変態神と病弱少女に恋する少年
「よう、少年。今日も変態を貫いてるかい?」
そいつはそう言って、何の前触れもなく俺の前に現れた。
年齢は二十代前半と思われる、グラマーな体躯をした美女。さぁっと吹く初秋の風が、その明るい色のセミロングヘアーを揺らしている。
夏から秋へと季節が変わり、高校も夏休みから明けて、二学期が始まったばかり。そんな暑くもなく、寒くもなく、日差しがちょうどよい暖かさを演出してくれる九月上旬の気候を楽しむために、俺は午前中の授業をサボって、校舎の屋上に来ていたわけだが……。
屋上の手摺り付近に座り込み、背中を預け、見上げた先に人(それもとびきりの美人)がいるとは、夢にも思わなかった。
見上げる寸前までは誰も居なかったし、気配も感じなかった。第一、どこから、どうやって現れたというのか。信じられずに瞬きするが、それでも美人さんは俺の視界から消えず、俺の頭上――屋上の手摺りに仁王立ちし、確かにこちらを見下ろしている。
深紅のスニーカーとダメージジーンズに、白いTシャツ、フード付きの黒いコート。顔立ちは端整で、中世的。彼女は実に爽やかな笑顔を浮かべて、言う。
「何だい、人の顔をじっと見て。あっ、さてはアタシがあんまりにも美人なんで、惚れた? 惚れたな? いやー、はっはー、参ったねぇ、こりゃ!」
わざとらしく後ろ頭を掻く美人さん。
俺は我に返って、慌てて立ち上がり、手摺りから離れる。
「いや、つーか、あんた誰だよ!? 一体、どこから現れて……」
「うんうん、当然の疑問だねぇ。何しろ、君が見上げた途端、アタシが頭上に現れた。それも何の気配もなく。さて、どうしてだと思う?」
「どうして……って」
「3、2、1、ぶっぶー、残念ー、時間切れでーす! 答えはアタシがズバリ、『神』だからさ!」
「……あっ、もしもし、警察ですか? ウチの高校にですね、変質者が――」
「ちょっ、少年! 携帯取り出してどこに連絡してんの!? 本当なんだって! アタシ、神なの! リアルに!」
「信じられるか、そんなもん! 第一、神様がそんなラフな格好してるわけねーだろ!」
「それは偏見だな、少年」
美人さんもとい変質者は、ばっと手摺りから屋上の床に降り立つ。
「神というのは、君が思っている以上に、人間に近しい存在なのだよ。故に、時代が変われば、神の姿や形というものも変わる」
「……それっぽいこと言ってるけど、神と言われて、はいそうですかと納得出来るような適応能力は、俺にはない。神なんているわけがない!」
俺からすれば、目の前の美人さんは、真顔で変なことを言う頭のおかしい人にしか見えない。
隙あらば、今すぐにでも屋上から逃げ出したい気分だ。
美人さんは肩を落として、首を横に振る。
「やれやれ、まるで変態を見るような目だな」
「当然だろ!」
「君自身も変態だというのに、他人を変態だと認識すれば、そんな目をするのか? 自分のことを棚に上げて、随分と酷いじゃないか」
「何?」
「アタシが何の神なのか教えてあげよう。アタシは『変態の神』だ。世の変態達の妄想や欲望、想いが形となったもの。それがアタシなのさ。……だから、私には見える。変態達の放つオーラってやつが!」
美人さんは、びしっと人差し指を俺に向ける。
「少年よ、誇るがいい! この変態の神が、神という名に誓って保障しよう!」
自称・変態の神は言い放った。
「君は紛れもなく変態だ! 性癖はズバリ『病弱萌え』! 違うかね!?」
「!」
心臓が跳ね上がるのが、自分でも分かった。
そんな馬鹿な。分かるはずがない。
俺がまだ小学生の頃、幼馴染の少女にバレて、変態だ、最低だ、不謹慎だと罵倒され、それ以来、親しい男子の友達にすら隠し続けてきた俺の性癖『病弱萌え』が、初対面であるこの美人さんに分かるはずがない。
彼女が、本当に変態の神様でもない限りは。
「あんた……どうしてそれを……!」
「言ったろう? アタシは変態の神だと。少年、神が人の前に現れるのは、何故だと思う?」
不意に彼女は、俺の目元に手の平をかざす。
手の平が退き、視界が開けると、美人さんの姿はどこにも無くなっていた。
驚いて、辺りを見回す。
「アタシ達は――」
彼女は寸前まで立っていた俺の眼前から、十メートル程離れた場所――屋上の手摺りの上に再び立っていた。
「!?」
正直、開いた口が塞がらない。
あり得ない。彼女が俺の目元に手の平をかざしていた時間は、わずか数秒。
そんな短時間に、音も無く、気配も無く、どうやってあの位置に移動出来るというのか。
これではまるで……瞬間移動じゃないか。
そんな俺の心中を見透かすように、悪戯っぽい笑みを浮かべ、美人さんは手摺りの上を軽やかに歩く。四階建ての校舎の屋上、その端の端、手摺りの上を、一歩踏み外せば死んでしまうかもしれない場所を、彼女は舞い踊るように歩く。
明るいセミロングヘアーを秋風の中に揺らしながら、自称・変態の神は言葉を続ける。
「――神という存在は、人間という存在なくしては存在し得ない。何故ならば、神というのは人間が作り出した想いの形『想像』だからだ。したがって仮に、人間がこの世から一人もいなくなれば、神という存在もこの世から居なくなる。神はよく人間達から崇められるが、神は人間達が自ら生み出している『想像』に過ぎず、絶対的な存在ではない。人間から、定期的にあるものを貰わなければ、神はその存在を維持出来ず、消滅してしまう」
「……何が言いたいのか、ちっとも理解出来ない」
「つまりだ、少年。アタシが君の前に現れたのは、というより、存在しているのは、君が他ならぬ変態であるという証明なのさ」
「自分が変態の神様だから、変態のところにしか現れない、とでも言いたいのか?」
「おおっ、正解! まさしくその通りだよ、少年! 正確には、アタシは変態の前でしか存在出来ないってことなんだけどね。もしくは、変態にしか認識出来ないという言い方でもいいか」
ぱちぱちぱち、と拍手する美人さん。
それから「どっこいしょ」と手摺りに腰を下ろし、俺の目を見て言う。
「まぁ、そんなわけで、君の性癖である『病弱萌え』はアタシに筒抜けってわけだ。とりあえず、幾ら隠しても無駄だってことを認識して欲しい」
「……」
「あー、そのジト目は、まだ信用してないって感じ?」
当たり前だ。生まれて十七年間、神様という存在に遭遇したことは一度たりともない。
そう簡単に認められるものか。認めた瞬間に、世界の見方が変わってしまう。
俺が無言で睨み続けていると、美人さんは「ふーむ」と唸って、右手の人差し指を立てた。
「少年。君は頻繁に屋上に来ているだろう。よほどのことがない限り、夏だろうが冬だろうが、一日に一回は屋上に通っている」
「だからどうした」
「問題は、その理由だ。君の性癖に関することなら、アタシは全て理解している。何せ、変態の神だからね。少年、君は――」
彼女は立てた人差し指を、ある方角へ向ける。
「あれを見る為に、毎日屋上に通っているのではないかね?」
「なっ……!」
屋上から見える、学校から数百メートル離れた場所にある、白く大きな建造物。
この街の、総合病院。
心臓の鼓動が早くなり、背中からは冷や汗が出て、握り拳に無性に力が入る。
「ち、違う!」
「何が違う? 君がこの高校を選んだ理由は、あの病院が近くにあったからだろう? まぁ、ついでに君の自宅から近かったという理由もあるにはあるようだが、仮にこの学校が遠く離れた場所にあったとしても、君はこの高校を選んだはずだ。それ程に、君はあの白い病棟に魅力を感じている。白い病棟の中にいるであろう、病に伏した身体の弱い少女達に、君は恋焦がれている! 故に、こうしてムラムラとして来た時は、授業をサボってまでも屋上に出て、白い病棟を眺めながら、薄幸の病弱少女達の姿を、頭の中で妄想していたのではないのかね?」
