葉月の優しさ
日が完全に落ち、空は緋色から闇色に変わっていた。
天音は葉月のいる廃ビルとは五百メートル程離れた違う廃ビルの屋上にいた。
両目を閉じた天音は、葉月と同じ視界を見続けながらも集中する。左手に天雷弓を構え、自身の血で描いた呪符を矢の代わりに右手に握り弓を引く。その体制を維持しながら浄化魔術の詠唱を続ける。
急ぎながらも丁寧に一つ一つの言葉を紡ぐ。少しずつ丁寧に編んだ魔力が呪符に集まり光の矢を形成していく。
葉月が霊災の核を見たと言った時、天音は驚き心配はしたが、同時に葉月らしいと思ってしまった。霊災の核は物の場合もあるが、霊体や生きた生物の場合もある。葉月がその事を知っていたかは分からない。知らずに見たのか、知っていて見たのか、どちらにしても見ずにはいられなかったのだろう。
そして、核が生きた子犬だと知ってしまった。だから、この優しき少年は破壊ではなく浄化を選んだ。自分自身が危険になる事を理解したうえで、子犬を助けようとしている。
もしかしたら、私にも配慮したのかもしれないと天音は思う。子犬を殺させたくないと思ったのかもしれない。
天音は思う。正直、葉月は魔術師に向いていない。魔術師ならリスクなど排除すべきなのだ。それができないならこの先、魔術師を続けるのは自殺行為に近い。
今もギリギリの局面で葉月は戦っているはずなのに、その眼光はぶれることなく巨犬を見据えている。その様子に不謹慎にも天音は笑みをこぼしてしまう。
馬鹿ですね。
天音は心の中で呟き、耳元で聞こえる葉月の息使いを感じながら、天音は最後の言葉を紡ぐ。
光の矢は黄金に輝き、辺り一体を照らす。矢に収まりきれなかった高密度の魔力が溢れ天音の周りを漂う。
「葉月さん。準備出来ました」
『了解。俺は動きを止めるぞ』
「はい。お願いします」
『止めれるのは一瞬だと思うから頼むぞ』
「はい。動きさえ止まれば一瞬でいけます」
『ショートカット』
葉月の視界が召喚移動により巨犬から三メートルくらい離れた場所に移動した。
「えっ?」
葉月が手甲を外し床に投げ捨てたように見えた。インカムから天音の耳にもカランと金属が地面に落ちる音が聞こえた。葉月が唯一の武器を捨てた事に驚き、天音は声が出てしまった。巨犬も一瞬警戒したようだが、すぐに葉月に向かってくる。
脱力した葉月の視線はただ核の位置、心臓を見ていた。それも正確に少しの誤差もなく。これは確実に葉月が魔術防御を解いて核を直接見ている事を意味している。
天音が核の位置を把握できるようにしているのだろう。
そこまでして作ってくれようとしている葉月の行動を無駄にするわけにはいかない。
天音は浄化の矢にのみ集中する。
外す訳にはいかない、一発勝負。自分が外すと葉月は死ぬだろう。迫りくる巨犬の姿を葉月の視界から確認し、天音は自分の手が少し震えているのを感じた。こんなに緊張しているのは生まれて初めてかもしれない。
そして、巨犬が目の前に迫った瞬間に葉月が動いた。
パン
大きな音がインカム越しにも聞こえた。
時が停止したかのように、巨犬の動きが停止する。目の前で何が起きたのか天音には一瞬分からなかった。ただ、葉月は両手を合わせているだけのように見える。
ねこだまし
相撲の戦法の一つ。相手の目の前に両手を突き出して掌を合わせ叩く奇襲戦法だ。
本当に葉月はただ手を叩いただけその予想外の行動と大きな音が巨犬の動きを止めたのだ。
モフっと葉月は動きの停止している巨犬の太い首に抱き付いていた。
『大丈夫だ。怖くないぞ』
葉月の声が聞こえた。優しく心に沁み込むような声色。
天音の頬が緩む。
葉月の言葉は巨犬に向けられたものだったのだろう。それでも、天音の心にも染み渡り心拍数が安定する。路地裏で初めて出会った時の事を思い出してしまった。
自然と天音は笑ってしまった。
身体から余計な力が抜けた。弦の緊張と四肢の緊張が一体となり、天音の手から光の矢が離れた。
放たれた浄化の矢が空を切り走る。
目にも止まらぬ速度で巨犬を、霊災の核を貫いた。
核である子犬に突き立った瞬間、建物全体が光に包まれたのだった。




