10.願い
紅茶を一口飲んだ少女は、両手で包んだカップを下ろすのと一緒に視線も落とした。
「華月は現に戻りたい?」
ずっと夢に居られない事はわかっている。わかっているからこそ、そんな問い方をされるとは思っていなかった。
「意外だな」
「意外?」
首を傾げた彼女は目線を上げてこちらを見る。
上目遣いもなかなか可愛いではないか、なんて場違いなことを思いながら、ティーカップを持ち合上げて口に運んだ。冷めて温くなっているが、飲めないほどではない。
「問答無用で現に戻されるかと」
強引に戻されるかとばかり思っていた。
彼女がそういうことをしそう、というわけではなく、ただ単に調夢師の仕事がそうなのだと思っていたのだ。
「そんなことしない」
困った顔をした少女は、持っていたカップをテーブルに置いた。空になっていたため、ポットから注いでやると「ありがとう」と素直に礼を言う。
笑みを返した後、自分のカップにも注いで口を付けてみたが、渋味が出ていて少しばかり舌に残る。お世辞でも、美味しいとは言えない。
気にした様子もなく少女は一口飲み、そっとカップを置いた。
「私は、夢から覚めるためのお手伝いをするのであって、強制的に目覚めさせることはしない」
「……不便だな」
夢に居る者からすればありがたい話だが、調夢師の立場で考えると面倒くさそうだ。
現に戻すのが仕事だろうに、随分と生温い。戻りたくない、夢から覚めたくないと駄々をこねる者もいるだろうに。
だが、彼女は「そう?」と逆に不思議そうな顔をする。
「仕事しなくてはいけない身としては、不便ではないのか?」
改めて口に出して指摘するが、彼女は首をゆるく横に振った。
「起きる意志がないなら、現に戻った所で同じこと。また夢に逃げるだけだから」
無理やり現に戻しても無駄なのだ、と言う。
「なるほど」
納得はするが、もやっとする。
少なくとも私にこの職業が向かないことはわかった。気が長い者でなければ勤まらないだろう。
そこで、ふと自分の言動を振り返ってみた。
調夢師に正体がバレた時点ですぐに現に戻ろうとせずに、こうしてお茶会をしている。他人のことは言えない。
私も駄々っ子か。
手を伸ばしてクッキーを取る。何となく口に含んでみたが、思ったよりも美味しく感じられなかった。
「わたしは、逃げているようにみえるか?」
行儀悪くも片肘をテーブルにつき、手に顔をのせる。うっすらと笑みを浮かべるのは忘れない。
「見えない」
「即答か」
一体何を根拠にそう言いきれるのか。
呆れた顔を隠さずに前を見ると、真っ直ぐな瞳で見つめ返された。
「あなたを知る方が、現から逃げる方ではない、と言っていたから」
「随分と買ってくださっているようだな、その方は」
そして、彼女も随分とその人を信用しているようだ。全く歪んでいなくて、私には眩しい。
自分にそこまで肩入れしてくれる人はいただろうか、と考えてみるがすぐには思い浮かばない。
亡き実母は国王から寵愛を受けていたらしいが、身分の低さから周りの者からは疎まれていた。
その延長というか、寵愛されていた証である私も好かれていない。
表立って罵倒されるほどお粗末な振る舞いはしていないため、大っぴらに嫌がらせされないし、させないが、陰口叩かれていることは知っている。
まぁ、王女として衣食住は保障されていたし、しっかりと教育も受けさせていただいたので、文句は全く無い。
王女として人と接することが多かったため、華月として深く関わった人は殆んどいないが。
「どうして夢へ?」
「よくわからない」
決して、逃避を望んだつもりはなかった。
「私が、どこかへ嫁ぐ身だということは知っているか?」
その問いに、少女は頷くことで肯定する。
「その事に不満があるわけではない。王族の女として当たり前の事だしな。ただ……」
「ただ?」
「……会いたい人がいてね」
一度だけでいい、会わせてくれと頼んだが、皆、否と答えた。直談判しに行きたくとも部屋に軟禁されてしまいそれも叶わない。
「気付いたら、この有り様さ」
本当、情けない。窓からでも抜け出してやればよかったと後悔している。辿り着く前に捕縛されそうだが。
脱走した日には、前後左右を騎士や侍女に囲まれ自室までとぼとぼ歩く事になるだろう自分が目に浮かぶ。
「会いたい人は誰?」
意識を違うところに向けていたため、すぐに少女の質問に答えられなかった。
「……会わせてくれるのか?」
「絶対とは言えないけれど、夢なら会えるかもしれない」
思いもしなかった言葉に驚いて喜びかけたが「夢」という単語に少々がっかりしてしまう。
「夢なら、か。出来れば、現実で会いたいものだが」
ここでは相手が本物かどうかもわからない。曖昧なこの世界であの子に会っても、成長した姿を見られるかは微妙な所だろう。
無意識とはいえ、私でさえ幼い姿になっているのだから。
こぼしてしまった呟き声を拾った少女は、視線を落として「それは……」と悔しそうに言葉を濁す。
「悪かった。貴方に言うことではないのに」
慌てて謝罪するが、首をふるふると振るばかりで、こちらを見てくれない。
あぁ、本当に悪いことをしてしまった。彼女は好意で提案してくれたというのに。
自己嫌悪に陥っていると、少女はバッと勢いよく顔を上げてぶんぶんと頭を横に振った。
脳みそが揺れて頭が痛くならなければいいが、と心配になると同時に、その必死さが微笑ましく感じる。
「優しいな、貴女は」
その言葉に彼女は困った顔で笑みを作るだけだったが。
「会いたいのは、弟だ。私が住まう国の第4王子。名は……」
折角の話だ。好意に甘えよう、と相手の情報を話し始めると、少女の表情がみるみるうちに変わっていった。
真剣な表情で聞いていたかと思えば、目がだんだんと開かれていき、驚愕という言葉がぴったりな顔でぽつりと一人の名をこぼす。
言おうとしていた名と同じだったため「知っているのか?」と訊ねると、こくんと頷き返してきた。
「けど、それなら尚更許可をもらわないと連れてこられない。それと、相手の意志次第」
「ほう?……あの子は私に会いたくないとでも」
すっと目を細めて問うが、少女は動じず、むしろ睨み返す勢いでこちらを見てきた。
「わからない。……けど、あなたの事を聞いたことがなかったから」
知らない人に会いたいと思うかわからないと、少女は言う。
確かにそうだろう、と私は頷くことしかできない。
出会ったのは、まだあの子が言葉を話せなかった頃だ。最後に会ったのは、三つになった頃だろうか。覚えていなくとも仕方がない。
それでも
「可能性があるのなら会いたいんだ。どんな子に育ったのか、見てみたい。お願いだ、取り成してはくれないだろうか」
拒否されたらどうしようもないが、むしろ会いたくないと言われる確率の方が大きいのだろうが、僅かな可能性に縋りたい。
頭を下げると、「なぜ……」と少女が何か言いたそうに口を開いたが、それを遮って言う。
「ただの興味だよ」
顔を上げて言った私を見て、彼女はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少ししてから「わかった」とだけ頷いて返した。