生まれてきたんだね
【生まれてきたんだね】
「また、座れなかったね」
少しだけ生まれた町のイントネーションが残る小西朝美は、八歳になる娘の香里に微笑ながら言った。
「うん。でも他の人が座れたから良いよね」
そう言われた朝美の視線の先には、朝美よりも十歳は上であろう中年の女性二人が、デパートの大きな買い物袋を足の間に挟んで座っていた。
田舎生まれで田舎育ちので、三十歳の時に東京に出てきた朝美は、デパートで買い物などしたことがなかった。
自分も後十年して、四十八歳になればデパートで季節の服を買い電車の座席に座れるのだろうか。
デパートのバーゲンセールの話を楽しそうにする女性から目を逸らし、ビルが流れ、その隙間に家が流れる景色を電車の窓から眺める香里の頬っぺたを手のひらで撫でた。
「冷たいよ」
香里はそう言いながら、朝美の手を自分の小さな手で包み嬉しそうに笑い返した。
朝美と香里が向っているのは、朝美が育った街で、朝美にとっては幸せも悲しもごちゃごちゃに詰まった場所だった。
朝美はその場所で最初の結婚を二十歳の時にした。
相手は高校の同級生で大工の見習いだったので、朝美が働いてやっとの生活の中で二人の間に娘が生まれた。
ままごとのように始まった夫との暮らしは、現実の中で喧嘩と後悔に埋もれていた。
そんな失望の中で自分に宿った命は、朝美にとって希望だけが膨らんで幸福感をもたらしてくれた。
「生まれてきたんだね」
まだ、顔もていない赤ん坊に何度もなんども泣きながら話かけた。
それは、香里がお腹に入った時にも言った言葉だが、その意味は少し違った。
朝もやが立ち込める朝の始まりに生まれた赤ん坊を朝美は心の中で「霧子」と呼んだが、
夫の両親に繭と名付けられた。
「まゆ」朝美がその名前を毎日呼べたのは、三歳の誕生日が過ぎるまでだった。
そして、十八歳の誕生日に初めて香里と繭を合わせる決心をした。
極度の嫉妬と暴力に怯え繭を残して家を出た日から朝美が繭のことを忘れた日はなかった。
繭を失った喪失感と夫への恐怖の中で暮らす朝美をっ救ってくてたのは、優しい今の夫だった。朝美の望むことを全て叶えてくれようと必死になってくれる夫。
その夫との間に香里が生まれたときは、喜びと罪悪感で鬱になり暫くは育児も出来ず、繭との短く幸せな日々を思い出していた。
「繭に会いたい」
朝美は我慢していた言葉を夫に告げた。
夫は「会いいに行ってきなよ」と快く言ってはくれたが、内心は今の幸せを壊される不安と、過去に戻ることへの苛立ちが胸の中に渦巻いていた。
それから、朝美は何度か前夫に内緒で繭に合いに行った。
声もかけず通学路から友だちと楽しそうに歩く繭の姿を見るだけの再会は悲しが深くなるばかりで、朝美の心をもっと壊した。