そこまで言われた途端、恥ずかしさとか、理性とか、世間体を守る為のセーフティーロックみたいなものが、俺の頭の中でまとめて弾け飛んだ気がした。
「……何が悪い」
固く握り締めていた拳は、いつの間にか開き、自然と口から言葉が零れ出た。
「――妄想して何が悪い! ああ、そうさ、あんたの言う通り、俺は病弱萌えな変態だよ! ゲームとかアニメとか漫画に出て来る病弱少女が可愛くて仕方がない! 変態だろうさ! 最悪の性癖だね! 自分でも分かってるわ、そんくらい! 不謹慎なのも知ってる! でも、俺は、生まれつき病弱で外に出られない女の子とか、身体にどうしようもない欠陥を抱えている女の子とか、彼女たちがそれでも懸命に生きようと頑張っている姿がいとおしくて仕方がないんだよ! どうしようもないくらいに愛しているんだ!」
「ほう」
「だけど、実際に病気を抱えている人や、病気で苦しんだ経験のある人からすれば、俺は人の気持ちも知らない、人の不幸を見て興奮するような最低最悪な人間でしかない。実際、小学生の頃に、そのことを指摘して、俺を殴って叱ってくれた女の子がいる! だから俺は、この性癖を表に出さないように、誰にも迷惑を掛けない様に、今日までずっと妄想の中だけに抑えて来たんだ!」
言ってから、俺は深呼吸をする。
気持ちを落ち着かせて、まっすぐに美人さんの目を見た。
「……確かに俺は変態だ。けれど、その変態さは妄想の中だけに止めてる。今後も絶対、誰にも迷惑を掛けないと心に決めてる。だから、他人のあんたにどうこう言われる筋合いはない」
「ああ、知ってるとも」
美人さんは、にかっと笑う。
「え?」
「君が変態であることをいつアタシが責めた? 責めやしないさ、少年。なにせ、私は変態の神だからね。そもそも人間なんて生き物は、皆、すべからく変態さ。しかし、世の中には礼儀ってものがある。社会の中で生きて行くには、他人との円滑な関係が必要不可欠だ。だから、礼儀ってものが存在している。変態性というものを抑えて生きて行かなくてはならない。それだけのことさ。君はちゃんと礼儀ってものが分かってる。変態以前に、人間として正しき生き方だよ。変態性を理性で抑えられない奴は、変態とは言わん。そりゃあ、ただの頭がおかしい人間さ。しかし――」
彼女は手摺りから降りて、再び俺の方へとやって来る。
「そんな正しき変態であるところの君は、最近、自分が変態であることに悩み始めている。違うかい?」
「それは……」
「アタシはそういった悩める変態達の手助けをし、代わり変態達からあるものを貰う為に、こうやって現れるのさ」
「あるもの?」
「うん、ギブアンドテイクってやつだね。先にも言ったが、神は絶対的な存在なんかじゃない。人間から定期的に『あるもの』を貰わないと存在を維持出来ないんだよ。それを貰う代わりに、神は人間に、一時的な力を与える。願いを叶える、と言ってもいいかな。まぁ、そんなわけで」
美人さんが俺の前に立ち、唐突に手を伸ばして来る。
「あっ」
と思った時にはもう遅い。彼女の人差し指が、俺の額につんと触れていた。
「少年、君に力を授けよう」
美人さんはそれだけ言って、手を引っ込める。
何が起きたのかもよく分からず、瞬きをすることしか出来ない俺に、彼女は言う。
「君に与えた力は、望んだ相手を一人、風邪に出来る力だ。病弱萌えの性癖を持つ人間ならば、一度は夢見る力と言えよう。誰に使うかは君の自由。好きな女の子を風邪にするといい。もしかすると、普段とは違った一面を見られるかもしれないぞ? ただし、選べるのは一人だけ。使った瞬間に能力は消滅する。風邪の効力は、望んだ翌日から二十四時間。風邪とは言っても、諸症状に似た物が出るだけで、特に身体に害はないから安心しろ。あくまで擬似的な風邪に過ぎない」
「望んだ相手を風邪に出来る? そんな馬鹿な話が――」
あるはずがない、と言おうとした、その時だった。
ガタン!
屋上と校内を隔てる扉が勢いよく開き、一人の少女が肩を怒らせながら現れた。
「松下!」
「げ」
赤いフレームの眼鏡の奥にある瞳が、ぎろりと俺を捉える。
「やっぱりここにいた! 私が席替えで教室の前の方になったことを利用して、授業中にこっそり教室を抜け出すとは、この卑怯者! 二年五組のクラス委員長として命じます! その横顔、一発ぶん殴らせなさい!」
俺のクラスメイトで、クラスの委員長、そして幼馴染でもある黒髪三つ編み赤フレーム眼鏡の少女――梅宮加奈は、全身に怒りと殺気の混じったオーラを纏いつつ、ずんずんとこちらに歩いて来る。
「い、委員長! 違うんだ! 教室を抜け出したのは気分が悪くなったからで、最初は保健室に行こうと思ったんだけど、途中で外の空気が吸いたくなって……」
「だったら何故、教室を抜け出す前に先生に何も言わなかったのかしら?」
「そ、それは授業の邪魔になると思ったからで」
「嘘付け!」
俺の前まで来た委員長は、容赦なく俺にボディーブローを放つ。
「ぐほぉ!?」
見事に鳩尾にクリーンヒットし、俺はその場に崩れ落ちる。
「小学校から、かれこれ八年の付き合いになる私に、今更そんな嘘が通じると思うてか! どうせまた、病院を見ながら病弱少女を看病する妄想に耽ってたんでしょ、この変態!」
「き、今日はまだ耽ってない!」
「昨日も一昨日も耽ってたってことじゃねーか!」
「いてぇ!?」
とどめとばかりの強烈なチョップが、俺の脳天を直撃する。
委員長は、仰向けに倒れた俺の両足を両脇に抱え、「さっさと教室に戻るわよ!」とずるずる引きずって行く。
ふと、俺の視界に、手摺りに腰掛け、楽しそうな顔をしている美人さんの姿が映った。
彼女はこちらに向かって、手を振りながら言う。
「その力で、何かが見つかることを祈ってるよ、少年。グッドラック」
「あ……」
何か言葉を返そうとする前に、委員長が俺の身体を校舎内に引きずり入れ、自称・変態の神は、視界の外に消えてしまった。
委員長と一緒に、教室までの道のりを歩く。
「ったく、あんたはいつもいつも! 少しは委員長である私の負担を無くそうとかいう気配りが出来ないわけ!?」
授業中のクラスがある為、声を小さめにしながらも、委員長は先程からずっと怒鳴り続けている。
「別に、委員長に迷惑を掛けてるわけではないじゃないか。わざわざ教室から抜け出してまで、俺のことなんか探しに来なくたっていいのに」
「他の生徒なら別にここまでしないわよ。だけど、あんただけは違う。小学生の時からの腐れ縁で、サボる理由も、サボる場所も知ってるのに、それをみすみす見逃すなんて出来るものですか! あんたはね、この私が、自らの手で、とことん更正すると心に決めてるの。覚悟しなさい。その病弱萌えを、高校卒業までに絶対に治してやるんだから!」
「その台詞、中学校の時にも聞いた気がするんだけど」
激しくデジャヴだ。
当時、病弱少女を妄想する為に保健室に通っていて、俺を探しに来た委員長に殴り倒されて、一緒に教室へと向かう途中に言われた台詞だった気がする。
「あんたが想定外に変態過ぎて、全然、一向に治る気配がないから、高校二年の現在まで掛かってんでしょ! 少しは反省しなさい!」
「そんなこと言われてもなぁ……」
簡単に治らない性癖だから、変態と言うのではないか。
ふと、委員長が赤フレーム眼鏡の位置を整え、急に落ち着いた声で言った。
「で、今日は結局、何の為に屋上に行ってたわけ?」
「え?」
「さっき、今日はまだ妄想に耽ってないって言ってたでしょ。それとも単なる嘘?」
「いや、嘘じゃないけど……委員長、何でそんなこと聞くんだ?」
「ふん、何年あんたの不細工な顔を見せられてると思ってるわけ? あんたの様子がいつもと違うからに決まってるじゃない。何を企んでるの?」
