1.迷子
そこは、真っ暗な空間だった。
暗いと言うよりも、黒いと言った方が正しいかもしれない。光が一つも差し込まない、遠近さえも狂うような、黒一色な視界。
今居る位置がその場所でいう下なのか上なのか、はたまた横であるのかすらもわからない。そんな場所だ。
いつも見ているような無駄に煌びやかな装飾もない、良い言葉ばかり吐く人間も、悪い言葉だけ言う人間もいない。
自分しか存在していない、独りの世界。
気付いたらここに居て、ずっとずっとこのままでも良いかもしれないと思ってた。
目に毒な虚飾も、醜い心が透けて見える言葉にも、もう飽き飽きしていた。息苦しくて仕方がない。
どうか放っていてほしいと、何度願ったことか。
真綿で首を絞められるような心地から解放されたくて、全てを投げ出したくなって、僕はー……
「みつけた」
もう少しで何かを思い出しそうになった所で、タイミングを合わせたようにそんな声が聞こえた。
自分以外は誰もいないハズだったこの世界で。
どこから聞こえたのかはわからない。けれど耳に届いたその声。
「優月、帰ろう」
過去にたった一度しか聞いたことがなかった声は自然と誰なのかがわかった。
意識すると、その人物の姿がぼんやりと見えてくる。だんだんと鮮明になっていき、見慣れた少女の型を取った。
この世界と同じ色の髪を持つ少女は、それでも同化せずに目の前に佇んでいる。
「な、んで……」
声が掠れた。まるで、長い間言葉を発していなくて、声帯が弱っているかのようだ。
「帰ろう」
質問には答えずに、少女は僕に手を伸ばす。
それを叩き落とした。
「お前一人で帰ればいいだろう」
じろりと睨みながらに告げる。もし彼女が俺を探しに来たのだとしたら、決して一人で帰れる筈など無いとわかっているのに。
それでも、嫌だった。もう、全てが嫌だった。
あんな場所に戻りたくなど無い。そうでなくては、なんのために僕は……したというんだ。
「……あれ?」
頭の中がごちゃごちゃしている。思い出せない事がある。
僕は、どうしてここにいるのだろうか。ここに来る前はどこに居たのだろうか。
そして、そこで何をした?
「だめ」
そっと僕の耳を塞ぐ手。
先程叩き落とした小さな手は温かさも冷たさも感じなかった。ただ、自分以外の何かが触れている事だけがわかる。
「思い出しちゃ、だめ」
悲しそうに顔を歪めて懇願するように少女が言う。
欠けた記憶を取り戻すな、と。
「早く、帰ろう」
そしてただ急かすのだ。帰ることを。
「……どこに」
なのに、少女はその問いにすぐに答えることをしなかった。
変わりに両耳を塞いでいた手を外すと、今度は僕の右手を包み込むように持つ。それは、大事な物を慈しむような仕草にも似ている。
「あなたが起きるのを待っている人の元へ」
どくん、と心臓が一際大きな音を立てた気がした。
「何を言っている……?」
「現の世界で、優月が目覚めるのを待っている人達がいる」
意味がわからない。そんな人間は居ないはずだ。
だって、僕は……!
「……それは、優月じゃないでしょう」
何かを思い出す前に、また少女が言う。
「連れて行かないで、わたし達の大切な人を」
悲しそうな顔をして僕の瞳を見て、知らない少女は言う。
そう、僕は彼女の事を知らない。知っているのは、この身体と魂の持ち主であって、僕じゃない。
「寂しいの」
独りは恐くて、寂しいの。
だから、一緒に来て欲しかったの。僕のお兄さまに。
「ここに居たら、あなたはずっと寂しいまま」
「けど、独りは嫌だよぅ」
僕が泣き出すと、少女は優しく抱き締めてくれた。
「大丈夫」
さっきは感じられなかった体温を、僅かな温もりをこの身体を通して感じる。
ずっと欲しかった温かさを、この身体以外はどうでも良いはずの彼女が僕にくれた。久しぶりにもらったそれは、泣きたくなるくらいに心地良い。
「あなたも一緒に帰ろう」
帰ろう、って、どこに?
「あなたを待っている人もちゃんと居るから」
うそだ。そんな人、僕にはいないもの。僕は、みんなのいらないモノだから。
嫌いだよ、うそは。心がじくじくするような嘘も、優しいけれど後から痛み出す嘘も。
だから、信じられないよ。
「いやだ」
帰る場所なんてないもの。僕がいない方が、みんな幸せなんだ。
「なら、約束しましょう」
「やくそく?」
そんな、信用できないことをするの?約束が守られることは殆んどないって聞いたのに。
よくわからない、彼女が考えることは。
「あなたも一緒に帰ってくれるなら、会いに行きましょう」
「え?」
「そうしたら、独りではないでしょう?」
とても甘美な誘惑。惑わされてはいけない。これもきっと裏切られてしまうのだから。
けど、少女がぎゅっと抱き締める腕に力を込めると、そんな不安は不思議と消えた。
「あれ……?」
「可愛い子。どうか、わたしの言葉を覚えていて」
そして、今までの事は忘れてしまって……
少女が言葉を重ねていくと、跳ね退けて居たはずの言葉達が次々と僕に染み込んでいく。
「おねぇさん、会いに来てくれるの?」
「約束する」
身体を離した少女は、そう言って微笑んだ。僕が初めて見た笑顔は、とても綺麗で温かかった。
暗い筈のこの世界にやっと一筋だけ差した光は、とても眩しい。
思わず目をつむってしまうと、少女は「こわくないよ」と目を開くように促す。ゆっくりと目を開くと、彼女の手の中に一輪の花を見つけた。
そう、見つけたの。さっきまではなかったはずなのに。
明かりを灯すその花は淡い青色でとても綺麗。とても不思議でじっと見ていると、彼女はその花を僕に差し出した。
「ちゃんと持っていてね?」
どうして、とは思ったけれど口には出さずにコクンと頷く。
少女は僕が頷いたのを見ると、また微笑む。心が少しずつぽかぽかと温かくなってくる不思議な微笑みだ。
「じゃぁ、帰ろう」
そう言って差し出された手を、迷いもせずに僕は取った。
「元気で生まれて来てね」
少女が何か言ったような気がしたけれど、僕には届かなかった。