自宅にて
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"切り裂きジャック"
1888年、倫敦で連続発生した猟奇殺人事件の犯人。売春婦が次々と殺され、いずれも死体は無残に切り刻まれ、またその後〈切り裂きジャック(Jack the Ripper)〉と書かれた手紙が通信社に送られてきたことから、この名がついた。
事件は迷宮入りし、犯罪研究家、推理小説家の好個なテーマとなった。
※※※
切り裂きジャックは殺人鬼。霧の都を震撼させた、恐怖の世紀の大犯罪者。
彼がどこにいて何を考えているのかなんて、誰も知らない。
◆◆◆
穏やかに燃える暖炉の前、私は椅子に腰掛けて手袋を編んでいた。
今晩は風が強い。閉め切った筈の窓を風が揺らしている。明日には本格的な嵐になるらしい。雨はまだ降り始めていないようだが、今夜は霧が濃いだろう。
ぱたり、と扉が開いた。
「…ただいま」
「お帰りなさい」
悄然とした様子で入ってくる彼を出迎える。
「ご飯は?」
「いらない…」
悲しげに俯いて、彼は力なく首を横に振る。
「そう」
私も無理には勧めず、上げかけた腰を下ろした。
「…」
「…」
しばらくの沈黙。彼はまだ外套を脱がず、ぼんやりと突っ立っている。
私は少し眉を寄せた。そのままでは風邪を引いてしまう。
「ジャック」
静かに彼の名を呼んだ。彼は緩慢な動作で顔を上げる。
「こちらに来て、暖炉に当たった方が良いわ。そのままでは寒いでしょう?」
「…うん」
彼は腕の悪い人形師に操られている人形のような拙い動作で、がくりと頭を前に倒して頷いた。のろのろと力なく濡れた服を脱いでいく。
暖炉の近くにある金具に服を引っ掛け、シャツにズボンに裸足といった格好で再び立ち尽くす。
「ジャック…?」
「ジェーン…抱き付いてもいい?」
私は編み棒と毛糸を籠に戻した。
「ええ、勿論よ。おいで、ジャック」
両手を広げると、その腕の中に飛び込んでくる。とは言ってもやっぱり向こうの方が身体が大きいから、抱き付かれるというより抱き込まれるといった感じになってしまうけれど。
その胸元に顔を埋めると、微かに血の匂いがする。
「…ジャック、お母様に会いに行っていたの?」
「うん」
そっと囁くと、拗ねたような声が肯定する。
「母さんね、酷いんだよ。知らない近寄らないでって、抱き締めてもくれない。ジェーンはこんなに優しいのに」
「そう…」
ああ、可哀想に。今回のお母様も、この人を受け入れてはくれなかったのね。
ずるずると身体が下がっていって、彼は私の足元に座り込んだ。縋るように私の腰を抱き込み、鳩尾辺りに頭を押し付けてくる。
その頭を、私は優しく撫でた。湿気を含んで艶の増した黒髪を梳き、頬を指で辿る。冷たくなっていた身体は、徐々に温かくなっていった。
「ねえ、ジェーン。歌って。いつもの歌」
「ええ、いいわ」
くぐもった声で懇願する彼に、私は笑顔で応える。だって、私は貴方のものだもの。
おやすみ おやすみ 可愛い坊や
どうか幸せな夢を見てちょうだい
次に起きたときには明日が来ているはずだから
おやすみ おやすみ 可愛い坊や
明日もきっと またその笑顔を見せて
その眠りは私が守るから
以前に繕い物をしながら口ずさんでいた子守歌が、彼は殊の外お気に入りらしい。かなりの頻度でこの歌をねだってくる。
今も、機嫌良さそうに耳を傾けていた。
その薄い唇にうっすらと笑みを浮かべ、深い紫色の目を細めて頭を擦り寄せてくる。身体は大きいのに、その仕草はとても可愛い。
まるで犬だ。毛艶の良い甘えたな大型犬。それとも子供かしら。臆病で賢くて甘えたがりで親の愛情を欲しがる幼い子供。
ああ、こんな子供が私も欲しかった。
病気のせいで子供を産めなくなった私。そのせいで婚約者に捨てられ親に家から叩き出された私。名前すら奪われた私。