「いや、特に何かを企んでるわけでは……。つーか、不細工って……。でも、まぁ、俺の様子が変だとしたら、あいつのせいかな」
「あいつ?」
「ほら、俺と一緒に屋上にいたじゃん。変な女。黒いコートとジーパンの」
「女?」
ぴくりと委員長の眉が動く。
彼女は足を止め、俺の方を振り向く。
「女って誰?」
妙にドスの効いた声だった。加えて、何故か眼鏡の奥の瞳が、怖いくらいに鋭い。
「え、ええと、初対面で誰だかは知らないんだけど、変な女だよ、うん。二十代前半くらいの。美人ではあったけどさ。委員長も見ただろ?」
「そんな女、私は見てない」
「はい?」
「見てないって言ってんの。あんた、私が屋上に行った時、一人で突っ立ってたじゃない。それとも、直前まで誰かと一緒にいたのかしら? その美人さんとやらと」
あれ、どういうことだ? 美人さんは俺の隣に立っていたはずだ。俺達が屋上を去る時は手摺りに腰掛けていたけど、少なくとも、屋上には居た。間違いない。
委員長が彼女を見ていないはずがない。
そこまで考えたところで、美人さんが口にした言葉が脳裏を過ぎる。
――正確には、アタシは変態の前でしか存在出来ないってことなんだけどね。もしくは、変態にしか認識出来ないという言い方でもいいか。
まさか、委員長には、美人さんが見えていなかった? いや、そんなはずは……。
「松下」
名前を呼ばれて、我に返る。
委員長の顔を見た。眉間に皺が寄りまくり、瞳がその切っ先で人を刺し殺せそうなくらいに鋭くなっている。
彼女の幼馴染である俺は、それがどんな意味を示す表情なのか、よく知っている。
これは、怒りの形相だ。
「私、どうやら大きな勘違いをしていたみたい。松下は病弱少女を妄想するために屋上に行ったわけではなかったってことね」
「い、いや、本当は妄想するために行ったんだけど、今日はそこに変な女がいて、それどころじゃなくて……」
「死ね!!!」
「ぐはっ!?」
俺は委員長渾身の右ストレートを顔面に喰らい、錐揉み回転で吹っ飛ばされた。
うつ伏せに床に落ちた俺に、委員長は踏み付け連打で追い討ちを掛け、それから吐き捨てるように言う。
「もう、勝手にすれば! 部外者だか何だか知らないけど、その美人さんと好きなだけ密会してればいいわよ! あーあ、わざわざ探しに来て損した! 最悪!」
ふんと鼻を鳴らして、委員長はどすどすと大きな足音を立てながら、教室の方へ一人歩いて行ってしまう。
「何なんだ、今日は……」
とんだ厄日である。
変な女には会うし、委員長を怒らせてしまうし。……いや、委員長を怒らせてるのはいつものことか。
顔を上げて、委員長の後ろ姿を見る。
幼い頃から何度も見続けて来た、小さくも力強い背中。
――誰に使うかは君の自由。好きな女の子を風邪にするといい。もしかすると、普段とは違った一面を見られるかもしれないぞ?
あの美人さんを変態の神様と認めたわけじゃない。彼女の言葉なんか、全然信じちゃいない。
だけどもし、俺にそんな力があるのだとしたら。
「俺は、一度でいいから、弱々しい委員長ってものを見てみたいよ……」
まぁ、あり得ないな、そんなこと。
「ぐふっ……無念」
俺はそこで全身の力を失い、額を冷たい床に打ち付けて、力尽きた。
委員長は、初めて会ったその日から、委員長だった。
梅宮加奈という少女が俺――松下幸一の通う小学校に転校して来たのは、小学三年生になって初めての登校日、つまりは始業式の日のこと。
「今日からこの学校に通うことになりました。梅宮加奈です」
教卓の横に立ち、緊張している様子もなく、ハキハキと自己紹介をする彼女の姿を見て、俺は「委員長タイプだな」と自分の中の第一印象を確定させた。
何しろ彼女は、その時から既に、トレードマークの赤フレーム眼鏡と三つ編みをセットにしていた。
「はい、じゃあ、加奈ちゃんの席は、幸一くんの隣ね」
先生がそう言い、彼女は教室の一番後ろの空席、俺の隣へとやって来る。
「あの」
そのまま席に座るのかと思いきや、彼女は俺に声を掛けて来た。
「えっ、俺?」
「うん。ええと――」
彼女は何やら決意したような顔で、こちらに手を差し出してくる。
「今日からよろしくね!」
「お、おう」
謎の気迫に気圧されつつも、握手する。繋いだ手を、ぶんぶんと激しく上下に振られる。
「よしっ!」
それから彼女は微笑む。
近くで見る転校生の少女は、意外と可愛らしかった。
そんな始業式の日から一ヶ月が経ち、明るくて男勝りなキャラクターで、委員長はあっという間に人気者になり、クラスに打ち解けていった。
俺が推薦したことで、俺の第一印象のまま、委員長は我らがクラスの学級委員長になり、俺の彼女に対する呼び方は「委員長」で固定された。
一方、
「こーちゃん!」
委員長は、未だかつて誰も呼んだことのないあだ名で、俺を呼ぶようになっていた。
「その呼び方止めろって」
「そんなことより、昨日の宿題やって来た? 二人で答え合わせしようよ」
「しまった、忘れてた!」
「もう、仕方ないなぁ、こーちゃんは。ほら、分からないところは私が教えてあげるから、今からやろう!」
「えー」
委員長の引っ越してきた場所が、俺の家の隣だったことが原因なのか、必然的に顔を合わせる回数が多くなり、出会って一ヶ月で、すっかり幼馴染みたいな関係と化していた。
この頃の委員長とは、まだ良好な関係を築けていたと思う。良い幼馴染だった。
けれど、忘れてはいけない。
俺には『病弱萌え』という抑え難い性癖が存在していることを。
そして、この頃既に、俺の性癖は開花していた。登校二日目の委員会決めの時、俺は梅宮加奈を学級委員長に推薦する一方で、保健委員に全力で立候補、競争率故にジャンケンなどするまでもなく、そのポジションを確保していたのだった。
保健委員の仕事は最高に楽しかった。思い返しても、あれ程に自身が輝いていた時期はないと思う。
保健室のどこに何の薬があるかを全て暗記し、養護教諭の出番を無くすくらい、女の子限定で、看病やら治療やらを率先してやった。幸せだった。興奮した。
そうして、委員長が転校して来てから半年くらい経ったある日、俺は委員長に、グーパンチで思いっきり殴られた。口の中を切って、出血するくらい強烈な一撃だった。
当時、クラスメイトに喘息持ちの滝沢美癒という女の子がおり、その日、彼女は体育の授業中に軽い発作を起こして、俺が彼女を保健室に連れて行った。それは一度だけではなく、これまでも割と頻繁にあることだったのだが、教室に戻ると、委員長が妙に不機嫌そうな顔をして聞いて来た。
「こーちゃんはさ、美癒ちゃんにはいつも優しいよね」
「だってさ、凄く可愛いんだもの」
「そ、それってつまり、こーちゃんは美癒ちゃんのことを……」
「ん? ああ、違う違う。そういう意味じゃないって。ただ、俺は病弱な女の子ってやつが大好きでさ」
「え……?」
「発作起こしてる時の滝沢さん、何かこう、しおらしいっていうか、素の可愛さが出てるっていうか、めちゃくちゃ魅力的なんだよ! こう、萌えぇぇぇ! って感じで!」
「それ……本気で言ってるの?」
「当たり前だろ。俺はいつでも本気だぜ!」
そこまで言った直後に、拳が飛んで来た。
殴られて、吹っ飛ばされて、教室の机を巻き込んで、転がる。ざわつく教室内。
俺は驚いて、殴られた痛みも忘れて、ただ呆然と委員長の顔を見返すことしか出来ない。
「い、委員長……?」
「最低……!」
今まで見たこともないような委員長の顔が、そこにあった。
怒りや軽蔑、失望といった感情がごちゃ混ぜになった表情。俺はその時彼女が見せた表情を、一生忘れることはないだろう。
