生まれてよかったの
【生まれてよかったの】
地元から少しだけ離れた地方都市の駅ビルの中で、繭は母親を待っていた。
父と離婚した後も、母の朝美は欠かさず誕生日プレゼントをくれた。
まだ、小学生だった頃は通学路にある公園で手の温もりが残る本を少し寂しそうな笑い顔で手渡してくれた。
「お父さんには内緒だよ」
母のくれる本を抱え、ほんの短い間だけ繭の話を嬉しそうに聞いてくれる母。
父も母も離婚の原因については教えてくれなかったが、近所に住む祖母からは、母はひどい女なのだと聞かせれていた。
「あんな女に、あんたを育てられやしなかったんだ」
祖母の言葉を聞くたびに、自分は生まれてきて良かったのだろうかと考えた。
しかし、誕生日に会う母は、祖母が言うように子供を平気で捨てるような酷い女には思えない。
優しくて、明るくて、自分にはない元気をもった素敵な女性だった。
本当の母親はどっちなのだろう。酷い女なのか、素敵な女性なのか。
繭は思い悩、素敵な女性であることを選んだ。
自分は捨てられたのではない、今は会えないだけなのだ。
そう思うことで自分を励ましていた。
そして、十五歳の頃からは父に内緒で朝美とメールをするようになった。
携帯電話の着信音は悩んだ末に母が歌っていいたという昔の曲にした。
その音が流れるたびに、友だちからは「なんか、ちょっとだよね」と笑われるが、繭はそれでいいと思えるのだ。
自分と朝美の関係は(なんか、ちょっと)なのだから。
そして、その(なんか、ちょっと)の着信音を聞きメールを開くたびに「生まれてきてよかったんだよね」と心の中で呟き、体温が少し上がるのを感じていた。
高校三年になった繭は夏ごろから進路に悩んでいた。
進学をしたいと望んでいたが、父にはそのことを言いだすことは出来ずに学校にも進路は未定としていた。
「大学には行きたいけど、きっとオヤジは駄目だって言うだろうし、それにお金がないのも分かってるからさ。でも、地元にも就職はないんだよね」
繭は母からのメールに初めて進学のことを書いて返信した。
友だちとのメールには目にも留まらないほどの速さで動く親指が、母に打とうとすると自分でももどかしいほどに遅くなる。
「繭が大学に行きたいなら、行けばいいよ。
お金は母さんがなんとかするから。繭は諦めずに父さんを説得しなさい」
Vサインの絵文字で母からメールが返ってきた。
「うん、今晩話してみるよ。ありがとう」
繭は何度も母からのメールを読み返し、そして返信の文章を書き直して送った。
それから、父親とは何度も話をした。言いたくはなかったが、お金は母親が出してくれると言ってくれたことも告げた。
その頃には父親も繭が朝美とメールをすることも、ときおり会うことも黙認してくれていることを知っていた。
「あいつは金があるんだな」
父は不貞腐れながら大学に行くことを許してくれた。
学校の成績が良かった繭は、すぐに大学の推薦をもらい春からは東京に行くことが決まった。
「金は俺が出すけど、奨学金も貰えよ」
父に奨学金制度と言うもを教えたのは繭だった。
粗野で酒癖が悪い父を繭は軽蔑することもあったが、決して嫌いではなかった。
子供好きとは思えない自分勝手な男だが、自分をちゃんと育ててくれた。
自分さえいなければと思うこともあるが、
「生まれてきてよかったのかな」と聞く気にはなれない。
私は道端の石ではない。父と母から生まれたのだ。
親の愛と言うのがどんなものなのかは分からないが、生まれたのだ。
そして、これから会う見知らぬ幼い子供も、私の妹として生まれてきたのだ。
初めて母が再婚し娘がいるのを聞かされたのは、大学を合格した日だった。
「おめでとう。春からは近くに暮らすんだね。楽しみだよ」
そして、春になったら話そうと思っていたことを、「実はね」と言いにくそうにメールしてきた。
(なんで、今なの)繭は独身で自分だけの母親だと思っていた朝美の告白に涙が零れた。
理由が分からない悔しさに返信さえ出来なかった。
大学に行くのをめようかと何度も迷った。母親の傍に行くことが嫌で仕方がない。
「ごめんね、ずっと黙っていて。もうメールをしちゃ駄目だよね」
眠れない夜を二回過ごした後、朝美からメールが届いた。
「今はどんなに悲しくて、涙も涸れ果てて、もう二度と笑顔にはなれそうにないけど」
繭はメールを読ながら母からの着信音にした歌を口ずさ、この歌を母がどんな気持ちで何度も何度も歌ったのかを考えた。
でも、その答えは繭には分からない。それでも、繭はその歌を口ずさむとスラスラと親指を動かし「妹に会いたい」と返信した。