翠玉の森
***
「遅い」
「いや……ちょっと道に迷って……。ったく、女子寮は近いからいいけど男子寮はここから遠すぎんだよ」
エフリーナとの話し合いが終わってから約三時間が経過していた。
待ち合わせ時間の四時から十分遅れで到着したディランは、ぶつくさ文句を言いながらうろうろと徘徊を始めた。
「全く、緊張感のない人ね……。ちゃんとお母様に言われたこと覚えてる?」
「……分かってるよ。逃げればいいんだろ、逃げれば」
「大丈夫そうね。じゃあ行きましょうか」
「あぁ」
学園はまだ授業の最中なので見送りに来てくれる者は誰もいない。そもそもお互いに誰にも話していないから当然と言えば当然なのだが……。
無言でしばしの間校舎を見つめると、二人は揃って顔を見合わせた。
「寂しいのか?」
「別に寂しくはないわ。ただ今からあんたと二人きりになるって考えたら悲しくなってきただけよ。そういうあんたこそ名残惜しそうに広場の方を眺めていたじゃない」
「俺は心配をしていただけだ。俺がいない間に俺専用の昼寝スポットが他の誰かに見つけられて取られやしないのかのな」
真面目に返されたメリーはもう突っ込むのも面倒くさくなった。
下手するとこれから数日間一緒にいるというのに、いちいち相手にしていたら体力が持たない。必要最低限以外の会話は全て無視しようと心に決めた。
代わりにメリーは盛大な溜め息を一つ吐いた。
「ゼロには戻ってきてからちゃんと話すとするか」
「あたしはバカが伝染るまでに早く戻ってこなきゃ」
「誰がバカだって」
「……」
「てめっ、何無視してやがんーー」
外への入り口であるヘブンズ・ゲートに向かって既に進み始めたメリーを慌てて追うディラン。
端から見れば、今時の若者にしか見えないのだが当の本人達(特にディラン)にはそんな自覚など微塵もないだろう。
「やっぱ何度見てもすげーよな……」
ディランの目の前の空気がぼんやりと宙に浮かんで光っている。
「あたしも初めてヘブンズ・ゲートの話を聞いたときは、物凄く分厚くて、天までそびえるぐらいの巨大な壁を想像したのに、まさかーー実体のない物だとは思ってもいなかったわ」
それはまるで、黄金色に色づけされた途絶えることのないミストシャワー。その中で細かい粒子のようなものが煌めいている。
「いつ見ても神秘的だわ……」
「そうか?」
全てが台無しになる発言。決してふざけて言ったわけではない。その点に関しては、メリーも今となっては十分に理解しているため敢えて無視をする。
ーー多分こいつとは一生意見が合わないわね……。
心の中で、目を瞑りながら首を横に振る。
「よし行くか」
ディランの身体が光に包まれ、外に出る。少し遅れてメリーもそれに続いた。
この瞬間、早くもメリーの定義が崩れてしまった。
ーーどうせすぐ帰ってこれる。
二人は同じことを考えながら門をくぐっていたのだ。
そうとも知らずにいがみ合いながら歩き続けるディランとメリー。
少なくとも。
その時は二人とも、そう思っていた。
***
学園から翠玉の森まで、距離はほとんどない。
十分足らずで入り口に差し掛かった。振り返れば微かに学園の輪郭が見えるか見えないか。
今はちょうど七月に入ったばかりなので日はまだ落ちていない。明るさでいえば、ディランとゼロが広場のベンチで話をしていたときと一緒ぐらいのはずだがーー
「暗いな……」
森に目を向けるディランがふと呟いた。
「まるであそこだけ隔離されているようだわ。外から差し込む光の量が少なすぎる」
メリーは空と森を交互に見やりながら、気味が悪そうに顔を歪める。
中が暗いのは森の木の陰のせいではない。例えるなら夕方。
「念のために訊くが、お前ここに来たことあるか?」
「ないわ。あたしのお母様がどういう状況におかれているか知っているでしょ。小さいときからずっとあの中で暮らしていて、外に出るのなんて今日で五回目ぐらいよ」
「そうか、俺も初めてだ。理由は……それもお前とほぼ同じだな。…………てか何がエメラルドのように輝いて美しく見えるだよ。ただの肝試しスポットじゃねえか。……あのやろう、大ぼら吹きやがって」
最後の一言をメリーには聞こえないよう小声で付け足すと、ディランはあのやろうこと学長エフリーナを頭の中で思い浮かべながら、歯の根を鳴らした。
時折吹いてくる風はどこか生温かく、それに伴い葉がザワツく音を聞くだけで鳥肌がたってしまう。
これもまた二人が聞いたエフリーナからの情報なのだが、この森には数百種類の鳥や動物が住み着いている。
しかし、耳をすましても小鳥のさえずりなど聞こえてこず、狼の遠吠えだけがこだまして響きわたっているだけだ。
「こんなとこで突っ立っていてもしょうがない。そろそろ入るか」
そう言うとディランの目つきが変わった。
「本当に嫌な雰囲気しか漂っていないわね……。まるでウサギがライオンの群に飛び込んでいくようだわ……」
ディランの半歩後ろについて歩くメリーは、森に足を踏み入れると警戒心を最大にまで引き上げた。
それはディランも同じ。二人とも身体を押しつぶすような張り詰めた空気に、最悪の事態を想定している。
「ねえ……」
「何だよ」
「誰かに見られているような気がするんだけど……」
「いや、特に人の気配はしないが……獣はそこそこいるな。さっきから聞こえてくる狼の遠吠えは多分あそこからだ」
ディランは横目で林の奥をチラッと見た。
メリーもつられて顔を向けるが、いくら目を凝らしても葉と枝しか見えず、その奥は暗くて道があるかすら判別できない。
確かに、狼の遠吠えはこの森に入る前からも何度も耳にしていた。けれども、その出所を把握するなどメリーにとって不可能に近かった。
こだまを繰り返してこちらに届いているということは、距離は相当離れている。それだけの情報で居場所を突き止めたディランに、メリーは素直に感心した。
「あんたって、けっこう凄いんだね。バカなのに」
「そういう探査能力は昔から親父に鍛えられてきたからな。てか誰がバカだ」
「あんた以外に誰がいるのよ。……あたしはお母様から何かを教わるってことはほとんどなかったから、ちょっと羨ましいわ……」
「あの人は忙しいからしょうがないんじゃないか? お前もいずれはあの家を継ぐんだからそのうち何かやってくれるだろ」
「多分それはないと思うわ……」
「えっ? どうしてだ?」
メリーの足音が止まったので、ディランは振り返りながら訊ねた。
物憂げそうに俯いていたメリーは、口を小さく動かしてポツリと呟いた。
「……あたしが光属性じゃなくて、水属性だからよ……」