「こーちゃんはさ、病気になったことないの? 風邪とか引いたことあるでしょ? だったら、病気の人の気持ちも分かるはずだよね? 苦しいんだよ、病気って。とってもとっても苦しいの。中には、一生治らない病気の人だっている。常に苦しさを我慢しながら生きて行かなきゃいけない人だっているんだ。喘息だってそう。発作の時は物凄く苦しいに決まってる。私は発作になったことはないけれど、でも、これだけは分かる。喘息は絶対に幸せなものなんかじゃない。だから、それは絶対に喜んだりしちゃいけないことなんだ。こーちゃんみたいに健康な人には分からないかもしれないけど、実際に病気にかかっている人からすれば、笑い事じゃない。こーちゃんのやってることは、人の不幸を見て、喜んでることと同じだよ。最低の人がやることだ!」
怒っているのは委員長の方なのに、彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「私、まさか、こーちゃんがそんな人だとは思わなかった……!」
俺は何も言い返せなかった。
結局、騒ぎを聞きつけた先生がやって来るまで、俺は床に座ったままで、委員長もその場に立ち尽くしていた。
保健室で頬っぺたに湿布を貼り付けられながら、先生に「何があったの?」と尋ねられても、俺は上手く答えられなかった。
そのまま母親が迎えに来ることになって、早退して、家で着いて、部屋で一人になって、そこでようやく冷静に考えられるようになった。
一晩考え続けて、翌日、頬っぺたの湿布を張り直してから、家を出た。
そこで丁度、隣の家から出て来る委員長に出くわした。
彼女は俺の顔を見て、ぎょっとする。委員長の目は、どのくらい泣いたのか、凄く赤かった。
目を反らしながら、委員長は言う。
「わ、私、謝らないから。間違ったことは言ってないもの」
「ああ」
「……それじゃ。私、先に行くから――」
「待ってくれ、委員長」
「な、何よ」
俺は道路に膝を着く。額を地面に叩きつけるように土下座した。
「ごめん!」
「え?」
「俺、昨日委員長に殴られて、家に帰って一晩考えて、自分が病気にかかっている人のことを少しも考えてなかったっていうのがよく分かった。委員長の言うとおり、俺が間違ってた。俺は確かに、最低なことをしてた。今日、学校に行ったら、滝沢さんにも謝ろうと思う。だから、その前に委員長にも謝っておこうと思ったんだ。委員長の信頼を裏切って、ごめんなさい」
委員長は最初、何も言わなかった。しばらくしてから、口を開く。
「……土下座なんて、止めてよ。分かったから、とりあえず、顔を上げて」
俺は言われるままに、顔を上げる。
複雑そうな表情の委員長が、こちらを見下ろしていた。
「何で謝るのよ……これじゃ、私が馬鹿みたいじゃない。本当はもっと、というかもう二度と口も利かないものだと思ってたのに……どうしてあんたは……」
「だって、委員長、とっても悲しそうな顔をしてたから」
「私が……?」
「うん。委員長の顔を見て、俺はとんでもないことを仕出かしてしまったんだなって思った。そんな顔をさせたのは俺なんだって思ったら、何だか凄く、自分のことが許せなかった」
「……馬鹿じゃないの」
委員長は再び目を反らす。
俺の目の前に、手の平が差し出される。
「委員長?」
「ほら、いつまでも地面にへばり付いてないで、学校行くわよ。手を貸してあげるから、さっさと立ちなさい」
「あ、ああ」
俺はその手を取る。小さくも、温かい手だった。
それから、いつも通り、二人で学校に行った。
俺は滝沢さんに包み隠さず全部話して、謝って、思いっきり平手打ちされた。けれど、彼女は「私をちゃんと看病してくれたから、これでお相子」と言って、笑顔で許してくれた。その言葉に、胸が締め付けられるように痛くて、俺は泣きそうになった。
もう二度と、病弱萌えの性癖を表に出さないと、その時心に決めた。
また、委員長はそれ以降も、俺と普通に接してくれた。
ただ、以前と変わったのは、委員長が俺を「こーちゃん」と呼ばなくなったことだ。
「松下!」
委員長は高校二年生の今現在に至るまで、俺のことをそう呼ぶようになる。
思えば、異変の兆候は、今朝方に既にあった。
小学三年生の喧嘩以前は、毎日俺の家のチャイムを鳴らし、「こーちゃん、一緒に登校しよう!」と迎えに来てくれていた委員長だが、喧嘩以降はそんなこともなくなった。
とはいえ、習慣というのはなかなか変わらないものらしく、俺が家を出る頃に、大抵委員長も隣の自宅から顔を出し、何だかんだで一緒に登校するというのが、高二の現在まで続いていた。
しかし、今朝は、俺が家を出ても、委員長が自宅から出て来ることはなかった。
(委員長、今日は日直か何かだったっけ?)
まぁ、大方何かの用事があって、先に登校したのだろうという結論に達し、俺は特に気にもせず、一人で登校した。
ところが。
「へ? 委員長が休み?」
「うん。なんでも、風邪を引いたんだってさ」
朝のHRが始まっても委員長が教室に現れず、さすがに気になったので、委員長と仲の良い女子に尋ねると、そんな答えが返って来た。
「つーか、松下。そんなこと、わざわざ私に聞かなくても、自分の携帯使って、メールなり、電話なりすればいいじゃん」
「あのな……お前、委員長が俺にメールアドレスとか電話番号を教えてくれると思うか? ただでさえ目の敵にされてるのに」
「一つ聞いていい?」
「何だよ」
「それって、加奈に面と向かって言って断られたの?」
「いいや。ただ、聞かなくても大体想像出来るだろう、そんくらい。『は? 何で私があんたみたいのとメアド交換しなきゃいけないわけ? 馬鹿じゃないの?』と罵倒された挙句、断られるのが、目に見えてる」
「ふぅん。……松下、私からあんたに一つ、アドバイスをあげるわ」
「アドバイス?」
「おそらく加奈は、メアドのことに限らず、あんたが何かしら行動を起こす度、一言一句違わず、あんたの想像通りの言葉を返して来るでしょうね。けれど、あんたはそれでも加奈に、もっと行動を起こしなさい。罵倒されようが、殴られようが、構わない。あんたはもっと、加奈に立ち向かうべきよ。真正面から戦うの。そうすりゃ、加奈は、あんたに正直な気持ちを見せてくれるはず。必ずね」
「? よく分からないけど……覚えとくよ」
ともかく、委員長が風邪を引いたことは間違いないようだった。
どうしても認めたくない存在――自称・変態の神様であるが、そいつの言うとおり、風邪を引いた弱々しい委員長が見たいと俺が願った結果、それが実現してしまった。
何とも複雑な気分だ。決して嬉しくはない。だが、委員長の風邪を引いた姿が見たくないかと問われれば、それは嘘になる。
見舞いに行くべきなんだろうか。
だが、行ったら行ったで「病弱な私を見て楽しい? この変態!」と罵倒されそうな気がする。委員長が喜ぶとは思えない。
放課後になるまでの間、色々考え続けた。そのことばかり考えていたせいか、今日は屋上に行く事もなかった。
学校の帰りに、駅前のケーキ屋に行って、ショートケーキとチョコレートケーキ、モンブランケーキを買った。
自宅に帰り、他の荷物を置いてから、今日の授業のノートとプリント、買ったケーキを持って、我が家の隣――委員長の家の前に立った。
「結局、見舞いに来てしまった……」
ケーキまで買ってしまったので、今更退けないのだが、正直、気持ちはまだ揺らいでいたりする。
ここに立っている理由の一つは、もし仮に昨日会った美人さんが本物の変態の神様であり、彼女が俺に与えた力のせいで委員長が風邪になったのだとすれば、それは他でもなく俺のせいだからだ。見舞いに来ないわけにはいかない。
二つ目は、クラスメイトの女子の言葉。罵倒されようが、殴られようが、委員長に行動を起こせというアドバイス。ただし、今回の見舞いという行動が、それに該当するのかどうかは不明。
