ゼロ・フォークス
泣きそうになりながらこの場を後にしたディランが、校舎に入ったのを確認すると、ゼロは改めて思った。
ーー全く、何て人騒がせな人なんだ。
まるで我が子のおバカっぷりに呆れる母親のように、大きなため息をつく。
ゼロがディランと出会ったのは入学式が初めてだが、いろいろあって今ではこの学園で一番の仲良しになっている。
ディランが入学式の日に起こした前代未聞の事件。この三ヶ月で割ったガラスの枚数十八。授業ボイコット数回。等々……。
ゼロがこの学園に来て一番驚いたことは、このディランという人物の存在だ。
年々増え続けているヘブンズ・クラムの、今年の受験者数は二千人を越していた。その二千人の中から見事に勝ち残って栄光を手に出来るのはたったの百人。
それだけでもこの百人というのは、蒼術を扱う素質が十分にあり、それでいて真面目で、礼儀の正しい人ばかりだとゼロは考えていた。
ゼロの考えは、正しかった。入学者皆、キリッとした表情で入学式に参加し、誰一人として無駄口を叩く者はいなかった。
ーー但し、ある一人を除いては、だったが。
ミスター破天荒。
ディランを初めて見たゼロが、咄嗟に頭に浮かんできた言葉だ。
まず最初に思ったことは、何かの手違いで、誰かと間違えて合格してしまったのか? だった。
だがそんな歴史に残るようなミスは、無論過去に一度も起こっていない。
入学するための適性試験には、面接も含まれている。敬語もろくに話せない人が、一体どうやって倍率二十オーバーの包囲網を突破したというのか。
その答えは、かなり意外な形で分からされた。
この学園の特徴の一つとして、合格した生徒には予め、合格通知と共にある物を渡されている。
適性試験総合成績表。
合格者の名前が表となって書かれている、薄っぺらい紙切れ一枚だ。
勿論ただの表ではない。
この表には、縦二十人、横五列で、一から百までの数字が順番に名前の左の所に記されている。
そう、この紙は合格者全員の適性試験の順位が載っているのだ。
筆記、面接、実技の三項目の合計得点の高いものから順に並べられた、言わば今の時点で自分はどのくらいの位置にいるのか、分かってしまう貴重な情報が載っている紙。
成績が上位の者は、入学後、他の生徒達には尊敬の眼差しで見られ、逆に下位の者は早くも見下されてしまう。
と言った風に、入学早々、天国と地獄にハッキリと分かれてしまうのである。
天国の中でも更にその頂点に立ったゼロ。
彼もまた、ある意味ではディランと似たような境遇の元で育った。
違う点を挙げるとすれば、両親がいるか、いないか。ただそれだけだ。
***
ゼロは、人里離れた山奥の村で、ヘブンズ・クラムの卒業生で、学年でも二番目の実力者だった者に、稽古をつけてもらっていた。
人の目に止まりやすいが、野生の動物は殆ど寄りつかない、比較的安全な地帯で赤ん坊の時、後の師匠となるライニッツという若い男性に拾われ、村の人々の力も借りながらも、男手一つでここまで育て上げられてきた。
この学園に行くことを勧めたのはライニッツだ。
元々、外の世界に興味があったゼロは、すぐに行くことを決意した。
ただ、試験に受かるのは二十人に一人もいないと聞いて、謙虚なゼロは、途端に自分が通用するのか心配になりそのことをライニッツに相談したところ、思いもよらぬ答えが返ってきた。
「何がそんなにおかしいのですか」
こっちは真剣だというのに、急にお腹を抱えて笑い出したライニッツに、ゼロはイラっときていた。
「いや、別にそういうつもりで笑ったのではありませんよ。ゼロ、断言しましょう。あなたは必ず受かります。そして恐らく、主席をとることも間違いないでしょうね」
はたまた予想外の返答に、ゼロの声は自分でもびっくりするくらい裏返る。
「えっ!? ……だって、今年の受験者数は二千人を越えていて、その中からたったの百人しか受からないんですよ? しかも主席は更に選ばれた一人……」
「はい、知ってます」
「ならどうしてそうやって僕が合格すると言い切れるのですか?」
