ディラン・ラーシュ②
***
五階建て校舎の最上階まであと数段というところで、ゴム製の手すりに身体を預けながら、ディランは頭を掻き毟っていた。
「あぁー、思い出せん。俺が何をしたっていうんだよ……!」
埃一つ落ちていないアクリル硝子で作られている床の上に、金色の髪が舞い落ちる。
階段を上り下りしている生徒は、ディランを見つけるとチラ見してはクスクスと声に出さずに笑いながら横を通り過ぎていく。
これはディランがバカみたいに一人で発狂しているからではなく、彼が学園切っての問題児ということを知っているからなのであろう。
「俺もすっかり有名人になってしまったな……」
ディランは手すりにもたれかかった姿勢でそのまま上に両腕を乗せると、「あー」と覇気のない声を出しながら天井を見上げた。
「こーやって何も考えずに、ボーッとしているのが一番幸せだなー」
この階段を上りきり、右に曲がって真っ直ぐ行くと学長室がある。
ついさっきまで汗を飛ばしながら走っていたのが嘘みたいに、水中で泳ぐ魚のようにパクパクと口を動かしながら。
お経を詠んでいるの勘違いされても仕方がないくらい、語尾を伸ばしながら独り言を呟いている。
そして不意に右腕を上げ、手首が目の前に来るよう肘を曲げた。
そこにはめられている、光輝く黄色の宝石がいくつも埋まってる銀色のリングに目を向ける。
基本寝るとき以外は常に身につけているのだが、まだ錆一つついていない。
「別にこんな物いらないから……。俺は首席が欲しかったんだよ……」
ーーあの日。
ーーディランが修業をスッポカして戻ってきた日の夜、彼の人生は一八〇度変わった。
***
胡座をかいて座る父親とは対極的に、できもしない正座を無理にして完全に足の感覚がなくなった挙げ句、緊張のし過ぎで口の中の水分が枯れ果て、拷問以上の辛い思いを味わっているディラン。
さすがに今回のことは自分が悪いと反省し、どんな罰でも受ける覚悟でいた。
「ディラン、顔を上げるんだ」
「……」
恐る恐る顔を上げたディランと父の視線が交わる。ずっと見つめていると、瞳の奥に吸い込まれてしまいそうだとディランは感じた。それほど、ハダルの目は美しくて、ライトな光輝を放っていたのだ。
「怒ってる……よな……?」
ディランは太股に乗せた拳を握りしめながら、父親の顔色を伺った。唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえ、ーーまさかこんな惨めな音が届いてたりしないよな……。と、間が開けば開くほど、ディランの心臓が鼓動を打つスピードが加速していく。
それでもハダルは、表情を一つも崩さず、大仏のようにただじっと威圧的な態度をとっている。これ以上無言の行は耐えられないと思い、ディランが口を開こうとした時ーー
それよりも早く沈黙を破ったのはハダルだった。
その言葉は少々意外で。
「……お前を見ていると、昔のことを思い出すな……。俺も丁度、お前ぐらいの頃、こうやって父に呼び出されて汗水をタラタラ流していたな……と」
「親父の親父……?」
と言ってもディランの祖父に中る人物なのだが、あまりこれという実感は沸いてこない。
彼が生まれる三年前に病気で他界したというのをディランはいつだったか、聞いたことがあったのを思い出した。
「……まあその話はまた今度にして、本題に移ろうか。昔少し話したことがあっただろ。ヘブンズ・クラムーー覚えているか?」
突然こんなことを言い出して、絶対何か企んでいるなと懸念を抱きながらも、ここで嘘を憑くわけにもいかないので、ディランは短く「うん」と答えた。
「蒼術を学ぶための学園。親父もそこの卒業生」
簡潔にそう述べたディランだが、実はそれ以上は知らなかった。
ヘブンズ・ゲートの内側にあるヘブンズ・クラム。世界で唯一蒼術を学ぶことができる場所。記憶の片隅に放置されていた情報を引っ張り出しても、このくらいのことしか思い出せない。