そして、三つ目は、俺が純粋に、委員長の顔が見たいと思ったからだ。風邪を引いた委員長を見たいという好奇心もあれば、幼馴染として心配だというのもある。とにかく、委員長の顔が見たい。
「まぁ、もしも怒られたら、その時はケーキだけ渡して、大人しく帰ればいいか。……よし、行こう」
数分の間、委員長の家の前を行ったり来たりで悩んだ末、覚悟を決めて、チャイムのボタンを押す。
しばらくして、玄関の扉を開き、委員長のお母さんが顔を出した。
「あら、幸一くんじゃない! 家に来るの、何年ぶりかしら。ひょっとして、加奈のお見舞いに来てくれたの?」
「どうも、ご無沙汰してます。委員長――ええと、加奈さんの具合はどうですか?」
「心配させてごめんなさいね。でも、そこまで酷い風邪じゃないのよ。熱も大して高くないから、おそらく今日一日休めば大丈夫だと思うわ」
「そうですか。えっと、それで、その……」
俺は意を決して、委員長のお母さんに言う。
「か、加奈さんに会いたいのですが、家に上がらせて頂いても大丈夫でしょうか!?」
お母さんは「あら」と頬に手を添えて微笑んで、
「ふふっ、勿論。その方が加奈も喜ぶと思うわ。ささ、上がって上がって」
お母さんに促されるまま、家の中に上がる。
俺はそこで「お口に合うかどうか分かりませんが、これを買って来ました。良かったら、後で加奈さんや旦那さんと一緒に食べて下さい」と、買って来たケーキの箱をお母さんに手渡す。
「あら、いやだ。お隣さんで親しい仲なんだから、そこまで気を使わなくてもいいのに。でも、せっかくだから、お茶の用意をして、後で二階に持って行ってあげるわね」
「あっ、いえ! そんな、お構いなく! 委員長の様子を見たら、すぐに帰りますので!」
首を横に振って遠慮するが、お母さんに「久しぶりに家に来たんですもの。どうかゆっくりしていって」と言われては、断ることも出来ない。
とりあえず俺は、委員長の顔を見る為、階段を上がり、『加奈』というプレートが下げられた部屋の前に立った。
一度深呼吸をしてから、扉をノックする。
「んー、誰ー? お母さんー?」
部屋の中から、妙に間延びした声。いつもに比べて、相当柔らかいが、それは間違いなく委員長の声だった。
「えっと、委員長、俺だ。松下。見舞いに来たんだけど……」
「ま、ままま、松下ぁ!?」
ドン! と部屋の中で大きな音がする。それから委員長は上擦った声で、
「じゃあ、さっきのチャイムはあんたが……! な、何でここにいるのよ!?」
「いや、だから、見舞いに……」
「見舞いって……!」
それきり、委員長は沈黙する。
いつまで経っても言葉が返って来ないので、俺の方から尋ねる。
「その……やっぱり、迷惑だったか? えっとだな、とりあえず、今日の授業のノートとプリントのコピーを持って来たんで、それはお母さんに渡しておくな。それから一応、見舞いってことで、委員長の好きなモンブランケーキを買って来たから、良かったら、後で食べてくれ。……まぁ、委員長の声を聞く限り、元気そうで良かったよ。それじゃ、俺、帰るから。どうかお大事に――」
「ま、待ちなさいよ!」
踵を返そうとしたところで、委員長の声が掛かる。
「委員長?」
「別に、迷惑だなんて言ってないじゃない! ただ、まさか松下が見舞いに来るなんて思いもしなかったから、混乱しただけよ。仕方ないじゃない! 何の予告も無しに来る、あんたの方が悪いのよ!」
「ご、ごめん」
そこで再び、会話が途切れ、沈黙が下りる。
委員長の許可が下りていないので、部屋の中に入ることは出来ず、俺は扉の前で立っていることしか出来ない。
(何だろう、この状況。見舞いに来たこと自体は迷惑じゃないみたいだけど、部屋の中には入れて貰えない……)
俺はどうするべきなんだろうか。会話も上手く続かないし……。
そこでふと、今朝、クラスメイトとの女子の会話を思い出す。
――あんたはそれでも加奈に、もっと行動を起こしなさい。罵倒されようが、殴られようが、構わない。あんたはもっと、加奈に立ち向かうべきよ。真正面から戦うの。そうすりゃ、加奈は、あんたに正直な気持ちを見せてくれるはず。必ずね。
俺は、委員長には怒られ慣れてる。だったら、行動しないよりは行動した方がいい。
「委員長」
「何よ!」
呼んだだけで怒られた。既に怒鳴り声だった。何故!? と思わずにはいられないが、俺は言葉を続ける。
「部屋に入っちゃ駄目か? 俺、どうせなら委員長と面と向かって話がしたいんだけど」
「……勝手にすれば!」
「え? マジで?」
唖然となった。押してみたら、あっさりと許可が下りた。
女って、よく分からん。
「それじゃあ、失礼して……」
ドアノブを回し、部屋の扉を開ける。
昔、何度も来たことがあるはずなのに、目新しい、新鮮な光景がそこに広がっていた。
足を踏み入れた委員長の部屋は、過去の記憶以上に、女の子らしい部屋に様変わりしていた。
カーテンの淡いピンク色、本棚に並べられた少女漫画、棚に並べられた動物のぬいぐるみ。一番多いのはウサギのぬいぐるみで、白、黒、茶、と様々なバリエーションがある。
ベッドの布団もウサギ柄だった。
そして、そんなベッドで仰向けに寝ている委員長は……。
「こほっ、こほっ」
三つ編みの黒髪は解き、ロングヘアーにしており、額には冷えピタを張っていた。顔は仄かに赤く、時折、小さな咳を漏らしている。
赤フレームの奥の瞳は潤んでいたが、それでも眉根に皺を寄せ、強気な顔を作りながら、委員長は言った。
「女の子の部屋を、あんまりじろじろ見ないでよ」
「うっ……!」
俺は思わず、たじろいだ。
正直言って、委員長はめちゃくちゃ可愛いかった。身も蓋もない言い方をすれば、激しく興奮した。
風邪を引いた委員長は、俺の愛すべき病弱少女へと変貌を遂げていた。
「何よ、その目は。病弱な私を見て楽しい? この変態!」
そして、罵倒は予想通り過ぎた。
けれど、扉越しで声を聞いていた先程までとは違い、今の委員長を目の前にして言われると、全く罵倒されているように感じない。強がって、無理矢理罵倒しているのが明らかだからだ。
どうしよう、不謹慎だと分かってるのに、凄く萌える。
「た、楽しんでなんかいない! ただ、委員長の雰囲気がいつも違うから、戸惑ってるだけで……!」
「弱々しくて悪かったわね! 私は病気ってものが嫌いなのよ! 風邪でも何でも、病気にかかると不安になるの!」
「不安?」
「っ……!」
失言でもしたかのように、目を反らす委員長。
いつもは元気で力強い委員長でも、やっぱり不安になる時があるんだな、と俺は思った。
話題を変えるため、俺は「あっ、そうだ、委員長」と手に持っていたノートと、プリントを差し出す。
「これ、さっき言ってた、今日の授業分のノートとプリント。まぁ、汚い字だけど、割と正確に先生が話したことを書き写した自信がある。分からないところがあったら、後で質問してくれ。ノートは購買で百円で買ったやつだから、別に返さなくてもいいぞ。いらなかったら、俺に返すなり、自分で煮るなり焼くなり好きにして貰って構わない。プリントは全部で三枚。数学の宿題が一枚と、社会と理科の資料で一枚ずつ。数学の宿題は、明後日の授業に提出だってよ」
「そ、そう」
受け取った委員長は、ノートをぱらぱらとめくり、それから俺の顔を見る。
「松下」
「うん?」
「言わないと、寝覚めが悪くなりそうだから、一応言っとく。……ありがとう」
一瞬、何を言われたのか、よく分からなかった。
俺はまじまじと委員長の顔を見る。
「委員長」
「な、何よ」
「熱でもあるのか?」
「あるわよ! あんたここに何しに来たの!?」
「あっ、そうだった」
委員長の反応がいつも違い過ぎて、混乱してしまったが、委員長は風邪を引いているんだった。
