学長室
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午後の授業開始を告げるチャイムが鳴り、ザワついていた廊下から物音は消え、辺りは一気に静寂に包まれる。
一年生であるディランの午後の授業は実技の時間。攻撃系の技を使って、一分間に直径一メートル、高さ二メートルを越す巨大な丸太を何本破壊できるかのテストだ。
大体平均は二~三本。五本だとかなり優秀なのだが、ディランは先日の練習で二十一本(ゼロは二十三本)をやってのけた。
ディランは基本実技の授業には顔を出すのだが、今はそれどころではない。それよりもやらねばべき大切なことがあるのだがーー
「はあーっ……」
ディランは窓から入ってくる隙間風の音を掻き消すほどの、盛大な溜息をついた。
放送で呼び出されてから、かれこれ十五分以上は経過して入るてあろう。そろそろもう一度放送が鳴ってもよいはずなのだが、ディランの耳に入ってくるのは、微かに外から聞こえてくる生徒達の気合い。
「今頃みんな頑張って丸太割りしてんだろうなぁ……」
と、他人事のように呟くと欠伸をし、何度か瞬きをしたあとゆっくりと瞼を閉じた。
しかし、ディランの昼の憩いを妨げる音が廊下に響き出したのは、その直後だった。
コツコツーーと、睡魔に襲われているディランにとっては不快にしか思えない、靴の音は徐々に大きくなってくる。
時間的に教師が捜索し出してもおかしくないと思い始めていたディランは、手すりに仰け反った体勢を崩さないまま、横歩きで階段を一段上った。
するとそこには、哀れみの表情でディランの顔を見下ろしている女の姿があった。差し込んでくる日光が眩しくて、朧気にしか見えないが、白の下地にブルーのラインが入っているブレザーを見て、生徒だと判断する。
「ちょっとあんた……。こんなとこで何してんのよ……」
「ん? みりゃ分かるだろ。階段を上ってるんだよ。……てかお前誰だ? もう授業は始まってるぞ?」
天井を見上げて、後頭部を手すりに擦りながら次の段に右足を乗せたとき、その上から固いローファーの踵で踏みつけられる。
「うおっ!?」
さっきの音の正体はこれだったのかと、納得している場合ではなかった。
完全にバランス感覚を失ったディランの身体は、すでに左ーー下の階へと大きく傾いていた。
「ちょっ、助けーー!」
左足一本に全体重を乗せて堪えながら、必死の形相で右手を女生徒に伸ばす。
女生徒は、今度は小声で呆れたように「何してんのよ……」と言うと、救いの手を差し出した。
その手はディランの指先を通過ーー手首を通過ーー肘を通過する。ディランには何が起きているのかさっぱり分からなかった。なぜか近づいてくる女生徒の掌を眺めながら、とうとう左足の限界を迎えた。
このまま背面ダイブを満喫するかと思いきや、つま先が少し浮いたところで、ディランの動きが停止した。女生徒がディランの鼻をつまみ上げることによってーー
そしてそのまま引っ張り上げる。
「痛でででででで!!」
学園中に響きわたろうかという、純粋な痛みによる悲鳴。体勢を立て直したディランは、真っ赤に腫れ上がった鼻を手で覆いながら上に立つ人物を見上げた。
一番見たくなかった顔。見た者を凍らせると言われている澄んだ青い瞳。
「やっぱりお前かよ……メリー……」
陰気な顔をしてそう言うと、助けてもらったのにも関わらず軽く舌打ちをした。
「あんたねえ、それが命の恩人に対する態度なの? 普通はここでお礼をするものでしょうが! ありがとうございますメリー様って!!」
髪の毛を後ろに束ねたポニーテールを上下に揺らすメリーは、何度も階段の手すりを叩きつけて怒りを露わにする。
「はいはい、助けてくれてどーもありがとーごさいました。今度他の人を助けるときは、掴む場所にも気を配った方がいいですよ」
「……あんた、全く感謝してないわね。……まあいいわ。これ以上バカに付き合ってられるほど暇じゃないから。ほら、行くわよ」
圧倒的に男の割合が高いこの学園で、女の生徒というのはかなりレアな人物に中る。その中でもメリーは、学園でも絶世の美女と言われており、かつ一年生ではゼロ、ディランに次ぐ実力の持ち主でもある。
そのためか、彼女が歩く五メートル後方では常に、メリーに憧れを抱く男子生徒が金魚のフンのようにつきまとっている。
当たり前と言えば当たり前。ディランもメリーが美女ということは、認めていた。だが美女は、階段から落ちそうになっている人の腕ではなく、鼻を引っ張って助けるなんてことは決してしない。
