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気体から  作者: はるあみ
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ITK

【ITK】


「これが最後の舞台になると思う」

 雄大が沙織にはなしているのを、繭は傍で聞いていた。

 稽古場にしている学生会館の廊下では、他のメンバーが好き勝手に芝居の話をし、繭は黙って台本を見ていた。

「本当に就職活動するの」

 沙織はがっかりしたように雄大の顔を見つめる。

「するよ。役者で食っていけるほどの才能もないしね」

 秋の公演が終わったら、雄大は本格的に就職活動をするつもりだった。サークルにいる他の三年生はほとんど就職活動をする気がなく、将来も芝居を続けるつもりだ。

 雄大もずっと迷っていたが、これ以上母親の沈んだ顔を見ているのは辛かった。

 父の晴生が専門学校に行きだした頃から母親は父にも自分にも何も言わなくなった。

 それまでは、口うるさく夜中に帰っても待っているような母だった。

「みんな勝手にすればいいのよ」

 母は誰も食べない夕食を冷蔵庫にいれながら呟いた。

 父が会社勤めをしていた時から、それほど仲の良い夫婦ではなかったが、それが普通だろうと雄大は思っていた。

 自分勝手で自由にいたい父と、何事も計画通り進めたい母の相性が良いとは思えない。

 なぜ、そんな二人が結婚したのか雄大には不思議だったが、きっと結婚なんてそんなものだろうと思っていた。

 どちらかと言うと、無計画で自分勝手な雄大は、自分は家庭には向いていないと思っている。

 その点では沙織は恋人として向いていた。家庭に入り子供を育てることになど興味はなく、自己表現こそが生きている証拠だと思っているようだ。

 家庭には興味はないが、母親を悲しませるのは嫌だった。それに、自分には芝居の世界よりも普通の社会の方が向いている気もしている。

 幼いころから芝居をしたり音楽に携わっていた他のメンバーとは生きてきた過程が違うのだ。

 ここまでの道のりは、これからの道のりに続く。その道が自分には芝居でないと感じていた。

「別に慌てて就職しなくてもいいじゃない」

 沙織はいつまでも、雄大とこの場所にいたいと思っていた。

 この場所に永遠にいれないことは沙織にも分かっていたが、まだ、抜け出すには寂しすぎる。

「お前は頑張ればいいじゃん」

 最近の雄大は冷たい言い方を沙織にしている。

 そのことは、近くにいる繭にも分かった。

 そして、繭の好きな大口で笑う顔も減った気がする。

 雄大の素っ気ない言葉に沙織は泣きそうになり、「そう」とだけ言うのがやっとだった。

 沙織が泣き顔を見られないようにトイレに行くと、雄大は繭にだけ聞こえる小さな音で舌打ちをした。

 繭はそんな雄大を見るのが嫌だった。沙織と仲が悪くなるのを見るのも嬉しくなかった。

「今度の芝居、難しそうですね」

 繭は台本を睨つける雄大に話しかけてした。

「うん、俺下手だからさ」

 雄大がやりたかったのは、配役とは違っていた。もっとコミカルな演技で観客を沸かせたいとずっと思っていたが、雄大に回ってくる役は、気の弱い真面目な役ばかりだ。

 しかも、チョイ役ばかり三役もこなさなければならない。

「下手だから」それは雄大がよく使う言葉だが、繭にはそうは思えない。

 確かにコミカルな役や派手な踊りは似合わないと思うが、舞台に立つ雄大には他の人には出せない雰囲気があった。

 目立たないが、そこにある雰囲気。

 繭はそんな雄大の芝居が好きだった。その芝居を見るのも、これが最後なのだという実感がまだ繭にはなかった。

 あの夜。夏の芝居が終わった打ち上げの夜に雄大が言った「好きだよ」の意味が今でも分からないし、その後、そんなことを言うことはなかった。

 しかし、雄大と繭の間にはそれまでとは違う関係が続いている。

 二人きりで出かけることもないが、お互いに何かを感じていることは繭にも分かった。

 それは幸せと呼ぶには、ちょっと苦しい。

「ITKだね」

 今でも繭のアパートに入り浸る美貴は、缶チューハイを飲ながら、馬鹿にする。

「何よ、そのITKって」

 繭も美貴が買って来た缶チューハイを飲ながら、ITKの意味を考えた。

「いいとし片想い。略してITK」

 よほど面白かったのか、美貴は自分で言っておきながら大笑いした。

「片想いかな」。繭にはそうは思えなかった。

片想いは切なくても幸せだ。でも、雄大への想いは違う。

 それをなんと言えばいいのか。


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