それにしても、まさか委員長にお礼を言われるとは。
「あのね、私だって、親切を受ければ礼くらい言うわよ。ただ、あんたの場合、日頃の行動が私に迷惑を掛けるものばっかりじゃない。そりゃあ、罵倒する方が多くもなるわよ」
「返す言葉もございません」
「とりあえず、立ちっ放しで話すのも何だから、座ったら? 私の方も落ち着かないし」
「えっ、俺、まだこの部屋に居てもいいの?」
「……あんた、私を何だと思ってるわけ? 見舞いに来てくれた相手をすぐ叩き出したりなんかしないわよ」
ノート&プリントを渡し、委員長の顔を見るという目的は果たしたので、さっさと退散しようと思っていたのだが、委員長が居てもいいと言うのなら、もう少し可愛い彼女の姿を見ていたい。こんな機会は、おそらく滅多にないだろうから。
俺は「失礼します」とベッドの横に正座する。
委員長が怪訝そうな顔をした。
「何故に正座?」
「いや、何となく。女の子の部屋だから、妙に緊張するというか」
「なっ……馬鹿じゃないの!? 何を変に意識してるのよ! 幼馴染の部屋でしょ!? というか、小学生の頃、頻繁に遊びに来てたじゃない!」
「でも、それって、俺の病弱萌えが発覚して、喧嘩する前の話だろ。日常的に来ているならともかく、もう八年も前じゃないか。さすがにそれだけの期間来てないと全然違うよ。家具の配置も違うし、前より女の子らしい部屋になってて、驚いた」
「……そう。それもそうか。八年も経ったんだもんね」
部屋を眺めていた俺は、委員長の声色の変化に、視線を戻す。
委員長はどこか寂しそうな顔をしていた。
「松下はさ」
「うん」
「どうしてあの日以来、家に遊びに来なくなったの?」
「え? それは……」
そう言えば、何でだろう。それまでは、自分の家の延長であるかのように、委員長の家に出入りしていたのに。
小三の頃、委員長に殴られてから、ぱったりと、それこそ一度も委員長の家に行かなくなった。
ふと、委員長がこちらを見る。何かを訴えるような表情で、
「それって……やっぱり私のせい?」
その時、部屋の扉が開く音がする。
振り返ると、委員長のお母さんが、お盆にモンブランケーキとショートケーキとティーカップを乗せて、中に入って来るところだった。
「加奈、幸一くん、お土産のケーキと紅茶を持って来たわよ。幸一君はショートケーキで良かったかしら?」
「あっ、はい。俺はどれでも大丈夫です」
「お母さん! 部屋に入る時はちゃんとノックしてよ!」
「あら、ひょっとしてお邪魔だったかしら。ごめんなさいね、加奈」
「そ、そういう意味じゃなくて!」
委員長の言葉の意味が気になるところだったが、話はそこで中断され、委員長のお母さんを交えて、しばし世間話をした。
内容は主に、俺が梅宮家に出入りしなくなったことについて。委員長のお母さんは、俺の母親と仲が良いので、そのことについてよく話し合うのだそうだが、どうやら二人の見解では、俺が思春期なので恥ずかしがっているということになっているらしい。
「幸一くんが家に来なくなって、お父さんも寂しがっているのよ。だから、迷惑だとか、恥ずかしいとか考えなくていいから、いつでも遊びに来てね。幸一くんは私達にとって、隣に住む男の子なんかじゃなくて、息子みたいなものなんだから。それに、その方が加奈も喜ぶし」
お母さんの言葉に、ぎょっとする委員長。
「な、何で私が、松下が遊びに来て喜ばなくちゃいけないのよ!」
「加奈もツンケンしてないで、いい加減素直になりなさいな。家だと、いつも幸一くんの話ばかりしてるじゃない」
「ちょっ……何言ってるの、お母さん!?」
「それに何よ、『松下』って。家では一度たりともそんな呼び方したことないじゃない。いっつも、こーちゃん、こーちゃんって……」
「だぁぁぁ――ッ!!!」
委員長が吼えた。ベッドから飛び出して、お母さんの口を塞ぐ。
「出てって! 今すぐ部屋から出てって!」
「ああもう、面倒臭い子ね。分かったわよ。幸一くん、ゆっくりしていってね」
「いいから早く!」
「はいはい」
委員長は真っ赤な顔をしながら、お母さんの背中を押し、部屋から追い出す。
勢い良く扉を閉じ、興奮冷めやらぬ様子で、きっ! と俺を睨んだ。
「今の話、どこまで聞いたの!?」
「えっ、どこまでって……」
「そ、それは、だから、私が家で松下をどう呼んでるか……と……か?」
無理に運動をしたせいか、委員長は身体をふらつかせ、その場に崩れ落ちそうになる。
「お、おい! 大丈夫か、委員長!?」
俺は慌てて立ち上がり、委員長を支える。
「うぅ……お母さんの馬鹿……!」
俺の腕の中で呻く委員長。
ここは何も聞かなかったことにして、誤魔化すのが正しいのかもしれない。
けれど、俺は、言わずにはいられなかった。
「委員長、未だに俺のこと、『こーちゃん』って呼んでくれてたのか」
かあぁあぁぁあっと赤い顔を更に赤くする委員長。見られまいと両手で顔を押さえる。
「だ、だって……だって……!」
「喧嘩したあの日以来、ずっと『松下』って呼び方だったから、もう二度と呼ばないものだと思ってた」
「私だって、そのつもりだったわよ!」
「あのさ、俺からも一つ聞いていい?」
「何よ!?」
「委員長はさ、何で『こーちゃん』って呼ばなくなったんだ? それって、やっぱり……俺のせいか?」
耳まで真っ赤な委員長が俺の顔を見上げる。恥ずかしさが有頂天に達しているのか、目尻には涙が浮かんでいる。
俺は彼女に言う。
「俺があの時、委員長の信頼を裏切ったからか?」
「違う!」
委員長は叫んだ。
「あんたのせいとか、そんなんじゃない! それだけは違う!」
「そう、なのか?」
「あれは私が……」
俯く委員長。消え入りそうな声で、彼女は告げる。
「恥ずかしかったから……」
「え?」
「恥ずかしかったの! 喧嘩して、もう口も利いて貰えないと覚悟を決めてたのに、あんたが翌日に会うなり土下座して来て、平謝りするもんだから、どうしていいか分からなくなったの! 悪い!?」
両手で握り拳を作って、ドカドカと俺の体を叩いて来る。
「だって、仕方じゃない! 私の方からは謝らないって、直前に言っちゃったし! 喧嘩して罰が悪くて、前みたいな態度はすぐに取れないし! そんな状況で、どうやってこーちゃんって呼べって言うのよ!?」
「お、落ち着け、委員長」
「結局そのまま、今みたいになって! 態度なんか今更変えられないし! 呼び方も松下になっちゃうし! 私だって、私だってね――」
委員長は何もかも全部吐き出すかのように、大声で言い放った。
「こーちゃんって呼べるもんなら、今でも呼びたいわよ!!!」
唖然となった。
おそらく俺は今、相当間抜けな顔をしていると思う。
興奮で息を荒くしていた委員長は、最初どこを見ているのかも分からない状況だったが、しばらくして頭が冷えてきたのか、相変わらず赤い顔ながらも、こちらを見上げてくる。
目が合った。
「ぎ……」
耳まで赤かった委員長は、もはや赤を通り越して、全身深紅になった。
「ぎゃあぁぁぁ――ッ!!!」
「ごふっ!?」
俺の身体を突き飛ばし、委員長はベッドに走って、そのまま毛布を被り、丸くなる。
「うわぁああぁああぁあぁあぁぁぁーん!!!」
そして、泣き出す。
「聞かれたぁぁぁー! こーちゃんに全部聞かれたぁぁぁー! もう駄目だぁぁぁー! 死ぬしかないぃぃぃー!」
一方の俺は、先程から何が起こっているのか、理解が追いつかない。
えっと、これはどういうことだ? 委員長は、家では俺のことを昔のまま『こーちゃん』と呼んでいて。あの日以来呼ばなくなった原因は、俺のせいではなく、単純に恥ずかしいからで。
「それって……」
俺は立ち上がり、未だ泣き声を上げ続ける委員長の近くに歩み寄る。