最も、メリーがこんな態度をとるのはディランの前だけだ。
理由は至って単純。とある出来事がきっかけでディランに対抗意識を向けている。ただそれだけである。
ぷいっと顔を背け、スタスタと歩き始めたメリーの背中をディランは困惑した表情を浮かべながら追った。
「おい、行くわよってどこに行く気なんだよ」
「今更何言ってるのよ。学長室に決まっているでしょ。あんたが中々来ないから、相当怒っていると思うわ……」
「ひっ……!!」
ディランの頭に蘇る、脳の奥深くに封印したはずの悪夢。思い出すだけで、鎌で首を刈られたような寒気が全身に走る。
徐々に前を行くメリーとの距離が広がっていき……、ディランの身体の機能が停止した。
それに気づいたメリーは、不気味な笑みを浮かべて汗をタラタラ流しているディランの襟を掴むと、そのままズルズル引きづり始める。
一発平手打ちをしてディランの意識を戻すと、
「あんたまだそのこと気にしてんの? ちゃんと許してもらったんでしょ? ならもういいじゃない。それより今はどうして遅れたのか、ちゃんと良い言い訳を作っておくのよ」
案外効いたのか、頬に手をやりながらポツリと呟く。
「……メリーさんに殴られて気絶してました」
「今何か言った?」
「特に何も」
「そう、ならいいわ。それよりほら……、着いたわよ」
メリーが手を離したので、ディランはズボンに付いた埃を払いながら立ち上がった。
他所の教室とは違い、素材である木の色をそのまま残した濃い黄土色の扉は、目にしただけで異様な雰囲気を漂わしている。
ちょうどディランの目線に位置する、扉に埋め込まれた透明のプレートには『学長室』と筆で書かれており、書道に全く興味の持たないディランでさえも感心するほどの達筆だった。
横長に作られている白金のドアノブにメリーが手を伸ばしたとき。
「ちょっと待て!」
ディランが汗を飛び散らせながらメリーの腕を引っ張る。
「ちょっと何すんのよ。まさかここまで来てダダをこねるんじゃないでしょうね」
「いや、まだ心の準備が……」
「そんなの永遠にできないわよ! ああもう、開けるからね! ……って、ちょっ、あんたどこ触ってんのよ!」
目に涙を浮かばせ腰にしがみついてくるディランを振り払おうと前に体重を乗せたのが失敗だった。
「うおおおお!!」
「キャーーーーッ!!」
その反動で勢いよく解き放たれた扉に続いて、二人は浅葱色のカーペットに顔を突っ込む。
「遅刻した挙げ句、人の娘に抱きつくとは相変わらずいい度胸をしているな。ディラン・ラーシュ」
ディランの頭に響く、殺意の籠もった静かな声。やや身に覚えがない言葉も聞き取れたが、ディランはその意味を即座に悟った。
右腕だけワイヤーに吊られたかのように少し中に浮いている。
本当に吊られているのなら良かったが、その腕は隣で痛そうに呻き声を上げているメリーのしなやかな体の背中に回っていた。
「あっ、これは……じ、事故です……。……はい、すみません」
ディランは何かに弾かれたように飛び上がった。踵をつけ、両手を横にそろえると頭を下げる。
すると、耳を疑うセリフが聞こえてきた。
「今のは、こいつの言うとおり本当に事故ですよ。あたしが少し足をもつれさせて転んだときに巻き添えにしてしまっただけです。……お母様ーー」
いつの間に復活したのか、それよりか驚くべき事に、メリーがディランに助け船を出した。
ディランはメリーの横顔をまじまじと見つめるが、いつもの美々しい姿に変わりはなく、到底嘘を言っているようには見えない。
ただそれ以上にーー
「あのっ……、今お母様ってーー」
ディランの視線が学長に移った。
目は圧倒的にこっちの方が少し鋭いが、口元や整った顔は似ていると言えば似ている。
奥は黒いカーテンが閉められているため、よく判別できなかったが、メリーと同じブルーの瞳をしているように感じ取れた。
「あれ? もしかしてあんた今の今まで知らなかったわけ? あたしのフルネームはメリー・フェンリル。そして目の前にいるのが、ヘブンズ・クラムの六代目学長、エフリーナ・フェンリルで、あたしの実の母親よ」
初めて聞く衝撃的な事実を綽々たる態度でやってのけるメリーに、ディランは絶句した。
「ディラン・ラーシュ。馬鹿だとは聞いていたが、まさかそんなことも知らなかったとは。さすが入学初日で私の顔に一発浴びせただけのことはあるな」
見たこともないような古い書物がいくつも山ずみになっている机の向こう側。
キャスター付きの椅子に深々と腰掛けているエフリーナは、今の言葉にディランがどういった反応を示すか、質の悪い笑みを浮かべていた。