プロローグ
深夜。
一人の若い男性が、満月の明かりに照らされながら、緑の若葉が生い茂っている木々の間を全速力で駆けていた。
本来なら昼間、太陽の光が射し込んで見える、立派な大木の枝を覆い尽くしている葉は、まるでその一つ一つがエメラルドのように感じ取れることから、いつしか人々から「翠玉の森」と呼ばれるようになった。
しかし今、その男性にはそんな物に心を打たれている余裕など一欠片もない。
道中ーー否、最早道と言うには程遠い、ただ、今男性は目的地に到着するための最短のルートを走っている。
枝葉をかいくぐり、そのせいで服が切り裂かれ、身体の至る所に擦り傷ができてしまった。
のにも関わらず、男性は決して足を止めない。
目的の地。
ーーヘブンズ・ゲートに辿り着くまでは。
「ハアッ……ハアッ……」
普段はそんなに体を動かさない男性の体力は、既に限界を越えていた。
どれくらいの距離、時間を足を動かしているのかなんて分からない。
ただここで立ち止まってしまったら奴に殺される。
汗と血が混ざり合った液体が、衣類に吸収されて只ならぬ悪臭を放っているが、殺されたくないという、強い衝動にかられているせいか、そのことにさえ全く気づいていない様子だ。
行く手を遮る木の葉や、顔に纏わりついてくる蜘蛛の巣を手で払いのけ、男性はとうとう森の入り口付近にまで差し掛かった。
このままいけば、後五分ほどでヘブンズ・ゲートに到着する。
傷だらけの男性は、ホッと安堵の息を漏らすと、今までの緊張が一気に解かれたのか、身体が急にダルくなって一旦足を止めた。
「……ハアッ、ハアッ、ハッ……」
両膝の上に手をついて少しずつ呼吸を整えていく。全身から滝のように流れ出ている汗は、早くも地面の色を変えさせるほどにまで辺りに浸透していた。
「ハアッ、ハァ……」
ーーもう少し、もう少しでこの森から抜けることができる。そこまで行けばヘブンズ・ゲートはもう目の前だ。
汗だくになっている男性の口元が微かに緩んだ。
男性は服の袖で汗を拭いながら膝から手を離すと、ラストスパートをかけるべく、両手の拳を強く握りしめ、生きる為の一歩を前に踏み出した。
ーーその刹那。
前方約五メートル付近の場所に一つの小さな影が出現する。
ーーサザッ。
木の葉同士が擦れ合う音が聞こえたかと思うと、連なっている木々の、枝の上から陰の主が正体を現す。
ここは森の中なので当然灯りはなく、おまけに今は真夜中。分かるのは、それが野生の獣ではなく人間だということ。
男性は、本能的に悟った。
こいつはずっと自分を追いかけていた人物だとーー。
男性は踏み出したいた右足を引き戻すと、二、三歩後退りをし、心の中で何度も落ち着けと連呼した。
目の前に立つ人物は、恐らくこの森に迷い込んでしまった誰かだろう、という僅かな希望を抱きながらも、ゴクリと唾を飲み込んで意識をその人に集中させた。
見知らぬ人は何も言わずにゆっくりと、かつ足音を立てずに男性に近づいて来、それに伴い葉の隙間から入ってくる月明かりによってその姿が少しずつ露わになってくる。
まだ上半身は木陰に隠れているせいで、いまいち正体に確信が持てなかった男性であったが、直後、後方から吹いてきた、自然に発生するとは思えない少量の熱を含んだ生温い風によって、木の葉が大きく音を立てて揺れる。
木の枝の上で眠っていたはずの鳥達も、天敵から逃げるようにして、羽をまき散らしながら一斉に飛び出し、一瞬だけだったが、上空で雷が光った。
目映い閃光。
轟く雷鳴。
それはまるで、男性を絶望の淵に沈める合図かのように思える。
さっきの光によって、目の前に立つ人物の五体をしっかりと自分の目で捉えた男性の口から、今にも枯れ果ててしまいそうなぐらいの掠れ声が漏れた。
「ど、どう……して、お前がここに……」
黒い薄手のローブを全身に纏い、下からはみ出して見えるスラッとした長い足は、その肌を見せることなく、紺色の下地に黒の細長い縦線が何本も入っているレギンスで覆われている。
膝から上にかけてはこれまた紺の下地で、今度は黒と青を交互に、さっきよりも更に細長いチェック柄のミニスカートをたなびかせ。
パッチリとした目。前髪は眉毛の少し下、襟足は肩に掛かるほどしかない、髪の色は、ローブと同じ色の黒ではない。
まるで光の粉でも振りかけられたように、煌びやかに輝いて見える、純粋な黒色だ。
耳にはハートの形をした、直径一センチにも満たない水晶玉のように透き通っている、透明のイヤリングをぶら下げている。
「んー………思ったより早かったね。君の体力だともう少し時間がかかると思っていたんだけどな……」