「委員長」
「うるさい! 見るな! 私を見るな!」
「俺さ、勘違いしてたみたいだ。委員長のこと」
「何よ!? 笑う気!? 笑えばいいじゃない!」
「笑わないって、別に。俺、委員長が自分のこと嫌いじゃなかったんだって分かって、凄く嬉しかったし。……でも、俺の方は、ずっと委員長に嫌われてると思ってた」
委員長が、ぴたりと泣き止む。
俺は言葉を続ける。
「俺は……委員長が俺のことを『こーちゃん』って呼ばなくなったのは、委員長が俺に失望したからだと思ってた。委員長は優しいから俺の面倒を看てくれているのであって、委員長は俺のことを嫌ってるんだと思ってた」
「そんなこと……!」
毛布を跳ね除け、委員長が顔を覗かせる。
涙の滲んだ瞳は、真っ直ぐにこちらを捉えていた。
「そんなこと……私は一度も思ったことない……!」
「うん。だから、俺は勘違いしてたんだ。俺が委員長の家に来なくなったのは、多分、委員長に嫌がられたくないって気持ちがどこかにあって、無意識の内に避けてたんだと思う」
俺が委員長の目を見て言うと、彼女は、はっとなって毛布を手繰り寄せ、頭から被って再び丸くなる。
「……馬鹿じゃないの!」
「返す言葉もございません」
そこで会話が途切れる。
時間にして、四、五分程度だろうか。
その間に、俺は再び床に正座する。
「モンブラン!」
不意に、毛布の饅頭の中から、にゅっと手の平が伸びた。
「へ?」
「モンブランケーキ! 食べる!」
「あ、ああ、ケーキね。はい」
掌の上にケーキの皿を乗せると、委員長は毛布から顔を出し、フォークで黙々とモンブランケーキを頬張り始める。
俺も他にやることがないので、ショートケーキを小さく切り分けて口に運びながら、委員長のお母さんが持って来てくれた紅茶を飲む。
ふと、委員長が呟いた。
「風邪の日は嫌い」
「ん?」
「昔の頃の身体が弱い自分に戻ったみたいで、凄く嫌い。心が弱くなる。おかげで、こーちゃんに色々とバレるし、恥ずかしいところを見られるし……」
横目でギロリと睨まれる。
「えっと……苗字じゃなくて、こーちゃんって呼んでくれるんだ?」
意外なので訊くと、委員長は声を荒げる。
「今更隠して何の意味があるのよ! 全部、何もかも、残さずバレちゃったのに!」
「そ、それもそうか」
これ以上、その話題には触れない方がよさそうだ。
ただ、それ以外にも、気になるワードがあった。
「……呼び方のことはともかくとして、委員長。今言った、昔の頃の身体が弱い自分って……どういうことだ?」
俺の記憶が正しければ、委員長が風邪を引いたことなんて一度もないはずだ。そんな貴重な出来事、病弱萌えである自分が見逃すはずがない。
委員長は毛布から顔とフォークだけ出した状態で、淡々と語り始める。
「……私、ここに引っ越してくる前は、ずっと病院に居たの。生まれつき心臓の病気で、ろくに外にも出られなかった。当然、学校にも行けなかった」
「え? それは……マジなのか?」
「こんな嘘を言って、何の得があるのよ。……とにかく私は、七歳の時に心臓の移植手術を受けるまで、毎日、今日みたいに部屋の中に篭ってた。お母さんやお父さん、看護士さんが来てくれる時以外は、ずっと一人で、窓の外を眺めてた。私は、学校に行きたかった。友達が欲しかった」
「小学三年生まで、幼稚園とか、小学校とか、一度も行ったことなかったのか?」
「うん、なかった」
「そうだったのか……。俺、全く知らなかった……」
「そりゃそうよ。私、誰にも言ったことないもの。お母さんにも、誰にも言わないでってお願いしてた」
「どうして?」
「普通の女の子として生活したかったの。身体の弱かった自分から生まれ変わって、新しい自分になりたかった」
「委員長、今日まで一度も、病欠したこと無かったよな」
「散々気を付けて来たもの。病気になって、昔の自分に戻るのが、凄く嫌だった。自分一人だけが、別の世界に置いて行かれたような気分になるから」
「そっか……」
病弱萌えが発覚したあの時、委員長があんなにも怒って、俺を殴った理由がようやく分かった。
委員長も昔、病弱少女だったのだ。
「まぁ、移植して貰った心臓に拒絶反応は無くて、今はもうすっかり健康なんだけどね。ただ、いざ風邪を引いてみると、やっぱり不安になるなっていう、それだけの話」
そう言って、彼女はフォークに刺したモンブランケーキを口に入れる。
「委員長は……どうしてそれを、俺に話してくれたんだ? 委員長のお母さんにも口止めしてたことなんだろう?」
「私だって、本当は言わないつもりだったわよ。だけど、今日は色々発覚しちゃったし、今後面倒臭いことになるくらいなら、今の内に全部話しておこうって思ったの」
委員長は俺を見て、言った。
「そんなわけで、私にはもう、あんたに対する隠しごとは一切無い。何か文句ある?」
俺は首を横に振る。文句なんてあるはずも無かった。
「よしっ、じゃあ、寝る!」
モンブランケーキを食べ終えた委員長は、お盆の上に皿を戻し、ベッドの上で寝転がる。
俺に背中を向け、首まで毛布を被る。
「委員長?」
声を掛けるが、返事は無い。
立ち上がって様子を見ると、委員長は目を瞑り、安らかな顔をして、寝息を立てていた。
それを見ていると、俺も自然と顔が綻んだ。
「お大事に。委員長」
俺は委員長を起こさないように、ケーキの後片付けをしてから、そっと部屋を後にした。
翌日の朝。
俺が学校に登校すべく家を出ると、制服姿の委員長が門の前で待ち構えていた。
風邪は治ったのか、髪をちゃんと三つ編みにし、いつもの力強い、凛とした雰囲気を纏っている。
俺は昨日の今日で何と言ったらいいか考えた末、結局、普通に挨拶をする。
「お、おはよう」
「おはよう」
真顔でそう答えた委員長は、背中を向けて、すたすたと通学路を歩き出す。
俺がその場に立ったまま、委員長の後ろ姿を眺め続けていると、彼女は足を止めて、振り返った。
「なにそんなところに突っ立ってるの? 学校に行くんじゃないの? 遅刻するわよ」
「え? あ、ああ、ごめん」
どうやら、委員長は俺と一緒に登校する為に、門の前で待ち構えていたらしい。
俺は委員長の後ろに付き、歩いて行く。
委員長が俺を待っていたことには驚いたが、彼女が数メートル先を歩き、俺がそれに付いて行くという図式は、いつも通りだった。特に変わりが無いように見える。
「あのさ、委員長」
「何?」
俺は彼女に尋ねる。
「身体の具合はどうだ? 風邪はもう治ったのか?」
「ええ、おかげさまで。一晩休んだら、熱も引いたし、もう問題ないわ」
「そっか。それは良かった」
すると委員長は、横目でこちらを見て、ふんと鼻を鳴らす。
「そんなこと言って、本当は残念なんじゃないの? 病弱萌えであるあんたからすれば、昨日はさぞ楽しかったんでしょうね」
「まぁ、確かに、しおらしい委員長は新鮮だったけど……うん、でも、委員長は委員長だからな」
「ちょっ……それってどういう意味よ!?」
立ち止まった委員長は、むっとした顔で、俺の襟首を掴んで来る。
俺は答えた。
「委員長は、やっぱり元気な委員長が一番だってこと」
「なっ……!」
襟首から、委員長の手が離れる。
彼女はそっぽを向いた。
ふと、俺は気付く。
「あれ? 委員長。よく見ると、まだ顔が赤くないか?」
ぴとっと片手で、彼女の額に触れる。
「ほら、何かおでこも熱いし。ひょっとしてまだ、治りきってないんじゃあ……」
「ばっ……」
「ば?」
ぶるぶると委員長の肩が震える。
俺が顔を覗き込もうとすると、彼女は鋭い瞳で、きっ! とこちらを睨み、大きく腕を振り被った。
「馬鹿ぁぁぁ――ッ!!!」
「ごはぁ!?」
一日ぶりに炸裂する委員長の必殺右ストレート。
俺は空中で錐揉み回転をし、地面に背中を打ち付けて着地する。