「お前が当時俺の話を殆ど聞いてなかったのは置いといて。……確かお前、来年で一五歳だよな?」
「えっ……、そうだけど」
改まって年を尋ねてくる父親にディランは少し驚いて口ごもる。
しかし直後、「なら丁度良かった」と言って身体の力を抜いたハダルを見て、ディランは最悪の事態を想定した。
ーーいやいや、まさか。
「俺はそんなとこに行かなくても、もう十分強いから」
気がつけば思っていることを直接口に出していたディラン。明らかに動揺している証拠だ。
「あぁ、お前は十分強い。下手すれば教師達よりも上ってことも考えられなくはない」
前髪を捲り上げながらハダルは言った。そして、珍しくはみかんで俯いたディランに、まだ話は終わってないぞと、口では言わず睨みつけて目で訴える。
ディランの顔から笑顔が消える。
「力が強いだけでは、駄目だ。何より、お前はまだその力に心が追いついていない。別に修業をサボったことを言っているのではない。俺もあまり人のことを言えないからな。ただ、お前には自覚が足りなさすぎる。いずれラーシュ家の当主になるということを忘れたわけではないだろう?」
ーーそれぐらい分かっているの、それ……、と言ったところでハダルは太い声で自分の声をディランに重ね、息子の言葉を途中で遮ると、ディランが最も聞きたくなかったことを口にした。
「行くんだ、ヘブンズ・クラムに。そこに行けばここでは学べない、大切なことを教えてもらえる。それにお前と同じ年の奴らもたくさんいる。友達を作り、三年間共に過ごすんだ。それだけでお前は、今と比べ物にならないほど変わることが出来る」
「…………」
ディランは、何かに縛られるのが嫌いだった。
家にいれば、好きなときに好きなことが好きなだけできる。いつ起きようが、寝ようが、食べようが、遊ぼうが、全て自由だ。
そんなディランにとって、ヘブンズ・クラムという学園は、典型的な束縛の象徴だった。規則と時間によって縛られている、名前だけ知っている、刑務所同然だ。
ーー何を言っているんだ親父は。普通に説教されると思っていたら、あの学園に行けだと……!?
ディランの歯ぎしりする音が、片手で床を思いっきり叩きつける地響きに変わった。
同時にそれは、ディランの父親に対する初めて直接的な反抗でもあった。ハダルの顔にも僅かに動揺が走る。
「親父、言っとくけどな、親父が何を言おうと俺は絶対にそんなとこ行かないからな」
今まで溜めていた物を全て吐き出すかの勢いで、尚も続ける。
「自覚が足りないだって? そうさ、この際ハッキリ言うけどな、俺はこの家を継ごうなんて気は一欠片もない! 俺は自分の生きたいように生きるって決めてんだよ!」
尖った目つきで怒号を上げたディランは、足の痺れを諸ともせずに立ち上がった。
自分の人生を勝手に決められた感じで、腹の底から湧き上がってくる激情を荒々しい息づかいと共に、どうにかして押さえ込み、父親の顔を見ずに部屋から出ていこうとしたーー
「待つんだディラン」
声が聞こえたのは、ディランが丁度扉の戸に手を掛けた時だった。
「今更何だよ。今のが言い過ぎって言うんだったら謝るよ。……ごめん。これから修業はサボらない。ちゃんと真面目にやる。だから学園には行かない。それでいいだろ?」
ディランの声は人が変わったかのように静かで、冷然としていた。
だが、ハダルはディランの父親だ。
名の通った家柄なだけに、親子で遊ぶーーなんてことは、無しに等しかったのだが、それでもディランの日頃の行動と性格だけは、誰よりも熟知し、理解していた。
だからこそハダルは計画通り。
ディランを簡単に怒らせることができたーー
目には目を。歯には歯を。単純には単純をーー
単純な性格の持ち主には、単純にその人が最も嫌がることをストレートに言えばいい。
それだけで普段冷静な人と違って、すぐ頭に血が上る。
ーーかつての自分がそうであったように。
事は予定通りに運ばれた。しかしーー
ここまできたら後は容易に墜とせるのだが、予想外の事態が起きてしまった。