置いてきたもの
置いてきたもの
全国大会が終わって、霞北へ帰ってきた。
でも、何かが変わったわけではなかった。
学校はいつもの学校だった。
蝉が鳴いていた。
体育館は暑かった。
道場へ行けば、昨日までと同じように畳があって、サポーターが転がっていて、誰かの飲みかけのスポーツドリンクが置いてある。
全国ベスト8。
日本武道館で三つ勝った。
城徳と戦った。
あと一点だった。
それなのに帰ってくると、全部がずいぶん遠いことのように思えた。
熱だけを、武道館に置いてきたような気がした。
あの試合が終わったあと。
小松崎先輩は、不思議なくらいさっぱりした顔をしていた。
負けたのに。
最後の試合に二対〇で勝ったのに。
あと一点届かなかったのに。
「ありがとうございました」
小松崎先輩は、大島先生に頭を下げた。
風呂さんにも。
かなにも、栞にも。
それから僕たちにも。
「一年間、楽しかったよ」
そんなことまで言った。
熊谷先輩が最初に泣いた。
「すみません……」
小松崎先輩は笑った。
「なんで桜太郎が謝るんだよ」
「でも……」
隣で神戸先輩まで顔を伏せた。
二人とも大きいから、小松崎先輩よりずっと頭が高い。
なのに小松崎先輩は二人の頭を抱えるようにして、ぐしゃぐしゃ撫でていた。
「いいって」
熊谷先輩が泣く。
神戸先輩も泣く。
「先輩、すみません」
「だから謝んなって」
その横では、もっとひどいのがいた。
山口だった。
あんな山口は初めて見た。
声を押さえることもできずに泣いていた。
かなが隣で、
「郁人、もういいって」
と何度も言っていた。
「だって……」
山口は何度も同じことを言った。
「あれ、入ってたんだよ」
最後の中段蹴り。
残り、ほんのわずか。
加藤に入った。
でも時間外だった。
「あれが突きだったら間に合ったかもしれない」
「郁人」
「もうちょっと早く動いてたら……」
「郁人」
「俺があと一点――」
かなが遮った。
「もういいって」
それでも山口は泣いた。
一年生なのに。
まだ二年もあるのに。
でも、たぶん、そういうことじゃなかった。
山口は、小松崎先輩がいる空手部が好きだった。
いつも練習が終わってから小松崎先輩を捕まえていた。
「先輩、もう一本お願いします」
「いいよ」
「もう一本」
「いいよ」
「もう一本」
そのうち大島先生が来る。
「お前ら帰れ!」
何度見たか分からない。
それがもう終わる。
全国大会に負けたからというより、山口はそのことが悲しかったのかもしれない。
僕は――。
泣かなかった。
悔しくなかったわけじゃない。
五対一で負けた。
悔しいに決まっている。
でも、何か違った。
近本。
それがずっと頭にいた。
手を出したら、先にいた。
待ったら、刺された。
来ると思って逆突きを出したら、僕が出る前から分かっていたみたいにいなされた。
何をやっても、近本が先にいる。
その前には、比嘉もいた。
あいつもそうだった。
僕が攻撃する前に、もうそこにいた。
こっちが何をするのか、全部知っているみたいだった。
比嘉。
近本。
比嘉。
近本。
別に、二人の顔が怖いわけじゃない。
殴られるのが怖いわけでもない。
ただ。
――なんで分かるんだろう。
そればかり考えていた。
帰りの電車でも。
学校へ戻ってからも。
道場に来ても。
目の前で誰かが喋っているのに、ふっと遠くなる。
視線が定まらない。
身体だけ霞北に帰ってきて、心はまだ武道館のどこかに座っているようだった。
「佐藤くん」
横から声がした。
「ん?」
栞だった。
「なに?」
「いや……」
栞は僕の顔を見た。
それから何も言わなかった。
僕の隣に座った。
「……何?」
「別に」
「なんだよ」
「別に、いいでしょ」
それきりだった。
励ましもしない。
近本の話もしない。
「次があるよ」とも言わない。
ただ隣にいた。
しばらくして、僕はまた道場の床をぼんやり見た。
比嘉。
近本。
どうしてあんなに早かったんだろう。
どうして僕が動く前に分かったんだろう。
全国大会は終わった。
城徳との試合も、とっくに終わった。
なのに僕の中では、まだ終わっていなかった。
栞はたぶん、それに一番最初に気づいていた。
だから何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。
夏の夕方。
誰もいなくなりかけた道場で。
僕と栞は、しばらく並んで座っていた。