「な、何故に……!?」
「うるさい! あんたが悪いのよ! 変態の癖に、女心が欠片も分かってないんだから!」
「さい……ですか……ぐふっ」
通学路のど真ん中で、仰向けに力尽きる俺。
「ふん!」
委員長は、くるっと背を向ける。
俺は顔を上げて、委員長の後ろ姿を見る。
幼い頃から何度も見続けて来た、小さくも力強い背中。
その光景は、いつも通りで、特に変わりが無いように見える。
ただ、いつもと違うのは、俺を見捨てず、いつまで経っても先に歩き始めないこと。
「ん」
「委員長?」
それと、起き上がろうとする俺に、手を差し伸べて来ること。
「いつまでそこに寝てるの。さっさと立ちなさいよね」
「お、おう」
そして――
「ほら、さっさと学校に行くわよ、こーちゃん!」
俺の呼び方が、変わったことだ。
「よう、少年。今日も変態を貫いてるかい?」
そいつは一昨日言ったのと寸分違わぬ台詞で、放課後、屋上に足を運んだ俺を出迎えた。
相も変わらず、深紅のスニーカーとダメージジーンズ、白いTシャツ、フード付きの黒いコートといった出で立ちで、足を組み、屋上の手摺りの上に腰掛けている。
俺は彼女に尋ねた。
「あんた、いつからそこにいたんだ?」
「いつだっているさ。神って、そういうものだよ、少年。いつだっているし、いつだっていない。どこにでもいるし、どこにでもいない」
「さっぱり理解出来ない」
「まぁ、理屈なんてどうでもいいさ。現にアタシは、君の前にこうして存在している。君はアタシに会いたくて、ここに来たんだろう? それこそ、早く恋人に会いたいと、胸を焦がすかのように!」
「胸は焦がしてねぇよ! ……でも、まぁ、ケジメって感じで、一度は会っておかないと駄目だと思った」
「うんうん、律儀だねぇ。君のそういうところ、アタシは凄く素敵だと思うよ」
明るいセミロングヘアーの美人さんは微笑みながら、夕方の朱色に染まり始めた空を背景にして頷く。
何だか、それだけで絵になりそうだ、と俺はどうでもいいことを思った。
「それで、天から見守ってたけど、どうやら少年は、病弱萌えという性癖に対して、自分なりの答えを見つけられたみたいだね?」
「まぁな。そんな大したもんじゃないけど」
「良かったら、アタシに聞かせてくれるかい?」
「俺のことは何でもお見通しじゃなかったのか?」
「勿論知ってるさ。君の心の中にある『気持ち』はね。けど、実際に言葉にするものとは違う。それはあくまで『気持ち』に過ぎない。アタシには君の『気持ち』じゃなく、言葉として『答え』が聞きたいのさ」
「よく分からないが、とりあえず言えばいいんだな?」
「うん。まぁ、神に対する決意表明っていうか、そんな感じのものだと思えばいいよ」
俺は一度、呼吸を整えてから言う。
「あんた、委員長って言って、誰だか分かるか?」
「あれだろ? 一昨日君と出会った時に、君を探して、屋上にやって来た女の子。勿論知ってるさ。変態である君に関することだからね」
「昨日、そいつが風邪を引いて、学校を休んだんだ。で、そいつの見舞いに行って来た」
「君はその子に力を使ったわけだ。それで?」
「何か、いつもの強気な雰囲気と比べて、とってもしおらしくなってて、凄く驚いた。正直、めちゃくちゃ可愛いかった。だけど……」
「だけど?」
「そいつ、昔、心臓の病気で外に出られなかったんだって、俺に打ち明けて来た。だから、風邪を引いて、凄く不安になったって。委員長、もともとは病弱少女だったんだ。俺、それを知って、何か……違うなって思った」
「ほう」
「俺は、やっぱり変態なんだと思う。今でも病弱少女が好きで仕方がない。だけど、風邪になった委員長を見て、俺はあいつに元気になって欲しいって思った。いつも通りの委員長でいて欲しいって思ったんだ。だから――」
美人さんの顔を見て言う。
「俺はこれから、病弱萌えの変態であるにしても、病弱少女が病気に苦しんでいる弱々しい姿にじゃなくて、病弱少女が病気を克服して、元気に笑う姿に幸せを感じたいと思う。同じ変態なら、俺はそういう、病弱少女の幸せを願える変態になりたい」
「そうかい」
彼女は腰を上げ、手摺りの上に立った。
白い歯を見せて、にかっと笑う。
「少年、実に面白い答えだ」
「そりゃどうも」
美人さんはそこで「んー!」と大きく伸びをする。
「さて、少年の悩みは解決したようだし、アタシはそろそろ行くとしますかね」
「行くって、どこに?」
「どこって、決まっているじゃないか。次の迷える変態の元へだよ。もう少しここで遊んでいてもいいけど、アタシら神は時間っていう概念を忘れがちだから、油断してると、あっという間に消滅しちまう」
「まるで本物の神様みたいなことを言うな、あんた」
「え!? ちょっと待て少年! まだアタシが神だって信じてなかったの!?」
「当たり前だ。第一、あんたは俺の想像してる神様とイメージが違い過ぎる」
「くっ……せっかく力を貸してあげたのに、何という仕打ち……!」
よよよ、と泣くフリをする美人さん。
「じゃあ、一応聞くけど、その力とやらを貸した代わりに俺から貰うものって何なんだよ? 確か、一昨日、ギブアンドテイクだって言ってたろ。俺はまだ、あんたに何も渡してないぞ。人間から何かを貰わないと、消滅するんじゃなかったのか?」
「ん? ああ、それならもう、君から既に貰ってるから、問題ないよ」
「もう貰ってる? 何を……って、まさか、俺の寿命とかか!?」
想像して、ぞっとする。
美人さんは、ぷっと噴き出して、「取らん取らん」と手の平を振った。
「アタシが君から貰ったものは、君の私に対する『認識』だよ、少年」
「認識?」
「そう、認識。詳しく言うと、君の記憶の枠を一部、アタシに提供して貰うって感じかな。まぁ、要するにだ、少年。君には、アタシという存在がここにいたことを、生涯の間、覚えておいて欲しいんだよ」
「それは一体、どういうことなんだ?」
「神ってのは、人間にしか見えない。人間しか認識出来ない。アタシの場合は、変態しか認識出来ない。それは一昨日説明したよね?」
「ああ」
「それはつまり、逆に言えば、アタシを認識出来る変態がこの世から居なくなったら、アタシはこの世に存在してないのと同じことになる。すなわち、神の消滅さ」
「……何となくだけど、あんたを覚えてる人間が、この世に一人も居なくなったら、あんたは消滅しちまうってことか?」
「そういうことだね。神の死ってのは、人に忘れられることなんだよ。人間はどんなに長生きしても、およそ百年で死んでしまうだろう? だから、神は定期的に、新しい人間に自身を認識して貰わなくてはならない。記憶に残して貰わなくてはならないのさ」
「なるほどな……」
美人さんの綺麗なセミロングを、秋風が揺らす。
俺はふと、誰かに自分を忘れられるのってどんな感覚なんだろうと思った。
少し想像して、何だか寂しくなった。
「……まぁ、どっちにしたって俺は、あんたのことは一生忘れねぇよ」
「ん?」
「あんたみたいな強烈な電波キャラ、忘れられるわけないだろ。嫌でも覚えてるさ、死ぬまでな」
「ははっ、それは褒め言葉として受け取っておくよ」
彼女はそうして、鈴を転がすように笑って。
「じゃあな、少年。委員長のこと、大事にしなよ」
一陣の強い風が吹くと同時に、美人さんの姿は、屋上のどこからも消えて、居なくなっていた。
「……全く、消えるのが一足早いんだよ」
俺は未だ、彼女を神様だと認めたわけじゃない。
けれど、他に言う相手も見つからないし、言わないとどうにも気持ちが悪いから、とりあえず、この世界のどこかにいるであろう存在に対して、俺は言っておくことにする。
「ありがとな、変態の神様」
どこかで誰かが、くしゅん、と小さなクシャミをした気がした。