首を傾げながら真っ直ぐに見つめてくるゼロに、ライニッツは再び湧き上がってくる笑いの虫を抑え込むのに限界だった。
一度大きく息を吸い込んで少し目線を下にズラす。このまま顔を合わせ続けたら会話が進まなくなると思ったからだ。
「ゼロ、ハッキリ言ってあなたは天才です。私がどれたけ過酷な試練を与えても難なくこなしてしまう。それにこれほどまでの才能を持っていながら、まだ伸びしろの先は見えません。だから、ちゃんとした設備が整っているヘブンズ・クラムに行って、その眠っている才能を呼び覚ますべきです」
いきなり自分のことを天才だとか才能がどうちゃら、だとか言われてついついニヤケてしまったが、ヘブンズ・クラムの名を出すときはいつも懐かしそうに目を輝かせるライニッツを見て、ゼロは前々から思っていたことを口にした。
「あの、師匠……」
「どうかしました?」
「えっと……、ずっと前から思っていたんですけど、師匠ってヘブンズ・クラムの卒業生ですか?」
暫しの沈黙。ライニッツはその後一息吐くと、顔に手を当て苦笑いを浮かべた。
「隠していたつもりだったんですけどね……」
「何か隠す必要でもあったんですか?」
ゼロの問いに師匠は目を瞑ってうーんと唸った。ゼロはライニッツが腕組みをしながら眉間にしわを寄せている様子を瞬き一つせず熱のこもった瞳で見つめている。
やがてゼロの気迫に圧されたのか、首を小さく横に振ると嫌そうに目を開けた。
「どう言ったらいいんですかね……。まぁ、一言で言えば、とても楽しくて充実……しすぎた三年間を送っていたと言っておきましょう」
そう言うとライニッツはゼロに背を向け、その場を立ち去ろうとしたのだがーー
ライニッツが足を踏み出すよりも早く、ゼロがライニッツの色白い左手首掴んだ。
「どこに行くのですか師匠。まさか今ので話は終わり、とか言ったりしませんよね?」
ゼロの手首を握る力が強くなる。それでもライニッツは痛いの‘い’も言わず、無言で、今度は逆にゼロの腕ごと前に進もうとし始めた。
しかしここで引き下がるわけにはいかない。ゼロは更に指先に力を込めた。ーーだが、戦況は変わらない。むしろゼロがじりじりと引きづられはじめた。
ゼロは今、常人なら骨が粉々に砕けてしまってもおかしくないぐらいの力で握っている。
どちらかというと、まだ細い方だと思えるこの腕の中には、一体何が入っているんだと、本気で疑いたくなってくる。
ーーさすがは師匠。ちっともビクともしない。
いつの間にか聞きたい、と、喋りたくない、の意地と意地のぶつかり合いになってしまったこの引っ張り合いは、どちらかがくたばるまで永遠に続くかと思われていた。しかし、もしそうなってしまえば、力負けしているゼロに勝ち目はない。
ここでゼロが勝負に出る。歯を食いしばりながらも、明らかに悪意のある笑みを浮かべた。
「卑怯とか言わないで下さいよね……」
「ーー!?」
背中で起ころうとしている異変を感じ取ったライニッツの首筋に、一粒の冷や汗が伝う。
ーーまさか……?
気づいたときにはもう手遅れだった。強ばった表情で首だけ後ろを振り向く。そして、コンマ二秒後、掴まれていない方の、左腕を挙げる。
「……参りましたよ。私の負けです」
「じゃあちゃんと話してくれますね?」
「仕方ありませんね……」
ゼロは手をパッと放すと、心の中でVサインを作った。
「やれやれ……。まさかここで蒼術の使用を試みるとは……。あなたの技はどれも超攻撃型なのに、こんな至近距離でくらったら、いくら何でも私の腕が吹っ飛びますよ」
ライニッツは額の汗を拭いながらも、しゃべり口調はとても落ち着いていて、焦った素振りも特に見せていない。
いつものゼロならここで、余裕の態度を見せられて己の未熟さに肩を落とすところだが、今回は違う。初めて聞くライニッツの若い頃の話に、期待で胸を膨らませていた。
「師匠」
「はいはい、分かってますよ」
ライニッツは目を細めて少しだけ上を向くと、ゆっくりと口を開いた。