ありがとう
【ありがとう】
(1)
朝美が繭のアパートを訪ねたのは、これで二回目だ。
一度目は入学式の日。
『入学式に来て』入学式の一週間前の朝に来た繭からのメールに、朝美は涙が出るほど嬉しかった。
小学校から高校まで、繭の入学式も卒業式も出ることが出来ず、ただ(今頃は・・・・)そう思うことしか出来なかった。
すぐに『行くよ』と返信したかったが、それはしてはいけないことのように思えた。
事情はどうあれ、娘を置き去りにして家を出たのは自分だ。今さら母親として繭の晴れ姿を見ることなど許されるわけがない。
(今頃は・・・・)。そう思いながら涙を流さず自分を責めることが、自分に許されたことだと思っていた。
繭からのメールを何度も読み『おめでとう。行きたいけど、私は行けないよ』そう返信出来たのは昼を過ぎてからだ。
いつもは、自分のことを「母さん」と名乗っていたが、そのときは「私」としか言えなかった。
『そっか、母さんも忙しいからね。仕事頑張って、それから、また香里に合わせてね』
繭からの返事は真夜中だった。
朝美は喉の奥がつまり呼吸さえ出来なかった。八歳になる甘ったれの娘、香里は朝美の隣ですやすやと寝息をたて、ときおり寝返りをしながら朝美の膝を蹴っている。
香里が初めて繭に会ったのは、去年のだった。繭の十八歳の誕生日に故郷に香里を連れて行った。
「お母さんはお父さんと結婚する前に、他の人と結婚してたの。その時に香里みたいに可愛い女の子が生まれてね」
香里に繭のことを話すのを夫は反対した。
「まだ、香里には理解できないよ」
夫は香里が朝美の過去を知ることを嫌った。そのたびに、朝美は自分の過去を消されるような不安と悲しさを感じるのだ。
どんなに苦しく、どんなに非難されようと過去を恥じてはいなかった。前の夫と結婚したことも、そして繭を産んだことも二人に申し訳ない気持ちはあっても、それは後悔とは違う。
後悔というなら、今の夫と結婚したことの方がしている気がする。
優しいが嫉妬深く、趣味も考え方も違う夫との生活は、幸せではあるが足りないものを感じていた。
それが、何なのかずっと分からずにいたが晴生に出会ってから漠然とではあるが分かってしまった。
夫とは恋愛をしたことがない。恋しくて悲しい記憶がないのだ。
胸の奥の奥にある何かが揺すぶられた感覚がないのだ。
前の夫と結婚する前に、朝美は他の男性と付き合っていた。何年もの間、その男性を想い続けていた。どんなに酷いことをされても、また愛してしまうのは、胸の奥の奥にあるものが、その男性を求め許してしまうからだ。
それを言葉にすると、魂とでも言うのだろうと、今は思っている。
夫に反対されるほどに、朝美は自分の過去を香里に伝えなければいけない気になった。
幼い香里には残酷なことかもしれないが、自分が自分であり、この先も香里の母親であり朝美という人間であるためには、そうしなければならないと感じた。
香里は「ママは香里のママでしょう」心配そうに尋ねた。
「そうだよ、ずっと香里のママだよ」朝美は泣き顔を見られないように強く香りを抱きしめた。
繭に会うと決まった香里は「お姉ちゃんがいるんだね」と無邪気に喜んでくれた。
それは、朝美に対する思いやりからだったかもしれないが、朝美は素直に嬉しかった。
そして、香里と繭は地方の駅ビルで同じパフェを食べ、朝美が選んだ服を買い笑顔で分かれた。
気を使ったのであろう香里は、帰りの電車の中で朝美に寄りかかり眠った。
繭からは『ママに似た面白い妹で良かったよ。ママと香里と買い物が出来て幸せだよ』
そうメールが届いた。
幼かった繭の服を選んであげることも出来なかった。
きっと、自分と香里が手をつないで歩いているのを見るのは辛かっただろう。それでも繭は『幸せ』と言ってくれる。
