チューリップありますか
【チューリップありますか】
「照明さん、頑張れよ」
大学三年になった雄大は、舞台で使う踏台を作りながら、べニアにペンキを塗っている繭に話しかけた。
新入生歓迎公演では、予算の関係でプロを使うことはない。
大道具から音響、そして照明まで全て学生たちが行う。何も言わなず大道具になった繭を照明係に推薦してくれたのは雄大だった。
「出来ないよ」
繭は断ったが、「大丈夫だよ。秀栄もいるからさ」
雄大は事前に秀栄という同級生に繭のことを話していた。
「俺が無理に入会させたんだから、絶対に頼んだからな」
雄大と同じように役者としては冴えない秀栄は、将来ショービジネスの世界に入りたいと思っている。そのために、いろんな裏方の勉強に熱心だ。
照明の仕事も、他の劇団まで行って学んだ。
「いいよ」
秀栄は快く雄大の頼を聞いてくれた。
大学に入ってから演劇に目覚めた雄大と秀栄は良く演劇論を朝まで話し、自分も将来は何かの形で演劇に関わりたいと雄大も考えていたが、それが難しいことも分かっている。
雄大の「失敗なんて気にすんな、みんな失敗するんだから」という言葉に、仕方なく繭は照明の仕事を引き受けた。
『照明をやるんだけど』
サークルでの仕事が増えてから、朝美へのメールの回数は減っていた。
『良かったね、頑張りなよ』
あまり、頑張れという言葉を使わない朝美だったが、その時は嬉しくなって言ってしまった。
『見に来る?』
舞台に立つわけではないので、見に来ても仕方ないかと思ったが、繭は朝美を誘った。
『いいの?』
繭がどんな学生生活をしているのか、朝美は見て見たかった。
『良かったら、香里も連れてきなよ』
香里と一緒に繭が頑張っている姿を見に行ける。朝美は嬉しくて涙が出てきた。
そして、そのことを晴生に言いたくて仕方がなかったが、晴生とはすれ違うだけで、メールさえもしなくなったいる。
毎日、鼻の下を擦って通り過ぎる晴生に、朝美も鼻の下を擦って返す。ただそれだけのことしか出来なかった。
繭の舞台は無事に終わった。秀栄の横で繭は必死に照明のスイッチを入り切りした。
そのタイングは完璧とは言えなかったが、芝居を台無しにするようなことはなかった。
秀栄があてるスポットライトには、沙織が浮かんでいる。そして、舞台の袖では大道具の雄大がその姿を見つめていた。
会場の外で出演者が観客との面談をしている間、繭は急いで朝美のところに駆け寄った。
「どうだった」
繭はきょとんとしている香里に聞いてみた。
「うん」
分かりづらい演出は出演者にも不評だったが、小学生の繭には何がなんだか分からないドタバタにしか映らなかったのだろう。
「面白かったよ」
朝美は舞台と反対にある照明ばかりを見ていたので、首が少し痛くなっていた。
「完璧じゃん」
朝美の笑顔に繭は素直に喜んでいると、近くに雄大が通りかかった。
大口を開けて繭を褒める雄大は、朝美と香里に気が付くと、大口を閉じて会釈をした。
「本日はご来場ありがとうございます」
丁寧な雄大に、朝美はなんと答えたら良いか分からず「いつも娘がお世話になってます」と、その場には似つかわしくない挨拶をして、繭を困らせた。
「これからタタキでしょう」
繭はまだ何か話したそうな朝美から雄大を開放するように急かすと、「私もすぐ行くから」と雄大の腕をさりげなく押した。
「タタキってなに」
騒々しい会場の雰囲気に飲まれ大人しくしていた香里が小声で繭に尋ねた。
「舞台を壊すことだよ。後片付けだね」
他にも繭は香里に芝居のことを少し教えると、香里は目を輝かせて、その話に聞き入った。
朝美と繭が会場を出たのは、夜の十時を過ぎていた。
気がつくと朝美の携帯電話には何度も夫からメールと着信があり、さっきまでの楽しい気分をすっかり消し去ってしまう。
『遅くなりすいません、今から帰ります』
朝美がうんざりした気分でメールを送ると、すぐに夫から電話がかかってきた。
「いま、電車のなかだから」
朝美が切ろうとしても夫は質問をやめようとしない。
「どうして遅くなったの?香里はまだ小学生だよ」
携帯電話から聞こえる夫の声は、朝美を責めていた。
「ごめんなさい」
朝美は他の乗客に気をつかいながら小声で答えるが、夫にはその気配が分からないようだ。
どうにか夫の電話を切ると、繭からメールが来た。
『今日は遅くまでありがとう。また、次にやるときには来てね』
さっきまで話していた夫の顔を思い浮かべ溜息をつき、そして「必ず行くよ」とメールを返した朝美の横では、香里が寝息をたてていた。
舞台を見に行った翌日、晴生が店に入ってきた。
「チューリップってありますか」
二か月ぶりに聞いた晴生の言葉は、どこかよそよそしく悲しかった。
「ございますよ。どれがよろしいですか」
朝美も他の客以上に丁寧にショーケースに入ったチューリップ取り出して晴生に見せた。
「他人行儀だね」
晴生が先に笑った。
「だって」朝美は「他人でしょ」という意地悪を言いかけてやめ、晴生につられて笑った。




