4話
この物語はフィクションです。登場する人物・団体とは関係ありません。
朝、鏡の前で口角を上げる。
「よし」
そう言ってから家を出る。それが、いつの間にか日課になっていた。
高校二年生の私。教室では”ちゃんと”笑っている。
「それな〜!」
「わかる〜!」
自然に言える。みんなの輪の中にいる。嫌われているわけじゃない。むしろ、明るい子だと思われているはずだ。
家に帰ると全部が崩れる。制服のまま、ベッドに倒れ込む。枕に顔を埋める。声を殺して泣く。誰にも聞こえないように。理由はうまく言葉にできない。というより、わからない。ただ、毎日少しずつ何かが削れていく感じがする。テスト。進路。友達関係。どれも、少しずつ重い。
「大丈夫?」と聞かれれば反射で「大丈夫」と答える。それが、もう癖だった。
崩れたのは、放課後の教室。夕日が机を赤く染めている。
「最近さ、ちょっと無理してない?」
親友から突然言われた。図星だった。
「してないよ」
いつもなら、そのまま笑って終わる。でも、今日は続かなかった。
親友が心配そうにこちらを見る。
「どうしたの?」
涙が落ちた。ぽた、ぽた、と机に染みていく。
「ごめん、なんでもない」
「なんでもなくないでしょ」
その一言で、何かが切れた。
毎日辛いこと。朝が怖いこと。家で泣いていること。言葉にすると、情けなくて、でも止まらなかった。親友は最後まで黙って聞いた。
「……なんで言ってくれなかったの?」
「心配かけたくなかった」
「もうかけられてる」
強い声だった。でも、目は優しかった。
「親に言ってみよう」
「無理」
即答だった。
「余計に迷惑かける」
「迷惑じゃないでしょ」
親友は真剣だった。
「私だって今、めちゃくちゃ心配してる。でもそれ、迷惑じゃない」
その言葉が胸に刺さった。心配=負担だと思い込んでいた。
数日後。リビングで両親と向き合う。声が震えていた。毎日泣いていること。理由がはっきりしない不安。笑うのに疲れたこと。言い終わったあと、誰もすぐには何も言わなかった。怒られると思っていた。でも母は目を赤くして、私の手を握った。
「気づけなくてごめんね」
父も低い声で言った。
「一回、ちょっと離れようか」
「離れる?」
顔を上げる。
「学校とか、日常とか。気分転換」
母がスマホを手に取る。
「どこか行きたいところある?」
急にそんなことを言われて、戸惑った。行きたい場所なんて、最近考えたこともなかった。
「大袈裟だよ。そんな旅行とかいいのに」
「お母さんは少し遠くに行って気分転換するのが今のあなたに1番あってると思うんだけど。学校のことも何も考えずにただ遊びに行くだけ。ね?」
仕事で人の話を聞いている母は、こういうときだけやけに落ち着いている。私はお母さんを信じて小さく頷き、こう言った。
「……海、行きたい」
「そうだな。せっかくなら、思いきって遠く行くか」
お父さんが検索画面を見せる。
エメラルド色の海。真っ白なビーチ。
「こことかどうだ?」
画面に表示された地名を見て、胸が少しだけ高鳴る。
「……石垣島?」
沖縄の南。写真の中の海は、見たことないくらい青い。
「飛行機乗って、のんびりして、何もしない旅」
母が言う。
「どう?」
父がカレンダーを開く。
「来週の連休、空いてるな」
その光景をぼんやり見ながら、胸の奥に、ほんの少し風が通った。
全部が解決するわけじゃない。学校が急に楽しくなる保証もない。でも、今ここから少し離れてもいいって、許された気がした。
「じゃあ、予約しちゃおうか」
お母さんは笑いながらそう言った。優しい声だった。
「よし、旅行に行こう」
お父さんも優しい目をしていた。その言葉が、静かに部屋に落ちた。
私はまだ少し不安で、でも確かに前より軽い心で頷いた。青い海を、思い浮かべながら。
「よし」
もう一度だけ、呟いた。今度は、鏡の前じゃなくて、布団の中で。