嗚咽を聞かれないように口を押えるのに苦労しながら、『ありがとう、ありがとう、ありがとう』と何度も同じ言葉を打って返信した。
それしか、言葉が見つからなかった。
それから、朝美と繭のメールにはよく香里が登場した。
真夜中のメールを眠れないまま何度も開いた。そして、朝になり香里が寝ぼけながら「繭ちゃんからのメール」と聞いた。
「うん、今度大学に行くんだよ」
寝相が悪く、くちゃくちゃになった香里の髪を、朝美は撫でて整えながら必死に笑顔を作った。
「香里も行くよ」
まだ小学生の香里は自分も繭と同じ大学に行くのだと寝ぼけながら言うのだ。
「ママも行く?」
高校しか出ていない朝美は、日頃から暇とお金が出来たら大学に行きたいと夫に話していたのを、香里は聞いていたのだ。
「そうだね、ママも繭や香里と同じ大学に行こうか」
寝言のような香里の言葉に、迷いが消えた。
『やっぱり、入学式に行ってもいい?繭の大学を見てみたいから』
また、迷わないうちにとベッドの中から繭にメールを送った。
(2)
繭のアパートには女の子らしいものはなく、朝美が買ってあげたノートパソコンだけが赤くキラキラしていた。
今日、繭のアパートに来ることは晴生だけが知っていた。
初めて繭と香里があった日のこと、繭の入学式で号泣したことを晴生に話していたら、繭の顔が見たくなったのだ。
「少しの時間でも行ってくればいいじゃない」
晴生は朝美の話を笑いながら聞き、そう言った。
「でも、時間がないよ」
抱きしめられただけだが、晴生との距離はそれまでとは違っていた。
言葉も今までのように選ばずに使い、晴生も何十年も前から知っているように気楽に接していた。
短い時間だが、朝美と晴生はよく繭のことを話した。
生まれた時から、今までのことを全部朝美は晴生に聞いてもらった。
朝美の話に晴生はいつも意外な感想を言う。
「繭は幸せだって言ってくれたんだ」
朝美が薔薇の花束を作りながら言うと、そばで聞いていた晴生は「幸せなんじゃない」と当たり前のように答える。
「だって、過去なんて記憶でしかないでしょう。未来は予想だけで何も起こってないし、幸せなのも、不幸せなのも今だけだよ。
だから、今は幸せなんじゃない」
朝美が拘っている過去を、晴生は記憶でしかないと教えてくれた。
そして、その記憶は大切だけど、現実ではないとも言う。
分かりずらい話だが、朝美には良く理解できた。
だから、晴生と話をするのが好きなのだ。傍にいるのが幸せなのだ。
朝美は晴生の提案で、花屋の開店時間を少し遅らせて繭に会いに行った。
繭に話したいことも、繭から聞きたいこともたくさんあるが、時間は少ない。
「飽きるほど時間が欲しいよ」
朝美は晴生に言った。
「そうだね、そう思っているうちは恋で、飽きてからが愛なんじゃない」
晴生の言葉を繭との関係に置き換えると、今は繭に恋をしている。母親が娘に恋をするなんて変だ。
「幸せじゃない。娘に恋をする母親なんてめったにいないんだから」
晴生は冗談じゃなく言う。
「そうだね、幸せでいいんだよね」
朝美は晴生と話をすると、背負っているものを少し下ろせる気がする。
「ねえ、繭、私、あんたに恋してるんだよ」
朝美は帰り際に繭に言った。
「相変わらず変てこ母さんだね」
繭は苦笑いした。
「うん、変てこなんだ」
娘に変てこと言われて悪い気はしなかった。
「また、遊びに来てね」
繭は初めてしたマニュキアの指を広げアパートの前で朝美に手を振ってくれた。
「うん、会いにくるよ」
朝美は男のように顔の横に手を上げ短く、短く手を振った。
帰りの電車の中で、朝美はこのことを早く晴生に知らせたいと思った。
繭が大口を開けて笑う男の子を好きになったこと、その男の子にちょっと嫉妬したこと。
そして娘に恋をしていること。
(ありがとう)
朝美はいろんな人にそう言いたかった。