夢の場所
【夢の場所】
雄大の最後の芝居が初日を迎えた。今回は繭も少しだけ舞台に上がる。
「女優だね」
繭が久しぶりに電話をしてきた。
朝美は人見知りだった繭が舞台に立つことなど想像したこともなかった。
繭は成長したのだ。自分が知らない十五年間の間に、繭はちゃんと大人になろうとしている。
朝美は嬉しさと、その過程を見ることが出来なかった悲しを同時に感じていた。
(過去は記憶、未来は予想。現実は今だけ)
前に晴生が言った言葉を思い出した。
記憶を変えることは出来ないが、未来はどんなことが待っているか分からない。
「記憶や予想に悲しむより、今少しでも幸せがあるなら、それを楽しめばいい」
その言葉は晴生自身に言い聞かせてもいるのだ。
十五年たった繭は、自分を恨むことなく芝居に招待してくれる。繭の記憶の中では、朝美を恨んだこともあったはずだ。
それでも、今は「恥ずかしいから、私の芝居は観なくていいよ」と言いながら公演の日時を知らせる。
「ちょっと舞台に出たら、すぐにまた照明もするんだよ」
繭はプロの照明に必死で頼んで一度だけスポットライトを操作させて貰えることになった。
「仕方ないね」
女の照明師は繭の気持ちを汲取り快く承諾してくれたのだ。
「あの男の子でしょう。繭が好きな人」
朝美は繭のメールにときおり雄大が出てくることを嬉しく思っていた。
「誰のことよ」
繭は耳が熱くなるのを感じながら必死で平静を装うが、朝美の追及は止まらない。
「あの大口を開けて笑ってた男の子でしょう。かっこ良いし礼儀正しくて優しそうだよね」
「えっ」繭は恋の話をしたことがなかった。いつか誰かを好きになったら、朝美に相談したいと思っていたが、今の雄大への気持ちを上手く表現できない。
それでも、ときおりそんな気持ちを聞いてしくてメールでは雄大のことに触れていた。
「とにかく、来週の水曜だから」
繭は公演の時間と場所を告げると、これから、また稽古をするのだと言って電話を切った。
「初舞台だな」
楽屋の隅で青い顔をしている繭に雄大は声をかけた。
「絡みはないけど、お前と同じ舞台に立てて良かったよ」
雄大は繭の横に立ち台本を見ながら言う。
「逃げ出したいよ」
セリフのない繭も台本で顔を隠しながら呟いた。
「あそこは夢の場所だぜ。あそこで起こることは全部夢なんだ。だから、逃げしたりせずに飛び込まないと損だよ」
雄大は肘で繭の腕をつつき、他の人には見えないように台本で顔を隠しながら大口を開けて笑ってくれた。
「幕が開くぞ」
舞台監督が緊張した声で大声を出した。
「よし、いっちょやりますか」
雄大は繭の肩を叩くと、舞台の袖へとしっかりとした足取りで進んで行った。
「雄大、最後の舞台だから思い切りやりなよ」
袖で待っていた沙織が雄大のお尻を叩く。
「任せろよ。主役を食っちゃうぜ」
そんな二人のやり取りが眩しいと繭は思った。
「ここは夢の場所」雄大の言葉が耳に残った。