拾ってくれたのは、彼だった。
最初は母さんと言って抱き付いてきたのに、次の日には名前を聞かれて。それからは決して私を母親にしてはくれなかった。私は、彼の家族になりたかったのに。
「ジャック」
「…ん」
「ジャック、眠いの?」
「んー?」
膝に乗せている頭が重くなってきた。きっと眠いのだろう、もう夜も遅い。
「ベッドに行きましょう?」
うとうとしている彼を肩に手を置くと、ぐずる子供のように頭を横に振る。子守歌をねだるくせに、寝たくはないだなんて。
頬に手を当てて顔を上げさせ、その額に口付けた。
「今日は一緒に寝よう。…ね?」
「…うん」
頷いた彼が、私の身体を持ち上げる。
片腕に私を抱いたまま暖炉で燃えている薪を火掻き棒で突き崩し、寝室に入って扉を閉めた。部屋の中央にある簡易なベッドに二人して横になる。
「お休み、ジェーン」
「お休みなさい、ジャック」
疲れと気落ちで限界だったのだろう。彼はすぐに寝息を立て始めた。
「…お疲れ様」
起こさないように注意を払いながら、その頬を撫でる。
彼は自分の母親を探していた。生まれてすぐの彼を捨てた、春を売る女を。
可愛がられた記憶など無いというのに、それどころか顔さえ覚えがないだろうに、彼は無心に母親を慕い切望していた。
いっそ病的なまでの執着。
だから、彼は会いに行く。母親だと思った女の元に。そして拒絶され、絶望と落胆の内に女を殺す。
その繰り返し。
病んでいるのだ。狂っているのだ。
だけど、そんな彼がこんなにも愛おしい。
その薄い唇に指を這わし、そっと唇で触れる。
小さく唸った彼が、私の身体を抱く腕に力を込めた。きっと反射的なものなのだろう。寝息は一定で、起きている様子はないから。
それでも幸せを感じる自分に苦笑して、私も静かに目を閉じた。
◇
次の日の新聞には、切り裂きジャックの犯行が一面を賑わしていた。
「ジャック・ザ・リッパー? 俺と同じ名前だね」
無邪気に言う彼の頭を撫でる。
切り裂きジャックは正体不明の猟奇殺人犯。
この場合のジャックは警察か新聞社が勝手に付けたもので、ただの仮名だ。ジョン・ドウやジェーン・ドウと同じ。ジョンという名の愛称で、意味は "名無し" だった。
適当に付けた名前が彼の名と一致するなんて皮肉な話。だけど、それも当然なのかもしれない。
だって彼は親に名前を付けられることなく捨てられたのだから。貧困街の片隅で、泥と汚水に塗れながら彼は育った。
記憶の欠如、不安定な情緒、偏った知識。
彼は、すべてがちぐはぐだった。
まるで子供のまま大人になったような、全ての良いものと全ての悪いものを混ぜ込んだような、美しさと醜さを共存させたような。
あらゆる矛盾を併せ持つ、混沌とした精神の男。
彼はきっと止まらない。母親を見つけない限りは。
そのために、いったい何人の女が犠牲となるだろう。
彼はいつまで捕まらずにおれるだろう。
…私はいつまで彼の傍にいられるだろう。
「ねえ、ジャック」
「何?」
「…何でもないわ。そろそろご飯を作るわね」
朝食を作ろうと立ち上がると、彼が雛のような様子で後ろを付いてくる。どうやら手伝ってくれるつもりらしい。
「ありがとう」
爪先だって彼の頭を撫でると、嬉しそうに笑う。
「ジェーン、ジェーン。大好きだよ」
「…うん。私も好きよ、ジャック」
じゃれてくる彼に応えながら、沸き起こってくるのは薄暗い想いだ。
母親ばかりを追う彼が悲しい。
彼の愛を一心に受ける母親が憎らしい。
彼の手にかかった女達が羨ましい。
それでも私は、彼が母親を見つける度に笑顔で送り出すだろう。
いつか、という期待を胸に抱きながら。
私の愛しいシリアルキラー。
その愛で、いつか私を殺して。
(そう、一番惨たらしく残酷に)




