新学期
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九月二十日。
夏休みも終わって昨日から二学期が開始していた。
と言っても何かが新しく始まるわけでもない。全寮制であるこの学園では、夏休みイコール実家で過ごす日と置き換えることが可能で、生徒達は帰省して家族水入らずの一時を堪能するという具合になっている。
八月の終盤に差し掛かったところで大凡の生徒は既に学園に到着しており、毎年二日前には全生徒の帰還届けが済んでいて、今年も無事に誰一人欠けることなく新学期を迎えることができた。
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「全然わかんねえ……」
机の上に肘をつき、もう片方の手でひたすらペン回しをする金髪の少年はため息が入り混じった声を洩らした。
教室の中で唯一だらしない姿勢をとっているディランの半開きになった瞳の先には、理解不能な数式がズラッと横に書き綴られている。
言わゆる数学というやつだ。蒼術を学べることが売りの学園でも、基本的な学力は生徒達につけさせる義務がある。
一日三時間以上はこういった授業を行うと決めており、定期考査だってある。
本来のディランならそもそも今こんな所にはおらず、目立たないひっそりとした場所で昼寝をしているはずである。
一応だがこうやって椅子に座っておとなしくしているディランを隣の席で時折様子を見るゼロは、闇属性狩りとの戦闘後のある決意を思い出していた。
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学長室での報告を終えた後、廊下を歩いている途中でディランが何やら改まった表情でふと立ち止まった。
非常に厳しい戦いだったため受けたダメージは相当なものだった。それもあってか実は学長であるエフリーナからは、特別に一足早い夏休みを許可されていた。
このことを聞いて真っ先に飛び上がるはずのディランが直後口にしたことは今でも忘れられない。
「俺は別に通常通りでいい。明日からはちゃんと授業もでるから」と。
「あんた今なんて……」
横でメリーがいろんな意味で戦慄を覚える。コフとの死闘で頭を強く打ったのではないかと、一人の人間として心配するメリーからそれ以上の言葉は出てこない。
「ディラン、それ本気で言ってるの?」
メリーから投げやりのバトンを受け取ったゼロがディランと面と向かって確認するが、ディランは目を逸らすことなく首を縦に下ろした。
「どうやら本気みたいだね」
「あんた本当にディランなの……?」
「俺が俺でなかったら一体誰になるんだよ」
つっこみから察するに冷静さを失われたわけではないと二人は判断する。
問題はその理由だ。
「今日まで散々余所で昼寝してたくせにいきなり何の心変わりよ」
びっくりした、というよりむしろ怖かった。明日は大嵐になってもおかしくない。
「お前らは悔しくなかったのか?」
「え?」
「何が?」
「だからさ、あいつらに負けてお前らは何とも思わなかったのか?」
真剣なディランの表情。
「あたしは悔しかった……。向こうは本当の自分の力ではなかったけれど、実際強かったのは事実だったし……」
「僕も……僕も、師匠がいなければ今頃ここにはいない。悔しかったよ、自分がこんなに弱かったなんて……」
「でもあんたは一人で倒したじゃないの。何か不服なことでもあるの?」
「大ありだよ。俺がコフに勝ったのはただの運だ。まともにやったらやられる確率の方が高い」
表には出していなかっただけで、皆それぞれ傷ついていた。
身体の傷は治療と時間の経過で癒えることができるが、己の力の無さをこれほどかというほど思い知らされて、立ち直ることはそう簡単ではない。
この先今回と似たような事件が起きるかというと、否定はできないと考えるのが真っ当だ。
しかしほんの少しでも可能性があるならば、備えることに越したことはない。
「あたしも明日からいつも通り授業に出るわ。もう誰かに守られるだけはごめんよ」
「じゃあ決まりだね。学長には僕が言っておくから二人とも先に帰っていていいよ」
「すまんな」
「ありがとう」
ゼロは来た道を引き返し、ディランとメリーはそのまま階段に向かって再び歩き出した。
二人の間には奇妙な空間が開いており、それでもどちらかが先に進もうなんてことはしない。
並んで歩くのはこれで二度目だが、どことなく緊張してしまうのはなぜだろうか。
わざとらしく後ろの束ねた髪をいじるメリーのディランに対する意識が高まったのは、あの一件以来だ。と言うより、一緒に過ごす時間が増えた。
今まで休み時間、メリーは常に一人でいることが多かった。
他の女子生徒の友達がいないわけでもないのだが、メリーがあまりにも完璧すぎるため敬遠されがちだったのだ。
家柄のこともあり仕方ないと思っていたのだが、心の中に寂しい気持ちがなかったと言えば嘘になる。
そんな時よくよく話しかけてきたのがディランである。メリーの中でのディランはゼロ以外に親しい人がいないというのはただの思い過ごしだった。
よく観察してみると、どうやらクラスの男子生徒とは殆ど気軽に話し合える仲だということに気付いた。
「本当にあたしをムカつかせるやつだわ……」
「誰が?」
「別に誰でもないわよ……ってあたしこっちだから」
「ん? あっ、あぁそうか。じゃあまた明日な」
校舎を出てすぐに男子寮と女子寮に分かれる道がある。
手を振りながら右に曲がったディランの背中をメリーは暫く見つめていた。
「これって友達……なのかな」
分からない。
分からないけど、遠慮なく本音を言い合える相手がいるっていうのはちょっとだけ嬉しかった。