首を傾げながら腰に両手を当てて近づいてくる女に、男性はただただ身体を震わして、イヤな汗が頬を伝うのを感じ取ることしかできなかった。
ーー同時に、汗とは違う冷たい雫が男性の頭上に落ちた。
ーー雨だ。
「うわー、最悪。降ってきちゃった……」
女も眉間にしわを寄せながら、辺り一面分厚い雲に覆われている空を見上げている。
「で、何言おうとしてたんだっけ……。えーっと……あっ、そうそう」
女は自分の目の焦点を男性の目に合わせるとニコニコと笑いながら男性に接近する。
「長旅お疲れ! そろそろ死ぬ準備はできたかな?」
徐々に雨足が強くなってきている中、女の言葉に男性の身体が反応した。
男性の脳に、落雷の音よりも響いた死刑判決の言葉。
恐怖のあまり鉛のように重くなってしまっている口をどうにかして開かせ、喉の奥から声を絞り出す。
「その格好……やっぱりお前、例の闇属性狩りの……」
そこまで言ったところで、男性の身は重力に逆らうことなくガクンと崩れ、地面に片膝をついた。
さっき森の中を駆け巡っていた時とは比べものにならない、そのうち体内にある全ての水分が汗となって蒸発していくような勢いで、大量の汗が全身から噴き出ている。
決して攻撃をされたわけではない。
ただ、これまで戦闘というものに全く縁のなかった男性にとって、現在この一帯の地域で突如現れた殺人鬼グループの一人と、こうして向かい合っていることが、普通に殴られる以上の、精神的なダメージを与え、時間が経過するに従って、それが肉体にも影響を及ぼし始めたーーというだけの話だ。
「へえ、あたし達のこと知ってるんだ。なかなか有名になってきたもんだね」
女は目の前で倒れ込みかけている男性を気にも留めず、ローブの裾を捲り上げた。
「知ってるなら話が早い。じゃあこのあと、どうなるか……分かるよね?」
女は右手の掌を今や完全に地面にひれ伏せてしまった男性の顔に向ける。
「お前達の……目的は……一体何なんだ……。どうして、こんなことをする……」
女はそのままの体勢で口を開く。
「簡単に言うと、あたし達は今ある人物を捜しているの。あたしが聞いているのは、そいつの属性が闇ってことだけ。これで大体は納得してくれたかな?」
「……」
十人に一人いるかいないかと言われている、闇属性の持ち主。
男性は残り少ない身体のエネルギーが全て溶かされた気分になった。
ーーどうして自分は闇属性に生まれてきたのだろう。
唯一辛うじて動かせることができる口で、擦り切れてしまいそうなほど歯を強く噛みしめ、目からは、雨の水と区別がつくぐらいの大粒の涙を流す。
「泣いちゃった……あたし的には無抵抗の人を殺すのはあまり気が進まないんだけど、命令だから許してね。ーーあと最後に、君が最初にあたしにぶつけてきた質問に答えてあげるよ」
ーー今更そんなことどうでもいい……と、思っていながらも、男性はすっかり涙で汚れてしまった顔を女に向けた。
「まず最初に、君があの時逃げ出した方向から考えて、ヘブンズ・ゲートに向かっているということはすぐに分かった。だから気づかれないように先回りして、入り口でずっと待ち伏せていたってわけ。あそこに入られるとあたし達は手出しできないからね……」
女がそう言い終わった頃にはもう、男性の視界に女は映っていなかった。あるのは、黒く光って渦を捲いている楕円形のブラックホールそのもの。
その後ろから言霊のような声が男性の耳に入ってきた。
「心配しなくていいよ。あたしの蒼術をこんな至近距離からまともに受けて、死ななかった人はいないから」
男性に、過去の楽しかった思い出を振り返る時間はーーなかった。それさえも、女のどうでもいい都合によって沈められる。
「最後に一つ言い忘れてたけど、あたしの名前はお前じゃなくて……ーーレイミン。そこんとこよろしく」
レイミンと名乗った女の黒い渦は、少しずつその形を漆黒の槍へとへんかしていく。槍全体から出ている、薄い黒の煙。
ーー闇属性の証だ。
ーー闇属性が闇属性狩りしているのかよ……。
男性は最後に苦笑すると両目の瞼をゆっくりと閉じ、そのときを待った。
しかし、暗闇になった世界で、一瞬だけ閃光が瞼を通り越す。直後、耳元に響き渡る轟音。突風と共に大地が振動する。
今のは雷がどこかに落ちたものだったのか、と認識したときには既に、──男性の意識はこの世になかった。
雷に撃たれて死んだのか、レイミンの蒼術によって死んだのかは、恐らく本人は分かっていない。
ただ、男性がこの世を去って数時間後、朝から森の散歩をしていた、一人の老年の男性によって、全身ボロボロの遺体となって発見されたのが、事実として残った。