生まれてきてたんだね
【生まれてきてたんだね】
「どうしてもですか」 会議室の隅に立った八代晴生は、高層ビ ルを森を背負うように窓辺に座った上司 の背広の元を見ながら上司に尋ねた。
「八代くんの働きには大変感謝もしているし、能力も高く評価してるよ。でもね、 仕方ないよね」 背広の襟元に社章をつけた上司の言う仕方がない事態というのを簡単に説明すると、八代の働いている印刷機械の部品を 作っている会社が、親会社に合併されてしまい、八代が長年働いていた部署の人員が余ってしまったのだ。
「八代君の持っている法律的なスキル は、きっと他でも十分に役にたつと思うんだよ」 後二か月で無くなってしまう会社のバッチを弄りながら、上司は八代の靴先に目を落とし、決して顔を見ようとはしなかった。
「そうですか」 合併後のポストをなんとか掴んだ上司も決して楽な訳ではない。この先何年も いつ自分の席を失うかを心配しながら過ごさなくてはならないのだ。
M&Aなどと世間は言うが、会社と会社がくっつくと言うのは、その中にいる人間にとっては、まだまだ大変なことな のだ。 座ってた椅子から立たされ、椅子取り ゲームが始まる。それは立派な革張りの 椅子も硬く小さな椅子も同じことだ。
合理化とは座る椅子を減らすことなの だから。 そんな理不尽に思えることに八代のよ うな四十半ばのなんの政治的な思想もなく、強力な団体にも属さない男が思ったところでどうなくわけでもなく、「そう ですか」と言って会議室から出ることしか出来ない。
(いったい俺は二十年も何をしてきたんだろう) 西日の差す会議室のドアを後ろ手に閉めた日から数えて二週間、紙袋に私物の筆記具や電卓、それにマウスパットやマグカップ入れた八代が、通いなれた地 下鉄の階段を下りながら心の中で何度も自分に問いかけてた。
(なんのために、生まれてきたんだろう)
子供の頃にはなりたいものもあったし、したいこともあった気がする。
しかし、今はそれがなんなのか考えても考えても思いつかない。それどころか、何が食べたいのかさえ 思いつかないほどに意欲がなくなっている。
そんな普通のオジサンが、新しい仕事 を自分で探し、そこに溶け込めるとは容易には思えない。
「生まれてきてたんだね」 地下鉄の階段が終わる二つ前で、後ろの方から女性の声がした。
振り向いたが、地上の光を背負ったスーツを着た数人のサラリーマンが、 足早に階段を下りているだけだった。