生まれたかった
【生まれたかった】
紙袋を手にして帰ってきた晴生を妻の恵美は「おかえりなさい」といつもと変わらぬ無感情な言い方で出迎えた。
夫が会社を辞めると聞いた時は「なんとかならないの」と何日も何度も聞き返したが、事情を説明しない晴生に、もう何も言う気になれなくなっていた。
ただ、この先の生活のことを考えると不安で仕方なく自然と涙が溢れて来る。
そんな両親の様子を大学二年になった息子は何も言わずにいたが、内心は妻と同じように心配だった。
しかし、自分も将来はサラリーマンになるであろう息子の雄大には、母とは違う自分の将来に対する不安もあった。
大学に入った二年前から、雄大は学生演劇のサークルに入った。シリアスな芝居からュージカルまでやる大所帯のサークルの中で、雄大は好んでコメディーのオーデションを受けて小さな役を貰っていた。
芝居もダンスも歌もやったことのない雄大がそのサークルに入ったことを、晴生はさほど驚かなかった。
なぜだか、それもいいんじゃないか。そんな感想しか出なかった。
「すごく楽しそうなんだ。結構、みんなマジだしさ」
そして、今は十二月の公演に向けて夜遅くまで学生会館の片隅で稽古をする毎日が続いていた。
「なんか、雄大の芝居ってちょっと大げさすぎるんだよね」
演出をしている北野美咲季が雄大に向って舌打ちをする。
「でも、ここは大騒ぎするシーンだからさ」
雄大なりに考えた演技なのだが、子供劇団からずっと芝居をしてきた北野が素人の反論など聞く耳は無い。
「なんかさ、雄大はシリアスな芝居はいいと思うんだよね。特にシーン二十二みたいに伏し目がちにする芝居はさ」
見た目の良い雄大を北野は良く使ってくれた。ストーリーに関係なく背が高く手足が長い雄大が舞台に入ると、それだけで舞台が華やぐのだ。
しかし、今回は準主役として舞台に立たなければならない。オーディションに受かった時は有頂天だったが、稽古が進むにつれて後悔ばかりしてしまう。
恋人で同じサークルにいる沙織には、ついそんな弱気なことを言い嫌な顔をされる。
「やっぱり、まだこの役は俺には無理なんだよね。他の連中とは基礎が違うしさ。なんか芝居をぶち壊してないかな」
今回の公演では裏方に回っていた沙織も、芝居を始めたのは雄大と同じように大学に入ってからで決して上手ではなかったが、本気でプロを目指していた。
「あのさ、芝居なんて稽古していけば上手くなるとおもうんだよね。それよりも、舞台でどれほど輝くかの方が大切じゃない。
雄大にはそれがあるんだから、堂々としてればいいのよ。演出の美咲季の言うことなんて気にしなくていいと思うよ。ネガテイブなんだよね、雄大は」
自分には華があるなどとは思ったことはない。中学では、まったく目立たず、高校でもクラスの中心にいるようなタイプではなかった。そんな自分に華があるなどと言われても信用できるはずもなく、(では、なぜ演劇サークルになど入ったのだろう?)と自問するばかりで励ましにならない。
半年前から付き合いだした沙織には、ときおり違和感を感じている。
「なんか、温度差って言うより違うお風呂の温度を測っている感じなんだよね」
それは、雄大がサークルとは関係のない友だちに話したことだ。
「でも、沙織は可愛いしお前をすっごく好きじゃない。それだけで十分でしょう」
友だちは、全部が全部相性が良いなんてことはありえないと言うのだ。
雄大も贅沢を言うつもりはないが、何かしっくりこない。例えるなら、似たようなピースをはめて完成させたジグソーパズル。
「雄大はなんのために生まれたと思うの」
沙織はそんなことを聞く女性だ。
「生まれたかったから」
考えても出ない沙織の質問に雄大は答えた。
二十年ほどではあるが、苦しいことや嫌なことはたくさんあった。それは他人からみれば子細なことかもしれないが、雄大にとっては生きることをやめたくなるようなこともある。
それでも、雄大は「生まれたかったから」と自然に答えた。