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気体から  作者: はるあみ
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死にたくないね


【死にたくないね】



 朝美の店に晴生が来るようになったのは、銭湯で出会ってから二日後だった。

「花壇を作ろうと思うんです」

 庭いじりなどしないと言っていた晴生が、言いだした。

「いいですね、きっと奥様も喜びますよ」

 朝美は自分で言った「奥様」という言葉に自分の胸に小さな棘が刺さるのを感じて不思議に思えた。

「違うんです。僕の家はマンションですから庭なんかありません。ちょっと秘密の花壇を作りたくなったんです」

 晴生は秘密の花壇という言葉を恥ずかしそうに言った。

「なんですか、秘密の花壇って」

 ちょっと淫靡な響きに朝子は顔を赤らめながも、聞かずにはいられない。

 子供の頃から好奇心が強く、自分で試してないと気が済まない性質なのだ。

 自分が納得するためには、校庭の土も食べてしまう。

 校庭の隅にあった甘い香りのする花。その花が甘いのは土のせいではないかと朝子は考えた。土を指先で掬いくんくんと鼻を鳴らしすが甘い香りなどしない。そして、その指先を鼻から口元にもって行き舌でぺろりと舐める。

「秘密というほどじゃないですね。ただ、橋の下に花壇を作ろうと思っただけなんです。

 前に住んでいた浮浪者がタンポポを集めていたたいで、白い花が群生してるんですよ。

 今は空家のようなので、ちょっと僕が使わせてもらおうと思って」

 晴生が職業安定所の帰りに人通りの少ない橋が架かっている。

 その道を通ると遠回りになるのだが、夕方の早い時間に商店街を通る気にはなれず、ついその道を通ってしまう。

 狭く浅い川の底には土が溜まり、溜まった土にコンビニの袋が引っ掛かりゆらゆらと揺れている。

 そんな川を見ながら、晴生は「なんで生きてんだろう」と思うのだ。

 四十五年間でおおかたのことはし終わった。もともと、大きな夢があって生きてきたわけではない。

 ただ、目の前で起こることをとりあえず終わらせた。今、考えれば就職も結婚も子育ても、すべて目の前で起こった出来事を終わらせるだけのことだった気がする。

 いま目の前に起こっていることは、先の見えない再就職活動。

 またゼロから何かを始め生きていく理由が晴生には見つからない。

「なんで、生きてるんだろう」

 そう考えながら橋の下をると、浮浪者さえも見捨てた場所があった。

 いつか自分があの場所に行くのだろうか。

 最初は目を背けたくなる場所が、いつもまにか最後のいに思えた。

 いの場所に花を飾ろうと思ったのは、朝美の店で安い鉢物の花を買ってからだ。

 花が買いたかったわけではなく、ただ朝美に会いたかった。

 その理由は分からないが、朝美に出会ったから気が付くとあの時のことを思い出している。

 銭湯の駐車場で笑顔で立っている朝美。

「行ってたいな」

 朝美は秘密の花壇の話を聞きたがった。

「秘密の花壇って言うのはやめましょう。橋の下の花壇です」

 自分で言いながら晴生は花壇の名前を変えた。

「それは可哀想ですよ。せめて、川の花壇かな」

「では、川辺の花壇でいいでしょう。川の花壇より語呂がいい」

 晴生も朝美も顔を見合って笑った。

 その日の帰り、朝美は晴生に内緒で川辺の花壇を探した。

 橋の上から眺めると、花壇と名乗るのが恥ずかしいほどのお粗末なもので、ただ朝美が売った二つの花が植えられているだけだった。

 あの人は、どんな思いで花を植えたんだろう。きっとシャベルなんかないから、爪に土を詰まらせながら穴を掘り、そして鉢から花を出して植えたのだろう。

 朝美はその姿を思い浮かべると悲しくなった。

 草の生い茂った短い土手をり、朝美も手で土を掘り持ってきた花を植えた。

 そして、その周りを河原で拾った石で囲い花壇を作った。

「朝美さんですよね。花壇を作ってくれたの」

 店に来た晴生は恥ずかしそうに朝美に尋ねた。

「ごめんなさい、勝手なことをして」

「ありがとう」

 朝美は「ありがとう」と言われたことよりも「朝美さん」と名前を呼ばれたことが嬉しかった。

 今まではふざけたように「店長さん」と朝美のことを呼んでいたのが、その日から「朝美さん」と自然に呼んでくれた。

 店に来るたびに晴生はいろんな話をしてくれた。そして、朝美も夢中になって話をした。

 ほんの1時間ほど、店の暇なときを見計らうように晴生は現れ、朝美の淹れたハーブ茶を飲ながら話をしてくれた。

 花の話から食べ物の話、そして自分が生まれた町の話。

「東京の下町に生まれたんだ。周りはんな貧乏だった気がする。だって、風呂なんかなかったんだから」

「私は漁師町だったから、東京で魚を買うと損した気がするの」

 晴生が生まれた場所と朝美が生まれた場所は百キロほど離れている。

 そして、今は十キロも離れていない場所に辿りついた。

 晴生が「なんのために生きてるのかな」そう言いだしたのは、花壇を作りだしてからひと月ほど過ぎた頃だった。

 ふたりで河原の石を拾い花壇を飾りながら晴生は言った。

「なんのためだろうね」

 朝美も何度もそんなことを考えた。特に離婚をし娘と会えなくなったころはいつも考えていた。

 自分で借りた狭いアパートで缶ビールだけを身体に流し込生きる意味を探していた。

 それに答えがないことは分かっていたが、他に何も考える気になれなかった。

 顔の色は抜け、髪はパサパサになりながら、このまま死ねるのではないかと思っていた。

「死にたいよ」何度もひとりで呟いた。

 そこから、少しだけ抜け出した頃に夫に出会いまた、娘が生まれた。

 今は死ねない。それが今生きる理由なのだ。

「死んじゃだめだよ」

 朝美は涙ぐ晴生に言った。

「駄目なのかな」

 晴生は涙ぐむ朝美に驚きながら聞き返した。

「駄目だよ。晴生が死んだら、生きていけない気がする」

 朝美は「晴生」と呼び捨てにしたこと、「晴生が死んだら生きていけない」と言ったことに自分でも驚いた。

「そんな」晴生は真剣な顔で「死んじゃ駄目だ」という女性を抱きしめた。

 ふたりで作った花壇には色とりどりの花が咲き川面の風に揺れている。

 抱きしめられた朝美は身体の力を抜き、晴生の体温を感じながら目を閉じた。

 体がひとつになる。それはふたりが同時に感じたことだ。

 ほんの何秒かだけの抱擁。身体を離した晴生は「ごめん」と言いかけてやめ、「死にたくないね」と言って笑った。

 朝美も晴生の笑い顔につられ「うん」と頷いて笑った。


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