くような王都と違って刺激もなく、変化も少ない。つまらない、退屈だ、が口癖になったころ、彼女は村から逃げ出した。私は、事情を知る村長に口止めをして彼女を追った。
「私とふたりで生きていくためなら、どんな苦労も受け止めると言ってくれたじゃないか」
「言ったわ。言ったけど……」
「私達はとても恵まれていると思うよ?」
「それはわかってるわ。家も広いし畑もあるし、村の人が小麦や卵をわけてくれるし……でも、馴染めないのよ。アタシは土と牛ふんの匂いがする静かな田舎より、ゴミと吐しゃ物の匂いがする喧しい都会のほうが好きなのよ!」
学園在学中に、一度ふたりで田舎に行っていれば良かったのだろうか。
いや、駄目だ。数時間や数日の田舎暮らしは娯楽でしかない。向いているか向いていないか、本当にわかるには時間がかかる。
真実の愛で結ばれた私と田舎で静かに堅実に暮らすより、都会で男達に媚びを売って酒を飲む暮らしのほうが向いていたなんて、スクウカ自身も今まで気づいていなかっただろう。しかし私達のような状況の人間は、人の目が多く情報が交差する都会では暮らせない。いっそ刺激だけはある悪意蠢く王宮で愛妾をしていたほうが彼女は幸せだったのかもしれない。
村人はみんな私達に優しかった。
訳ありの駆け落ち夫婦だと思われていたし、村長は事実を知って力を貸してくれていた。
陰口を叩かれることも田舎の集まりから排除されることもなかった。腫れ物に触るような優しさが嫌だったのかもしれないが、そこまではどうしようもない。
「村になんか帰らないわ! アタシのお腹には赤ちゃんがいるの! アナトリーの子よ!」
「へ?」
スクウカが叫び、さっきまで彼女を膝に抱いていた男が間抜けな声を漏らした。
先ほどスクウカの発言に不快そうな顔をしていた酔客の雰囲気が変わった。
どうやらただの酔客ではなく、スクウカを監視していた密偵らしい。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……ごめんなさい。無理矢理連れ戻してもまた逃げ出すと思って、あなたが迎えに来るのを待っていたのですが……」
私は王家が持つ別邸でファイーナと再会した。
彼女はもう公爵令嬢ではない。
私の弟、ひとつ年下の第二王子セルゲイと結婚して王太子妃となっていた。第二王子のセルゲイは私になにかあったときに備えて、婚約者を決めていなかったのだ。第一王子の私ヨシフは王宮の離れで療養中ということになっている。真実の愛に目覚めて平民になったなどと触れ回れるはずがない。
「いや、スクウカは実家にも監視されていた。泊まっている部屋に連れ込めば気づかれるからと、用事をしている振りをして酒場の裏に行って短い時間で……だから、密偵が気づかなかったのも仕方がない。それより、体は大丈夫なのか?」
ファイーナのお腹は丸く膨らんでいた。セルゲイの子だ。
「大丈夫ですわ、子どものころと変わらず心配性ですね。ちょうど出産の前に王都の公爵邸へ戻っていたところなのです」
その夜、私は王家の別邸に泊まった。もちろんファイーナは公爵邸へ戻った。
父上達はスクウカが私と一緒におとなしく村へ帰っていたら、誓いを破って王都へ入ったことは不問に処すつもりだったという。だが彼女はそれを拒んだ。その上ほかの男と関係を持った。
許されることはない。
翌日、私は一般人の姿をした密偵に見送られて王都を出た。
街道の途中で立ち止まり、高い城壁を見上げる。
スクウカとアナトリーは密かに処分される。スクウカの実家も罰を受ける。巻き込まれたアナトリーへの同情はあっても嫉妬や怒りはない。子どもも口だけで出来てはいなかった。アナトリーに体を開いていたのは金が目当てだったらしい。
私は村に帰り、これからも暮らしていく。
私とスクウカの間にあったのは真実の愛だった。
それは今も疑っていない。だけど……真実の愛は都会生活の魅力には勝てなかったのだ。