6.子が育つのは早い
年の中でとても暑い月が過ぎたにも関わらず、まだ日差しが暑い昼下がり。
庭を駆けて遊んでいる幼子を見て、ふと思った。
「もう、四年も経ったんだな」
外に出たくないと泣いていた赤子は、その頃の名残もなく、元気に日々を過ごしている。
少々元気が良すぎるようで、転んだり何かにぶつかったりして怪我を作ってくる程だ。
「どうしたのですか?」
呟いた声を拾ったらしい夢月がこちらを見上げてくる。
一度合った目を逸らし、視線を庭に移すと先程まで走り回っていた幼子が丁度立ち止まった所だった。
「あっという間な感じがしてね」
幼子こと歩月は、どうやら細長い葉に留まっている蜻蛉を捕まえようとしているらしい。少し離れた場所にいる蜻蛉に気付かれないようにゆっくりと音を立てないように近付いている。
視線を追って俺の言葉の意味を悟った夢月も、弟の行動を注視しながら頷いた。
「歩月も、もう四歳になりましたから」
少し前まで座ることすら満足に出来なかった赤子が、はいはいして動けるようになったかと思えば、立ち上がり、歩き、言葉を覚え……とこちらが驚く速度で成長してきた。
あっという間に過ぎた日々。
初めての事ばかりで、目の前の出来る事をこなすので精一杯だったため、余裕などなかった。だが、振り返ってみるともうこんなに経ったのかとしみじみしてしまう。
「あっ……」
歩月を見ていた俺たちは揃ってそんな声を上げた。
音を殺して近付いていた歩月があと一歩の所で、手を蜻蛉に伸ばしながら転んでしまったのだ。
運よく潰されずに済んだ蜻蛉は空へと飛んでいく。
慌ててそちらへ向かうと、むくっと身体を起き上がらせた歩月がきょとんとした顔で飛んでいった蜻蛉を見ていた。
「大丈夫か?」
立ち上がらせ、顔や手などに怪我がないか確認していると、転んだことを思い出したのか目を潤ませていく。
「ふぇっ」
「転んだのに、泣かないで偉いな」
だが、声を上げて泣き出す前にそう言って頭を撫でると、口を引き結んだ。
幸い怪我らしい怪我はなく、ほっとして口にしたのだが、我慢をさせる結果となってしまったようだ。
「歩月」
見兼ねた夢月が名前を呼ぶと、てててっとそちらへ向かう。
そのまま勢いよく抱きついたため、予期していただろうが衝撃に耐え切れずによろめく。
「むつきー」
舌足らずな声に呼ばれた彼女は、それでもしっかりと弟を抱き留めた。
ふぇーん、えーんと泣く歩月を抱き上げ、ぽんぽんと優しく背中をたたく。暫くして落ち着いた歩月に、夢月が話しかける。
「驚きました」
「ふづきも、おどろいたの」
「怪我がなくて良かったです」
「えへへー」
まだ目は潤んでいたが、機嫌が直った歩月は頭を撫でられて笑う。
もう、そろそろいいだろう。
「歩月、おいで」
手を差し出すと「おにぃさま!」とご機嫌な歩月が素直にこちらに移ってきた。
「良い子だ」
そう言って高い高いをすると、きゃっきゃっと笑う。
こうしてやるのもそろそろ辛くなってきた。その分、体重が重くなり大きくなった証拠だが、自分の腕の力が足りないだけの気もする。この頃、鍛錬を疎かにしているせいだろうか。
「大きくなったね」
普通に抱きなおしても、腕にずしりと重みがくる。歩月が嫌がったため、下ろそうにも下ろせない。
どうやら、自分よりも高い視線で見られるのが楽しいらしい。
「優月も」
「ん?」
名前を呼ばれて振り向くと、少し見上げてこちらを見る夢月の姿があった。顔を見ているというより、頭を見ている。
「大きくなりました」
きっと大真面目に言っているのだろうことはわかる。茶化した様子は一切ないのだから。
しげしげと見ている彼女に苦笑するしかない。
「なってくれなくては困るよ」
やっと頭から視線を映して目を見てくれた夢月は首をこてんと横に倒した。
「この子に出会った頃は、まだ同じくらいだったのに」
どうして大きくなったのだろう、と小さく続いた声は何やら不満そうにも、ただ単純に不思議がっているようにも聞こえた。
「これでも男なものでね」
十六にもなって、彼女と変わらない身長であったら劣等感でいっぱいだったろう。あの頃はコンプレックスでもあった。
といっても、それほど大きな差があるわけでもない。せいぜい十センチ弱といったところだろうか。
「夢月は、あまり大きくならなかったな」
からかい交じりに言うと「……このままでいいんです」と返ってきた。間があった気がしたが深く突っ込まない方がいいだろう。
俺たちがそんなやり取りをしている時だ。建物の方を見ていた歩月が何かを見つけたらしく「あ……!」と声を上げた。
なんだろうか、と揃って振り向く前に嬉しそうな大きな声が耳元で聞こえる。
「おかぁさま!」
丁度、テラスから母が庭へと降りてくる所だったらしい。
うずうずと身体を動かしている歩月を地面に下ろしてやると、真っ直ぐに駆けていった。
「危ないですよ」
母が注意した傍から、何かに躓いたらしくよろける歩月。また転んでしまうと思いきや、母がそっと抱き上げる。決して急ぐでもなく、タイミングよく助ける姿にお見事と言いたくなった。
歩調を早めるでも遅くするでもない母は弟を抱いたままこちらに近づいてくる。
「母上、用事は終わったのですか?」
「えぇ」
帰ってくる返事は素っ気ない。腕に抱かれている歩月も、いつもと違う母に気が付いたらしく心配そうな顔で見上げている。
「優月。少しの間、歩月を見ていてくださいな」
「構いませんが……」
どうしたというのだろうか。いつもなら嫌がらせの様に夢月に頼んで、俺を引っ張っていくというのに。
本当に何事だろうかと訝しんでいると、抱いている歩月をこちらに寄越した母は、成り行きを見ていた夢月に視線を向けた。
「彼女は借りますね」
「母上?」
問うように呼んだ声に返事をせず、夢月を真っ直ぐに見つめたまま言う。
「お仕事です。調夢師に」
あぁ、そういうことか。だから母上は、いつもと違ったのか。ここ暫くなかったから気付くのが随分遅くなってしまった。
優しい顔などする筈がない。
今の彼女は俺たちの母親でなく、王の側室として臣下に命令を下しに来ているのだから。