林檎
真っ白な、本当に影すら埋もれてしまいそうな真っ白な服を着ている女はその手に真っ赤な林檎を持っていた。
不完全な赤い球は女の白い服を背景にその輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、もう滴り落ちそうな深紅が、これ以上ない瑞々しさで静かに光を反していた。その不完全な球の端にかけての緩やかな曲線の色は、赤に染まる前のかすかな黄色と緑の混沌とした色合いを見せており、それが熟する過程にある林檎の快活とした生命力を十分に表していた。
女の横にはベッドが置かれていて、白い毛布に顔色の悪い、いかにも病人という風な男が身を隠すようにくるまっている。
女はその横の小さな椅子に腰掛けているのだ。
やはりこれも真っ白な壁紙が四方に迫るこの部屋は、ほとんどベッドが占領しているような広さだったが、窓だけはやたら大きく開いていて、取り込んだ陽光に清潔な空気と爽やかさを交えながら部屋の隅々まで染み込ませていた。
生気の無い男はその爽やかさの中で沈んで見えるのでも、暗く見えるのでもなく、唯そこに存在しているという気配がぬけ、あちらこちらに虚しく散乱して、白い空気に紛れるように少しずつ消えていくのだった。ベッドの上にある体は布団に覆われ、あるのかないのか定かでない気さえした。
対照的に林檎はあのはっきりとした輪郭に囲まれ、確かな存在感を無言のうちに示していた。
真っ赤な皮の下には甘味な果実の緻密な肌が、その奥深くに黄色い蜜を湛えてあるのだろう。
男は滴る果汁の感触を想像してみた。
女は唐突に男の見詰める林檎に持ってきた果物用の包丁を入れ始める。
窓にかけられた薄い膜のようなカーテンがわずかに風を孕んだ。
小気味好い音を包丁にすりつけて、林檎は皮を剥かれていく。
「もう大分具合は悪いの?」
手元に集中している目を緩め、女は男に尋ねる。それでも林檎は少しずつ美しく皮を剥がされていく。
風が女の細い髪を優しく掻き撫でた。
「うん、もう大分悪いだろうね。話すのにも息が乱れるくらいだ」
しかし男が乱れるという息遣いは弱弱しすぎるのか、ほとんど聞こえもしなかった。
「いつ死ぬの?」
女の瞳は溶ける様な柔らかさで窓の陽光を取り込みながら男をとらえた。
男は答えず林檎を見ていた。
林檎は女の手の中でゆっくり回されながら、あたかもそれが当然であるかのように皮がすりぬけ、円を描いて剥けていく。
「ねえ、いつ死ぬのよ」
女の口調は穏やかに、男に尋ねる。
男はやはり答えず、表情ひとつ変えることもなかった。
男の胸の深奥には澱のように降り積もる悲しみがあったかもしれなが、男はそれを考える気力までも喪失し、衰弱していた。
「僕が死んだら悲しいかい?」
それでも残り少ない力を内から搾り出すようにして男は言った。乾ききった、布の擦れるようなかすれた声だった。
女は答えず、沈黙の中で林檎を剥き続けている。
暫くして、女は皮の残り少なくなった林檎を見ながら言葉の断片を繋ぎ合わせたような静かな声で呟くように話し始めた。
女の顔は横たわる男より上の位置にあったから、その声は霖雨のような感触で男に降ってきた。
「昨日の夜に家に帰る途中、近道をしようと思って公園を突っ切ったの。そこは小さな公園で、外周を囲むようにして木が植えてあるのよ。その木の幹に脱皮している蝉を見つけたの。丁度街灯の近くだったからよく見えたわ。殆ど脱皮は終わっていたみたいだったけどね。あんなに神秘的な虫の姿があるとは知らなかった。羽の淵は何とも言えない、たくさんの色が混ざったような薄い緑で、羽にはその緑の筋が何本も網目のように通っているの。羽自体は濁った様な白で全体的には淡い色なんだけれど、周りが暗いし木の色が濃かったからそこだけ浮き立っているように見えるの。本当に綺麗だったわ。ああ、でも蝉のぬけた後のあの背中がぱっくり割れた殻は駄目ね。気持ちが悪い。あれは駄目」
女の手の中の林檎は、ようやく全部剥けたようだ。赤い皮の中から生まれ出てきた黄色い実は、初めて触れる外の清新な空気を吸って、甘い香りを漂わせていた。
女はその黄色い林檎を片方の手に乗せて、手を台のようにしながら器用に切り始めた。包丁は染み出てくる新鮮な果汁に濡れて、何か生き物の体の表面のようにてらてらと光っている。
男はそれを見詰めながら、先程の自分の質問の後の女の沈黙の空気を、悲しみすら感じられない弱った体のどこかで静かに反芻していた。
「あなたいつ死ぬの?」
林檎を切り終えた女は再び男に尋ねた。
男は弱った体に、わずかに感情の感覚が蘇ってくるのを感じた。
男の心が例えば水だったとしたら、その問いは非常にゆっくりと舐めるように水面に波紋を描き、もう音という意識を超えて、長い残響を溶かしながら深く沈んでいったことだろう。波紋の、わずかな水の盛り上がりで光を反す輪は最大の広がりを見せたあと、静かに消え入る。しかし水に溶けた残滓は清麗な水を少しずつ腐らせていった。水底には重い澱みが溜まる。それは鈍い感覚だった。
女は口に林檎を含んだ。
あの瑞瑞しい果実が女の口の中で砕ける音を、男は目をつむって聞いていた。
「ひとつくれないか」
男はゆっくりと目を開いて女の手に残る最後のひときれを見詰めた。
しかし男のかすれたあまりにも小さな声は女の耳まで届くことはなかったようだ。
女は林檎を食べ終えると、男の方など見向きもせずに部屋を出て行った。
女の座っていた椅子のあとには林檎の皮だけが残っている。
あれだけ深い赤で果実を包んでいた潤うような皮の水分はすっかりぬけきり、椅子にへばりつくようにして端の方から萎びて縮んでいた。先程まで林檎を美しく輝かせていた窓からの陽光は、今度は皮から水分を奪い取りそこらに散らした。
男は再び、目を閉じた。