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気体から  作者: はるあみ
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ここに居たんだね

【ここに居たんだね】

 

(Ⅰ)


 会社を辞めた晴生は想像していた以上に再就職に苦戦していた。

 それなりのキャリアがあったとしても、それを必要とする仕事は少く職業安定所と求人会社に何度も足を運び、その度に落胆する。

 スーツは痛靴は磨り減るが、買い替える気にはなれない。服や靴だけでなく体も心も埃が積もるのを感じていた。

 ちょっとだけ休もう。

 晴生は目についた銭湯に入り財布から千札を出した。

 自動券売機の前で髭剃りを買うか迷ったが、(百ぐらい、いいさ)と心の中で自分を侮蔑してボタンを押した。

 仕事が忙しかった頃の晴生は、ひと段落するとひとりで銭湯に行き、自分に成果を確かめていた。

 最近の銭湯は露天風呂もサウナもある。たっぷりと汗を流し夜空を眺める。

目をつぶり、自分が夜空に吸い込まれのを想像するのが好きだった。

 露天風呂の湯気と一緒に舞い上がり空を抜け宇宙に辿り着く。そこでは、肉体はなくただ気体となった自分が星々の間を揺れている。

 すると、外から「お花を買ってかえりませんか」と言う花売りの声が聞こえてきた。

 湯船の中から聞こえる花売りの笑い声は、どこかで聞いた気がする。

 誰の声に似ているのだろうと思いだそうとしたが、どうしても思い出せない。

 バラぐらいしか花の名前などしらない晴生だが、どうしても、その花屋から花を買いたくなり、急いで風呂から上がった。

「どれにしますか」

 軽自動車の後ろを開け、小さな鉢植えと花束を売っていた女性が晴生に声をかけた。

「どれがいいんですかね」

 晴生は花をている振りをしながら、女性ばかり見ていた。

 三十歳半ばだろうか。丸い顔に丸い目、明るく染めた短い髪。

 花を売るのが嬉しくてしかたないのだろうか、ニコニコと笑っている。

「奥様にプレゼントですか」

 妻に花なぞ送ったことのない晴生は、世の中には、そんな外国映画たいなことをする男もいるのだろうが、どうにも自分には似合いそうもない。

「そういう訳ではないのです」

「では、ご自宅にですか」

「まあ、そんなとこです。でも、庭いじりとかは好きじゃないんです」

「じゃあ、これは如何ですか」

 女性が差し出したのは白く四角いプラスチックの鉢植えにピンクと黄色の花が広がる様に咲く可愛らしいものだった。

「綺麗ですね」

 女性が両手で包むように持った鉢を受け取ると微かに指先が触れた。その指先は冷たく荒れていたが、まるで吸い付くような感触だった。

「あまり水をあげすぎないようにして下さいね」

 女性は触れたことさえ気づかないように、また晴生の手から鉢を受け取るとビニールの袋に入れ「昼間はここでお店をやってます。小さいお店ですけど、良かったら来てください。もっとたくさんの花を準備してますから」

 そう言って晴生に名刺と買った花を手渡した。

 フラワーショップ[ぺこり]と書かれた店の名前の下には小西朝子と女性の名前が柔らかく丸い文字で印刷されている。


(ここに居たんだんね)


 その名刺を貰った晴生は、なぜか頭の中でそんな言葉が出てきた。


(Ⅱ)


 朝美は気がつくと晴生の姿を探していた。

 売れ残った花を思い切って軽自動車に積込んで売りに行った日に、初めて晴生に出会った。

 朝美が花屋を始めたのは半年前だった。香里が生まれてから専業主婦をしていたが、香里の幼稚園で知り合った友人に誘われて花屋のバイトを始めたのは半年前だった。

 花を育てるのは昔から好きだったので、の水仕事も大きな花瓶を運ぶ力仕事の苦にはならず、それ以上に仕事が出来ることが楽しくて仕方がない。

 もともと、家で家事をしているより外で誰かと関わるのが好きなのだ。素直すぎるほど生真面目に人に接する朝子は、それだけに傷つくことも多かったが、それでも朝子は花屋として人に喜んで貰えるのが好きだった。

 仕事を始めて半年すると、友人はレストランを始めると言い出した。

「このお店はどうするの」

「花屋よりもビストロの方が儲かるたいだしさ。あなたもビストロで働きなよ」

 夜はワインを飲ながら食事が出来るフレンチのビストロを開くというのだ。

 飲食店が嫌いではなかったが、半年間で花屋が自分の天職のようにおもえてきた。

「よかったら、この店買う」

 朝美は自分のお店を持つ。そんな考えたこともないような夢が目の前に現れたことが、驚きと喜びとなって全身を包んだ。

 そして、友人に手伝ってもらうことを条件に店を買った。

 銀行からの借金と夫からもお金を借りた。

「絶対に返すから」

 朝美の言葉に夫は苦笑いすることしか出来なかった。

 走り始めたらまらない性格であることを夫は良く知っていた。この件でも何度も夫は「素人が商売なんかすると上手くいかないよ。花屋は他にもあるんだから」

 そう説得したが、朝美は聞かなかった。

「夢だったんだよ。自分の城をもつのがさ」

 それは、忘れていた夢だった。子供の頃、一人で遊ぶのが好きだった朝美は、大人になったら自分のお店を持ちたいと思っていた。

 自分の好きなものだけを出すレストラン。

 自分で選んだおもちゃや雑を並べたお店。

 それはなんでも良かったが、自分だけの場所がしかった。

 それから半年が経ち、店は赤字と黒字を行ったりきたりの状態だった。

 前に受けていたフラワーアレンジの仕事は、朝美の技術では断るしかない。

 店に来てくれる客だけを相手にしていては、家賃や光熱費、銀行への返済だけでいっぱいいっぱいだった。

 そして思いついたのは、移動販売だった。

 銭湯の駐車場で野菜を買ったことがあった朝美は、銭湯に頼んで花を売らせてもらうことにしたのだ。

 お風呂で温まりリラックスした人たちは、花屋の前で足をめてくれる。

 売り上げはさほど多くはないが、それでも何もしないよ買ったよ、星がきれいな寒い夜に晴生が現れた。

 それは、まるで空からいつの間にかりてきたように、そこに立っていた。

「ここに居たんだね」

 晴生が何気なく言った一言に胸の奥に一瞬電気が流れるような感覚を覚えた。



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