大井川の砦
徳川幕府が大井川に幕府軍用の渡河船を用意していたら
架空戦記創作大会2017年夏
参加作品です
時は江戸中世
戦国の世は去り
天下太平の時代であった
少なくても、国家全体と幕府自体としては
何せ、ユーラシア大陸の東側の外れの島国で、百年以上前は世界トップクラスの火縄銃保有国と言われる国を植民地にする欧州諸国は、居なかった(昔だと、ポルトガルやスペイン、江戸末期だとアメリカが挑もうとしていた)
この島国では
大名が一年置きに、地元と幕府の本拠地である江戸を往復すると言う
参勤交代が定められている。
理由としては、大名達の国力を削ぐのが一番大きい
それでも国力が大きい藩は、普請等(つまり土木建築といった公共事業)で
体力を落とさせた
幕府管轄、親藩の城の修繕や補強
縁もゆかりもない場所の河川工事(薩摩藩の木曽三川の治水工事)
しかし、その一方で架橋工事は江戸や大阪、京などの大都市でしか行われなかった。
江戸と京、大阪を結ぶ主要道路である
東海道でも、大井川や木曽三川では架橋もされなかった
どちらも河川や大名の反乱を恐れていたためで
大井川は江戸の天然の外堀とも言われた
川を横断するには両岸にいる人足を雇って、
輿や肩車で横断する事だった。
だが、それを言うと、
西日本の大名の有力藩である。
薩摩の島津、長門の毛利、肥前の鍋島
この3家が合同で京とその以西を制圧された際に、幕府が帝の救援に行くのにも大変なことでもあった
念のために紀州徳川家や伊予松山藩、越前松平家を置いて牽制しておいたがそれでも不安があった
そこで幕府は、大井川専用の幕府専用河川横断船を二隻用意し、幕命でない限り使われることはなかった。
一隻は、その川の名から大井、もう一隻は大きな鳳で京を守ると言う意味で、大鳳と名付けられた
どちらも全長50m
人力漕ぎで行う船であった
だが、二隻の活躍は、幕末になるまでなく
老朽化で何度も新造し直した
二隻が活躍したのは
1863年の 徳川家茂の京上洛と
1866年の 第二次長州征伐だった
だが、第二次長州征伐の途上、家茂が病で死亡し
徳川慶喜が幕府を継ぐも
肥前と土佐、薩摩から支援を受けた長州藩は
幕府の長州征伐を返り討ちにし、
薩摩、広島、土佐が立案した大政奉還の実施で、幕府は事実上解体された上
幕府の後身組織から徳川慶喜等を排除するために
戊辰戦争が勃発
当初は、旧幕府軍が優位にたったが
朝廷が薩摩と長州を官軍に任命し、幕府軍を逆賊と見なした途端に形勢は逆転、
徳川慶喜と幕府軍は海路で江戸に逃げ帰った
それと同じ頃に、大井川西岸にあった
大井と大鳳にも幕府側の抗戦の意味で火が放たれ 焼けて沈んでいった
さらに、東海道防衛の主藩であった尾張徳川藩が官軍に下ったことで
大井川の両岸も官軍に下り
結果、江戸近郊に接近され
江戸城無血開城に追い込まれた
一部勢力は、東北や函館で抵抗を続けたが
函館で抵抗していた 旧新撰組副長の土方歳三の討ち死ににより
降伏した
大井は、幕府消滅から半世紀の時を経て軽巡洋艦の名前で蘇った
大鳳は、90年の時を越えて、装甲空母の名前で復活するも竣工から三ヶ月後に、空爆とガス爆発で沈没
結果は、敗けを経験して沈んでいったが
大井に限っては、その後も第二次世界大戦後の日本の護衛艦の名で活躍している
一方 大井川は、明治維新の後に
木造の歩道橋が造られ
そして鉄道が開通し
川を渡ることは容易くなった
さらに上流では電力を作るための水力発電も造られ
大井川の天然の堀は無力化されたのだった
おしまい
海外諸国と薩摩、長州、肥前の衝突(フェートン号事件、生麦事件、薩英戦争、下関戦争)及びペリー来航は
史実通りです
つまらなかったと思いますが
勘弁してください